見出し画像

ホメロス叙事詩に学ぶアンガー・マネジメント

はじめに

暑くなってきましたね。暑いとイライラしたりカッとなったりすることがあるかと思います。私自身はそんなにイラっとすることがないタイプの人間なのですが、思い返してみると怒りを覚えたことが何度かあります。

〜回想〜

一度目。高校生の時にクラスメイトが集まって卒業パーティをしていたときのこと。クラスメイトにいきなり殴られたこと。そのときは怒りよりも頭が真っ白になってしまいあとあとになって思ったけど、なんで殴られなきゃならなかったんだ。

二度目。昨年度末に帰省のため新幹線に乗っていたとき。コンセントを使っていたら、横に座っていた人に肩を叩かれ、「あなたそれ使っちゃダメでしょ!」と怒鳴られたこと。「使って良いですけど?!」と言い返して「駅員を呼んでくるからそこにいろ」と言って駅員を呼んだらその男はすでに下車していた。おいおい、からんできといてそさくさ逃げんなよ。

〜回想終わり〜

とまあ具体的な体験を述べてみましたが、誰しも体験の内容こそ違えどイラッとすることはあると思います。そういうとき、われわれはどのように怒りと付き合えばいいのか。このことについてホメロス叙事詩を題材に考えてみたいと思います。

『イリアス』の英雄

ホメロス叙事詩のひとつ、『イリアス』は「アキレウスの怒りをうたってください、女神よ」という言葉から始まるように、アキレウスという英雄の怒りがテーマになっています。なので、『イリアス』はアンガー・マネジメントについて書かれた人類最初の書物と言っても過言ではないのです。

すみません、過言でした。

とまれ、怒りについて書かれた貴重な情報源であるのは間違いないので、アキレウスという英雄がどのように自らの怒りを対処したのかをみてみましょう。

アキレウスを含むギリシア軍はトロイア戦争という戦争の只中にいるのですが、戦いの最中得た獲物たち——ここでは物的なものに加え戦争奴隷をも含みます——が戦いの勲章となります。なので、それを取り上げられる=自らの名誉を傷つけられることとなります。アキレウスは、自らが得た戦争奴隷(クリュセイスという名前の女性)を、ギリシア軍の総大将であるアガメムノンによって奪われてしまいます。これに対し怒りを覚えたアキレウスは、

怒りがこみ上げ、毛深い胸の内では、心が二途に思い迷った——鋭利の剣を腰より抜いて傍らの者たちを追い払い、アトレウスの子を討ち果すか、あるいは怒りを鎮め、はやる心を制すべきかと。(松平千秋訳, ホメロス『イリアス』(上)(下), 岩波文庫, 1992。以下同様)(第一巻)

ここでアキレウスは二つの選択肢を思案します。①アガメムノンを斬る、あるいは②落ち着く。しばしば「怒りのピークは7秒」と言われますが、アキレウスはいま怒りのピークにいることがわかります。アンガー・マネジメントにおいては、この7秒を指折り数えて過ごし、②の落ち着くを選択するところでしょう。それではアキレウスはどうしたのでしょうか。

かく心の中、胸の内に思いめぐらしつつ、あわや大太刀の鞘を払おうとした時

色々悩んだところでアキレウスは剣を振るうことを決めてしまいました。アンガー・マネジメント、失敗です。アガメムノンを斬ってしまうとギリシア軍は総大将を失ってしまうので、大惨事です。しかし、そんなことよりも名誉を傷つけられた報復の方が大事だ——これがアキレウスの信念でした。そんなアキレウスに対して、誰もが予想しなかったことが起こります。

かく心の中、胸の内に思いめぐらしつつ、あわや大太刀の鞘を払おうとした時、アテネ(アテナ)が天空から舞い降りてきた

なんと、女神アテナが天からやってきました。女神はアキレウスに対しいまは我慢しなさい、いずれきっと見返りが与えられようと彼を諌め、アキレウスは「それには従わなければなりませんね」と怒りをおさめることに成功します。ここからわれわれは一つの教訓を得ることができます。

教訓①怒りを抑えるのは、
神が介入しなくてはならないほどに、
困難。


『イリアス』からはアンガー・マネジメントにおける重要な側面(人は腹が立ったらそのまま攻撃してしまう)が学びとれることがわかりました。それではアキレウスの怒りはどのようにして終熄を迎えるのでしょうか。物語を追ってみましょう。

