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坂の上の雲の伊予で秋山マニアから聞いた話

今日は時代小説の話を書くので、私の中の1番古い音源、はっぴいえんどをBGMに選びました。

こんにちは。
高校3年生から卒業して1年遊んで、その後短大の2年間位、本を読みまくってた時期がありました。
元旦那が、史学科に進むほどの歴史好きで、家の中に司馬遼太郎の本がめちゃくちゃ揃っていました。
そういうわけて、私は司馬遼太郎に出会い、読み始めることになりました。
特に好きなのは坂の上の雲で、明治維新という時代が凄く魅力的に描かれていて、夢中になって読みました。
坂の上の雲は確か、長めの文庫本で16。
主人公は3人で、正岡子規(のぼさん)、秋山好古(兄、陸軍騎兵隊)、秋山真之(弟、海軍参謀)の3人で構成された、明治維新から、日清戦争、日露戦争の集結までを描いた、かなり長い作品です。
私は坂の上の雲が大好きで、16巻通しで3回。子規が亡くなる3巻までは、面白すぎて、何度も読みました。
その後、結構重い鬱状態が長く続き、本を読むという事ができなくなって、最近では坂の上の雲も含めて読んでません。
でも私は坂の上の雲が好きだった。

今回別件で用事があり、主人公3人の生まれた伊予(松山)に行くことが出来ました。1度行ってみたいと思っていたので、とても嬉しかったです。
坂の上の雲ミュージアムにむかうと、駐車場がありませんでした。という事で、近隣のコインパに車を停めたところ、秋山兄弟生家の看板。近くにあるのなら、行ってみよう、とあまり期待もせず、来訪しました。入場料は300円。生家って他でも行ったことあるけど、そんなに、感動することってないので、そんなに期待してませんでした。
300円をお支払いすると、対応してくれた男性が、パンフレットの地図を開き、ここが秋山家、つまりここね。で、ここが、銭湯。でここが花火の火薬を一緒にやった子の家ね。
と、指し示して下さいました。
銭湯とは、好古の伊予時代のバイト先。花火のいたずらは真之を中心に、花火の火薬でいたずらをして、大目玉を食らった出来事です。
私はいちいち、銭湯こんな近いんですか?
花火のイタズラどこでやったんですか?
と、早速質問攻め…。
軽く回答してくれながら、ゆっくりお話しましょうと、私が1周見て回る時間をゆっくり与えて下さったあと、お時間を取って頂きました。
聞けた話は、坂の上の雲には、描かれていない、秋山兄弟のマニアックな話。
とても、興味深かった。
メモを取らなかったので、全部を正確に覚えているわけではないのですが、お伺いできた話を書いていこうと思う。

まず、司馬遼太郎の坂の上の雲に書かれてることは9割実話だそうだ。
その根拠は(確か)花火のイタズラを一緒にした桜井さん(だったと思う)が、秋山兄弟の話をかなり長く正確に纏めて本にしてくれていたからだそうだ。その本著は生家に飾られていて、坂の上の雲の連載が始まってすぐ、桜井さんに対して司馬遼太郎が出した葉書(小説になるか分からないが…)という内容の物が坂の上の雲ミュージアムに展示されていました。
司馬遼太郎は、のぼさん(正岡子規)のことを調べ始めて、伊予から東大予備門まで、子規と真之がずっと一緒だった、と判明した所から、坂の上の雲の構想が生まれたそうです。
で、芋ずる式に好古も知ることになり、3人を主人公に物語を書くことになったのでしょう。

この武田というのがお風呂屋さんの家、斜め向いの松川下ると書いてあるのが、実際にお風呂屋があった位置だそうです。
好古は伊予時代、このお風呂屋さんで薪炊きのアルバイトをしているのですが、こんなに近所だったとは…。しかし、焚べる薪はお城の木に手をつける訳には行かず、片道2時間の山まで、薪拾いに行っていたそうです。
で、左の〇桜井さんが、真之と一緒に火薬のいたずらをして、秋山兄弟の詳しい記録を残した方です。火薬のイタズラを実際にしたのは、少し離れた山の方だそうです。桜井さんは真之より、4つ下(だったと思う)だったそうです。東京の好古の所に、秋山家のお母さんとお兄さんは上京するのですが、生家は大切に管理されていたそうです。好古の晩年もこの生家で穏やかに、生活していたそうです。でも、空襲で全部焼けてしまって、生家を再建するのに、1億円の献金が集まったそう。司馬遼太郎が書く以前から、地元ではとても大切にされていたという事が分かります。

秋山兄弟は6人だったそうです。
1人目→女の子→生まれてすぐに亡くなる
2人目→男の子→病気がち→後に母と好古の居る東京に転居
3人目→男の子→養子に出される
4人目→好古→家督を継ぐ
5人目→男の子→養子に出される
6人目→真之
という家族だったそうです。

