村上さんへの感謝状~春のみみずく朗読会を終えて~そうだ!村上さんに会いに行こう!
試しにAppleMusicで村上春樹と検索したら、このプレイリストが引っかかったので、本日のBGMはJAZZでいきましょう。
私は好きな演奏家以外のJAZZがよく分かりません(´・ω・`)
2024年3月の初めの日、ついに来た村上春樹の朗読会である。早稲田大学内に村上春樹ライブラリーが開館して、その流れで大隈記念講堂で、川上未映子×村上春樹の新作の短編が朗読された。
1度でいいから、村上春樹を生でみたいと思って早20年。1度だけチャンスがあった(青山ブックセンター(ABC)が潰れ掛けた時に本屋応援の朗読会があったのだがチケットが取れなかったので入り待ち出待ちだけしに行こうかと悩んだのだが、行かなかった)のだが、それを逃し、やっと巡ってきたチャンスである。村上春樹ライブラリーの計画が発表されたとき、きっと何かのチャンスが来ると、待ち焦がれていた。あのメディア嫌いの村上春樹が、ライブラリーの建設計画と資金援助を呼びかける記者会見を開いたのだ。その様子をニュースで見て、私も小口でしか参加できないけれど、何かできないか、と関心を持っていた。読書を楽しむ人のプラットフォームを作りたいとその構想を語っていた。確か寄付した人の氏名をライブラリーの中の何処かに刻印してくれるサービスがあったと思う。その記者会見の翌日だったと思う(めちゃくちゃ早かった)。ユニクロの柳井会長が全額の支援を申し出て、村上春樹の資金調達劇は幕を閉じた。
ライブラリーが実現化して、きっと何かやってくれる。そう期待は膨らむばかりであった。
そしてやって来た今回のチャンス。家計は火の車であるももの、なんとかかんとか早稲田に一万五千円初課金して、入場チケットを確保した。届いたチケットに記載された席は最高のポジションだった。
前は何度も通ったことのある大隈記念講堂が、夕焼けをすぎ、始まったばかりの今日の夜に、発熱球のような暖かい明かりで優しく照らされている。3つある観音扉はいっぱいに口を開け、訪れる人を飲み込んでいた。足を踏み入れると、古き良き講堂そのものだった。未発表の短編小説の朗読とあり、SNSで内容を書かないよう、アナウンスがあった。もし、村上春樹と会話することができたら、何を言うか。今回は、このイベントが告知されてから、反芻してきた想いを、村上さんへの親書の形で綴って見ようと思う。
親愛なる村上春樹様
うるう年の2月が終わり、今日から3月が始まりました。その初めの日に、長年の夢だった村上春樹さんの生の姿を目前にすることができ、本当に嬉しく思いました。日中はコートを着て歩くのには暖かすぎる程の陽気で、少し動いただけで汗をかきました。今年に入って初めての汗だったように思います。
私が村上春樹作品と出会ったのは15歳の時でした。同じ音楽を支持する男性の先輩に、ダンスダンスダンスを勧められた事がきっかけでした。正直、よくわかんなかったけど、なんかオシャレな気がする、という程度のモチベーションで、四部作、ノルウェーの森、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドあたりを読みました。暴力をテーマにしている、ということさえ掴む事ができず、ストーリーさえ1度読むだけで覚えることが出来ませんでした。村上さんの作品群は、私が最初に触れ合った現代文学であったと思います。高校の3年間不真面目に過ごした変わりに、村上春樹作品を読んでいく時間に恵まれました。後追いでねじまき鳥クロニクルまでを読み、海辺のカフカからリアルタイムで新刊の発売を待ち、購入して読むという、サイクルに入りました。
インターネットで、村上朝日堂だったでしょうか、バーで村上さんが会話する音声を聞き、肉声に初めて触れました。村上さんの声は思っていたよりもずっと低音で、男性らしい声だったという印象でした。今日の朗読会の声も、喉が乾ききった日に飲むポカリスエットのように、すっと私の体に浸透しました。
