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高台から小銭を撒く人 ー マニラ 1986年

1986年といえば、38年も前のことになる。国内経済に黒雲が立ちこめている現在とは異なり、ちょうど日本ではバブル景気が始まった頃で、世相にも浮かれたような空気感が漂っていた。

私は、その3月に大学を卒業したが、最後の春休みに一人でフィリピンに4週間ほど滞在した。ちょうど、フィリピンでは、大統領選挙の開票結果をめぐる対立から政情不安に陥っていた。首都マニラでは戒厳令が出され、街中に武装した軍人が多く目につくようになり、繁華街から人通りが少なくなり、外国人が多く泊まるホテルの扉のほとんどがチェーンで鎖錠されるなど重苦しい空気が漂う一方、コラソン・アキノ候補のテーマカラーである黄色のTシャツやリボンを身につけて笑顔でデモに向かう人たちや、差し入れのランチボックスが入ったカゴを持ってデモ隊を追いかける人たちからは何かお祭りムードのようなものを感じた。

当時のマニラは、もともと治安が悪く、深刻なトラブルに巻き込まれる旅行者も多かった。私自身も、夜の早い時間帯にマニラに着いて、事前予約してあったユースホステルまでタクシーで移動したのだが、認可を受けた正式なタクシーであったにも関わらず、途中の娼館で降そうとされたりした。また、ユースホステルは相部屋で2段ベッドの1段目を使ったのだが、2段目を使っている人に挨拶しようとするも、昏昏と眠ったままで翌日も起きてこず、到着から3日目の朝にやっと目覚めて言葉を交わすことができた。聞いてみると、映画館で見知らぬ人にコーラをご馳走になり、まもなく意識が遠のいて、眠りに落ちたとのこと。所持金の大部分を抜かれてしまったが、なんとか宿に帰り着くことができたそうだ。また、街歩きの最中に、近づいてくる空港バスから日本語で大声で叫ぶ人がいるのに気づいて、手で合図すると、バスが停車した。パスポートと財布を盗まれたとのことで、その人の日本の自宅と日本大使館に連絡して欲しいと頼まれた。行きがかり上、無視はできないので、公衆電話から大使館と日本の連絡先に連絡してあげた。

マニラ市内の体感治安も徐々に悪化し、建物が貧弱で、武装したガードマンも一人しかいないユースホステルから、セキュリティーのしっかりした高級ホテルに移る旅行者も出てきた。私は、マニラを離れて鉄道でバタンガスへ向かい、そこで2泊してから、フェリーでミンドロ島のプエルトガレラへ行き、1週間ほど過ごした。キッチン付きのベーシックなアパートだったが、ガードマンがいなくても安全で、首都の緊張感から解放されてのんびり過ごせた。近くの市場で魚介類や野菜を買って自炊し(日本にいる時と同じ)、自転車を借りてビーチへ行って海を眺めたりした。連日ビーチへ通うと、地元の若者と交流するようになって酒盛りも楽しんだ。

そうこうするうちに、首都では軍の高官たちがマルコス政権に反旗を翻し、米国政府もマルコスを見放した。2月25日にコラソン・アキノが大統領就任宣誓を行う一方、マルコス夫妻と一族が米国空軍機でハワイへ向かうのをテレビニュースで見た。

その数日後、私はマニラに戻り、マルコス夫妻が長年暮らしていたマラカニアン宮殿を大勢の市民に混じって見物した。贅沢な家具や調度品にも目を見張ったが、イメルダ夫人が残した膨大な数の靴には吃驚した。

その後、もっと歩きたくなってパッシグ川の橋を渡ってイントラムロス地区に入り、リサール公園をぶらぶらして、サンチャゴ要塞までやってきた。要塞は遠くまで見渡せる高台にあるのだが、その当時は観光名所としての整備もされておらず、城壁の周囲はゴミだめのようになっていた。その城壁の端に、疲れた感じの中年男性がいて、腕に抱えた箱から小銭をつかみ出しては下に向かって撒いていた。いったい何をしているのかと疑問に思って近づいてみると、城壁の下の方には小学生くらいの子供が5、6人いて、小銭を拾い集めている。一瞬、何が行われているのか理解できず、じっと見ていると。向こうから日本語で「君も、やりたい?」との言葉 ー その疲れた中年男は日本人だった。「結構です。そんなことして何が楽しいのですか?」と返したが、「あいつら、喜んでるよ」という返事。会話はそれで終わり、私はその場を立ち去ったが、この時のことは忘れられない。

忘れられないのは、いまだに、そのことが自分で消化できずにいるからだ。高台から小銭を撒く男は、かなり屈折した心の持ち主だと思われるが、その行為自体は悪なのか ーーー 自分の優位性が確保されている場所から施しを行うことで、確実に子供たちの自尊心を下げたり、損なったりするだろう、一方で、小銭でスナックや飲料が買えて喜ぶかも知れない。また、人助けをしようと思う時、自分も、どこか高台から小銭を撒く人と似ているのではないかと考えてしまう。たとえ、どこか似ているとしても、熟考の上で必要だと判断したら、相談に乗ったり、寄付をしたり、ボランティア活動に参加したりすればいい。しかし、池でカモにパン屑を与える人を見ても、高台から小銭を撒く人がしゃしゃり出てきて「あいつら、喜んでるよ」と呟くところを連想してしまう。


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