好古は、伊予時代に、学問のすゝめを読んで居たそう。タダで学べるということて、ご存知の通り大阪の師範学校に入学→陸軍士官学校と辿るわけですが、陸軍退役後は、東京でも、伊予でも、先生として過ごしたそうです。軍人であり、教育者だったんですね。
晩年の伊予時代には、糖尿病により、足を悪くして、かなり痛かったそうなのですが、勤めていた学校には退任するまで皆勤賞で、通ったそうです。奥さんの多美さんに、この足の痛いのだけなんとかなれば…と漏らしていたそう。そして、いよいよ状態が悪くなり、「欲張り過ぎたかのう」とこぼして居たそうです。(この欲張るは、長生きした事と足が痛いのが治ればと思ったこと2つの意味があると私は思いました)。
好古には寡黙な印象があったのですが、やはりそれは間違いではなく、多くを語る事はなかったそうです。足を切断する手術を受けてから4日で亡くなるのですが、小樽の家族が間に合わない、何か言ってよ、残す言葉はない?と問われ「ない」と言ったそうです。背中で魅せる好古の姿は、陸軍時代も、先生時代も、死を前にしても、一貫していたのですね。好古の死因は糖尿病だそうです。1度卒倒して倒れ、それからは大好きなお酒も少量に控えていたそうなのですが、残念です。
どんなお酒を好んで居たのか伺ったのですが、そんなにこだわりはなく、手に入る安い物で良かったそうです。東京時代も、戦場でも、伊予に帰ってからも…。生家には、実なる木が沢山植えられていました。好古は、実なる木を好んだそうです。だいだい(夏みかん)の木は、丁度花を落とし、果実の赤ちゃんが出来ていました(だいだいはだいだい栄えるという験担ぎの意味もあるそうです)。それを収穫し、2週間ほと追熟すると、甘くなるそうです。

真之の資料は、トルコ(コンスタンチノープル)から、子規にあてた年賀状が展示されていました。

左の口語文を見ていただいたらわかる通りなのですが、「コンスタンチノープルに来たけれど、何も驚くことはない。世界は広くして、余程狭い」
これについてなのですが、私はまず真之がトルコに行ったことを知りませんでした。
和歌山沖でトルコ船の座礁(エルトゥールル事件)がある訳ですが、日本はそのトルコ人の救助をし、69名が助かるのですが、その69人をトルコに送る為に比叡と金剛でトルコまで、行くのですが、この比叡に真之が乗船していたそうです。真之にとっての、初めての海外渡航だったそうです。知らんかった。
このハガキを受け取った子規(まだ元気だった頃)は、凄く喜んだそうです。
この「驚くことはない」の記述について、伺ったのですが、松山の方は愛情込めて、わざと悪く言ったり、それを許す文化があるそうで、よく、よその土地の人に誤解されるんだとか。漱石の坊ちゃんでも、かなり酷いあだ名がいっぱい登場しますが、伊予の人に、それも受け入れられてるそうです。
坂の上の雲には2人の晩年について、あまり描かれてないのですが、私は真之は自死に近かったのではないか…と思って居たんです。自分の立てた作戦により、亡くなった敵味方を思い、宗教的なものに傾倒したということは知っていたし、盲腸だったそうなのですが、「わざと治療しなかったのではないか?」と思って居たんですが、違いました。真之にとって、二回目の盲腸で、1度目は大丈夫だったのですが、死因になった2回目は腹膜炎(?)にまでなってしまい、治療が間に合わなかったそうです。自死ではなかったと知れて良かったです。

生家の隣は道場になっていて、好古の見守る中、今も柔道や合気道のお稽古が行われてるそうです。

この幸せ、お子さんたちにわかるかな?
大人になったらきっとわかるね。


坂の上の雲ミュージアムは建物が大層だったのですが、資料はそれ程の発見は正直ありませんでした。私はテレビを見ないので、ドラマも見てないし、その出演者の言葉とか本当にどうでも良くて
…。そのあたりお好きな方はいいと思います。

壁一面を埋め尽くされた、新聞連載当時の資料は見応えがありました。絵の質も非常良かったです。

のぼさんもいましたよー。
並んで写真撮れるそうです。

この上に漱石ゆかりの館?みたいなのがあったのですが、私は漱石一通り読んでいるものの、別に好きじゃないので、行きませんでした笑

生家で本当に色々なお話を聞かせて頂いたのですが、全て覚えられておらず…。また思い出したら、書き出します。

好古が確か吉原に行っていたという記述が坂の上の雲内にあった気がしたので、それについても聞いて見たのですが、「ないはず」との事でした。ドイツに渡った時父に宛てて「吉原に来た生娘のようだ」と書いた事くらいだったはず…と。好古は35歳で晩婚だったので、ちょっとその位遊んでてくれた方が、私としては人間味があっていいなと思うのですが、地元では偉人ですから、まあまあ。好古の末っ子ちゃんは好古51歳の時の生まれだそうです。すげー。その子が成人し就職した後なくなったそうです。

あとはなんだったかな。
好古が、苦しみがなければ楽しみも生まれないとか、どのタイミングの時の言葉だったのか…。人間一生働いた方がいいとか…。また思い出したら、書き足します。

東京の子規の家が鶯谷にある事とか、上野公園の子規記念球場の話とか、青山墓地で伊地知の墓しか見つけられなかった話とかもいっぱいできて、本当に楽しかった。
坂の上の雲記念ミュージアムもいいですが、すぐ近くに生家があるので、是非寄って、お話を聞かせて頂くと、坂の上の雲マニアとしては、満足度高くなると思います。とても勉強熱心な男性が生き字引として、色々教えて下さいます。

生家から、歩いてすぐ松山城のロープウェイまで行けるので、天守閣に登りました。あいにくお城マニアではないので、そのすごさは分かりませんでしたが、四方どの方向を見ても都市が続いていて、私は四国に来るの初めてだったのですが、想像以上に都会でそれも発見でした。私の地元埼玉よりずっと、ずーっと都会でした。

あと、県外ナンバーにも優しいですね。
県外ナンバーを攻めてくる土地もあるのですが、それは全くなく、穏やかに運転させて頂いました。

松山に1度行ってみたいと思ってから20年。
やっと行くことが出来て本当に良かったです!

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