それから、生の村上さんにどうにかして会うことができないか、会う人会う人に、私は村上春樹が好きで、1度でいいからお話をしてみたい。もし村上さんに知り合うことがあったら、私にもその機会をくださいと、四方八方に宣伝して歩いています。
20歳を超えた時、私は短大に通っておりましたが、村上さんの作品の中で描かれるバーに憧れ、訪れる駅駅で、バーを探しては1人で入り、ジンジャーエール9割のシャンディガフとピスタチオを頼んで、村上作品を読むというなんとも情けない格好付けを繰り出しておりました。20歳になったのだから、アルコールを飲みたい。と挑戦したものの、呆気なく散ることになりました。住んでいた駅のバーの求人広告に応募し、働いたこともあります。鍛えれば飲めるようになる、という諸先輩方の教えを信じ、頑張って毎日アルコールを摂取しましたが、全くダメでした。ジンジャーエール9割のシャンディガフすら飲みきる事ができず、ただ体調が悪くなるだけでした。私は幼い頃からお漬物やちゃんと作ったお味噌やお醤油を食べる事ができず、好き嫌いは良くないなあと情けなく思っていたのですが、アルコールが一切飲めないと判明して、あー発酵食品を体が受け付けないのだ、と知ることができました。アルコールの代わりにタバコを吸う毎日です。
1年ほど青山の骨董通りでアルバイトをしました。ちょうど紀伊国屋が移転する前の工事が始まろうとしていた頃です。あーここで、ローストビーフのサンドイッチをユキにご馳走したのか、と紀伊国屋にお使いに行く時は、村上さんの姿を探しました。青山の旧紀伊国屋は、並んでいる品物がいちいちお洒落で気の利いていて、袋詰めを店員さんがしてくれたり、たくさん買い物をした人の荷物を店員さんが車まで手伝ったり、田舎のスーパーしか知らなかった私は、全てが新鮮でした。骨董通りのレンガの建物で水丸さんの展覧会が無料で見れました。ここに入ったら村上さんとすれ違うことが出来るかもしれない…。と会期の期間中、通勤で前を通る度、村上さんを探して入口を凝視しておりましたが、入る勇気が持てず、結局1度も中に入れて貰うことなく終わってしまいました。当時の私にとって、青山という街はよそよそしく、埼玉の田舎から出てきた私にとって馴染むことが出来ませんでした。お洒落なウインドウの前を通過するだけで、どのお店にも入る事ができませんでした。私は着飾るお金も知識もなく、ダルダルのパーカーにジーンズ、オマケにすっぴんというなんともだらしない装いのまま、道を歩くのが精一杯でした。根津美術館の方向だったり、GUCCIの芝生の丘だったり、こんなに土地の高い所で余裕とゆとりを持って生活だったり、商売だったりをしている人を、憧れの目で毎日みて、1年間過ごしました。青山の仲間入りは出来なかったけれど、どこを歩いても気持ちのよい土地だと思いました。北青山から神宮球場までの道を村上さんを探して歩いたりもしました。ABCでの立ち読みも日課としておりました。当時私は、どこかで村上さんと会えることを夢見て、村上さんの文庫本を必ず1冊鞄に入れて、いつかその中に村上さんのサインが入る事を夢見て毎日を過ごしておりました。お金がなかったので、毎日りんごを丸ごと1個皮も剥かずに持って行って、働いていたビルの屋上で1人食べました。上司にチケットを取ってこいと指令を受けブルーノートにならんだり、スタバのコーヒーを買いに1日に何度も行かされたり、ABCや古本屋で予算いっぱい購入した美術芸術写真集などの本を運ばされたり、クアアイナで両手いっぱいにハンバーガーを取りに行ったり、紀伊国屋で陳列用の外国のお洒落なお菓子を買いに行かされたり、渋谷から神宮までのカフェや美術商にイベントのフライヤーを置いて貰うのを頼みにいったり、足を使った小間使いをしました。職場で仕事用に支給されたのはiMacで、Macを使うことも初めてでした。経った1年のご縁でしたが、村上さんの作品の中でしか知らない青山を東京を体感することができた1年でした。青山の街は、村上さんの作品通りの街でした。
