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深センでの生活は将来、王にとってきっとチャンスが・・・
中国美人「王紅華」の波乱の半生(その7)
中国美人「王紅華」の波乱の半生では、したたかとも思える「王紅華」という女性の波乱に満ちた生き方にスポットを当てています。この記事は中国人少女が内陸部の村から都会に移り住み、家族を想いながら必死に生きる姿を描いた、リアリティーに富んだ内容のフィクションです。
現在の深セン市は、北京市、上海市、広州市と共に、中国本土の4大都市と称される「北上広深」の一つであり、中国屈指の世界都市。
今も人口は増え続けており、20~30代が人口の65パーセントを占め、65歳以上の高齢者は全人口の2パーセントしか占めていない。
深セン市は、香港に隣接しているという好立地もあり、1979年から中国最高指導者の鄧小平による改革開放路線の推進により経済特区に指定され、急速に発展してきてた。
深セン市の総面積は1,953キロ平方メートルであり、日本の東京とほぼ同じである。人口は、1979年当時は3万人ほどだったが、40年ほどで1,500万人に迫るほど急増し、人口密度はすでに東京を超えている。今も多くの若者が移住してきている。
改革開放後、深センには、周辺から多くの若者が競って仕事を求めて深センに入境してきた。いわゆる農民工と言われる労働者である。しかし、身分証を持たない身元不明者は、経済特区に通じる道路の検問所で、入境ができず仕方なくそのまま定着し、仕事を持たない若者が特区の周りの地区にあふれ、深セン市周辺は、広東省でも1、2を争うほどの治安の悪い地区として有名だった。
王は四川省からやってきたが、そのほか湖南省、湖北省、河南省などからも
多くの若者が仕事を求めてやってきた。多くは、工場労働者として1990年ごろから2010年ごろにかけてピークを迎えていた。
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多くの農民工は、会社の寮の4人から8人一部屋の寮に住み、工場の現場の仕事を、8時から夕方五時まで、時に残業を行って大体500元~800元(日本円で7500円~12000円程度)ぐらいの収入を得ていた。
1990年から2000年代にかけて、中国経済が飛躍的な高成長を遂げたことは、中国が日本企業にとって最大の海外事業展開先となり、「中国頼みの日本経済」とまで言われるようになった。
王は、単なる農民工としてではなく、祐二との出会いをきっかけにして、日本語能力を発揮し、努力次第では、毎月一定の高収入が得られるチャンスを得た上に、祐二が帰国した後も、今後進出してくる多くの日系企業を相手に能力が生かせると考えていた。
第1章 その8へつづく >>>
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中国美人「王紅華」の波乱の半生(第1章)
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