アキレウスはアガメムノンへの怒りゆえ、戦場を離脱します。するとギリシア軍はピンチに陥り、アキレウスの親友・パトロクロスが「アキレウス、お前は我らの友が苦難を被ってるのになにも感じないのか」と言って、アキレウスの武具を纏い、アキレウスに代わって自分が戦場に出ると申し出ます。アキレウスはそれをみとめ、パトロクロスは快進撃を見せますが、敵軍のトップ・ヘクトルによって討たれてしまいます。これに対しアキレウスは「死んでしまいたい」と慟哭し、ヘクトルへの復讐を誓います(この時点でアガメムノンへの怒りはもうどうでもよくなっている)。そしてヘクトルの復讐を果たし、死骸を痛めつける所業に及びますが、ヘクトルの父・プリアモスがアキレウスの手(自分の子を殺した手!)に接吻し、彼に対して嘆願し、

姿神々にも似たアキレウスよ、御尊父のことを想っていただきたい、(…)どうかアキレウスよ、神々を憚るとともに、御尊父のことを思い起こして、このわたしを憐れんでいただきたい。わたしは御尊父よりさらに憐れむべき身の上、いまだかつて、地上に生を享ける人間の一人だに耐えたことのないほどの苦しい目にも耐えたのです——わが子を殺した人の顔の前に手を差し伸べるという……(第二十四巻)

と言います。この憐れむべき嘆願にアキレウスは胸を打たれ、自らと、目の前の老人が、この世の理不尽とも言える辛い運命の当事者であることをまざまざと感じてヘクトルの死骸を返還し、ヘクトルの葬儀でもって『イリアス』の英雄の怒りと物語は幕を閉じます。この一連の流れからわれわれはもう一つの教訓を得ることができます。

教訓②怒りは復讐を果たしても晴れることはないが、自らと同じような境遇の者との共感によって
晴れることがある。

このように、『イリアス』は怒りについては現代にも通用するであろう教訓を持っていると言えましょう。

これからわれわれはもう一つのホメロス叙事詩、『オデュッセイア』から何を学べるかを垣間見ることといたしましょう。『オデュッセイア』はその名の通りオデュッセウスの物語であり、オデュッセウスは有名な「知恵の英雄」です。オデュッセウスは自らの知恵を駆使してさまざまな困難を乗り越え、ようやくのこと、自分の故郷イタケに戻ることに成功しますが、そんな彼に最大の苦難が訪れます。それは、自分が長年留守にしていた我が家に数多くの者たちが妻に求婚者として巣食っており、あまつさえ自分の女中たちと密通するという災難でした。この有様に怒りを覚えたオデュッセウスの

心はいきり立ち、躍りかかって一人一人討ち果たすべきか、それともこのたび限り、驕慢の求婚者らと(注:女中らが)交わるのを見逃すべきか、さまざまに思いめぐらし、(…)。(松平千秋訳, ホメロス『オデュッセイア』(上)(下), 岩波文庫, 1994, 以下同様) (第二十巻)q

オデュッセウスは、ちょうどさきほどのアキレウスと同様の選択肢を思案します。アキレウスは剣を振るうことを決意しましたが、オデュッセウスはさすがに知恵の英雄だけあって、

(…)彼の心は吠え立てたが、彼はわが胸を打ち、己れの心を叱っていうには、「堪え忍べ、わが心よ。」

と言い聞かせ、怒りを抑えようとします、、、が、心と身体が喧嘩してどうにもこうにも行かなくなります。ここに登場するのは——そう、またしても女神アテナです。アテナはオデュッセウスに語りかけ、「眠りを注いで」あげます。そうしてようやくオデュッセウスは眠りに就きます。

そののち、オデュッセウスは自分の妻に言い寄っていた求婚者たちを抹殺し、求婚者たちと密通していた山羊飼いや女中までも処刑します。ここからわれわれはこのことを学びます。

教訓③怒りは一時的に抑えたとしても、
結局、復讐しないと収まらない。

このようにホメロス叙事詩から、アンガー・マネジメントには神の介入を必要とすること、共感が解決させることがあること、そして一時的に抑えた怒りはのちに爆発することが学び取れました。これがわたしたちのアンガー・マネジメントに寄与するかは定かではありませんが、怒りを覚えた時になんらかの示唆を与えてくれるかもしれません。カッとなったときには、ぜひ、ホメロス叙事詩を思い起こしてください。

「ギリシア語やラテン語を広める」というコンセプトのもと活動しております。活動の継続のため、サポート、切にお待ちしております🙇。