村上さんの作品群は、私にとって、灯台のような存在です。1人で暗い海の中を溺れそうになりながら必死で泳いでいる毎日です。暗い海は広くどこまでも続いていて、波は荒く、足がつくこともありません。必死でもがけばもがこうとする程、体力は疲弊し、溺れてこのまま沈んでしまおうか、という思いもよぎります。暗い暗い海でたった1人で、一体ぜんたいどの方向に泳いだら岸につくのか分かりません。あっぷあっぷになり、諦めてしまいそうな時、村上さんは岸の灯台から、私に光をサーチしてくれました。村上さんの作品に触れることで、村上さんの作品の中で必死にもがいてるたくさんの登場人物が、必ずどこかで、私の分身でした。僕も鼠も牛河も緑も青豆も直子もアメもユキもディックノースも綿谷登も間宮中尉もキスギも天吾も永沢さんもメイもキキもジェイも佐伯さんもナカタさんも星野くんも双子の女の子も結婚式の集合写真で必ず写っているおばさんも、みんな脆く儚い私と同じ人間だという事を村上さんは物語を通して私に説得してくれました。
辛くキツい時こそ、村上さんが灯台から照らしてくれる、小さな、でも強い強い光で私に指針をくれました。村上さんの作品群がなければ、私はあっけなく海の藻屑となっていたでしょう。村上さんの灯台の明かりは、いつも私を助けてくれました。そして、40を越えた今、海水だから泳ぐ事に疲れれば浮いているだけでやり過ごす術も村上さんのおかげで身につけることができました。
私は走ることは苦手なのですが、泳ぐことは好きです。プールに行くとゆっくり1キロから2キロ泳ぎます。何かのエッセイで、人生を25メートルプールに置き換えたお話をしてくれた事を覚えていらっしゃいますでしょうか?プールに行ってターンをする度、その話を思い出しています。壁をキックしたしばらくは、その勢いで簡単に前に進むことができます。でも、その推進力が無くなると一気に泳ぐのがキツくなります。私は私のこの重い体を自分の力で前に進めなければなりません。私は今人生のどの辺りにいるのだろう。25メートルのターンの時はもう過ぎたのだろうか?水中でタイミングよくクルっと回り、上手く壁を蹴ることができたのだろうか?次の壁までどの位泳いだらいいのだろうか?そんなことを考えながら、1キロ以上ゆっくりと泳ぎます。
深い井戸の底で、我々は繋がっている、というエッセイは、私を実際に励ましてくれるものでした。村上さんの現実の姿を捕まえることはできなかったけれど、村上さんの書かれた作品を通して、私たちは繋がることができているのだ、という訓示は現実の励ましでした。火星に暮らす地底人のように、トンネルは必ずどこかで繋がっている。この世に私はたった1人だ、と思う時(それは絶望にちかい)、でも村上さんや村上さんの読者とは必ずどこかで繋がっているという発想は、私を強く励ましてくれるものでした。
どんなに広い、暗い暗い、波の高い海に放り出されても、村上さんが必ず灯台で明かりを灯してくれている。どんな精神的支柱にも勝る明かりです。どうかこれからも、ずっとずっと、作品を通して、私を灯台から照らしてください。どの方向に泳いだらいいか、私に教えてください。
想像力を最大限に働かせること。そしてその想像した内容に責任を持つこと。この命を胸にしっかりと刻み、私は私の人生を乗り越えて行こうと思います。
いつまでも灯台から、進むべき方向を教えてください。その灯りがあれば私はまだ泳げます。
最大限の愛を込めて。
いつか、また、どこかで、お会いできますように。村上さんと同じ今を生きれていることを感謝します。
知っていますか?村上さんの新刊が発売されると、1冊購入して持って帰ってきて、ページを開く前に、右掌を表紙に置いて強く祈ります。
「これが最後になりませんように」
神なのかなんなのか分からないけれど、脆く儚い人間だからこそ、想いは強くなると村上さんが教えてくれたんです。だから、私は毎回強く祈ります。村上さんが、もう物語を紡ぐのなんて飽ーきた。やめぴ。ってならないように祈るのです。この想いが届きますように。
今日も灯台から私を照らしてください。
は
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