「インド音楽とポピュラー音楽」
東南アジアの音楽の中でもインド音楽ほどポピュラー音楽とともに発展した音楽はないであろう。インド音楽と言えばシタールとタブラーという組み合わせがインド音楽というイメージは日本でも欧米でも広く流通している。
その原因は、ビートルズのジョージ・ハリスンがインド人シタール奏者のラヴィ・シャンカルからシタールを習い、それを自らの作品に取り入れ、ビートルズのアルバムに収録されて世界中で売り出されたからだ。 ビートルズのなかでも、特にインドに関心を持ったのはメンバーのジョンとジョージだった。二人が、本格的にインドに興味を持ったきっかけは、一九六五年二月に開始された『ヘルプー』の撮影である。だが、しかしこの映画には「インド」という名は一度も出てこない。それを表す言葉は「オリエンタル」であり「イースト」である。東洋風の店のシーンの日本語字幕には、確かに「インド」と書いてあるが、原語ではあくまで「スエズの東」であり、 「インド」とは言っていない。
映画「ヘルプ!」では「東洋」といいながら、それがインド的なるものによって代表されているのはなぜか。それは、イギリス最大の植民地はインドであり、大英帝国の繁栄はインドなしではありえなかった。 イギリスにとっての東洋がインドそのものであったことは確かだが、それ以前から、ヨーロッパで「インド」という語は漠然と非西洋を指す言葉として流通していた。 この言葉の語源は古い。 現インダス川流域あたりは、古代インドで流通していたサンスクリット語ではシンドゥと呼ばれていた。 ペルシア人はそこに住む人々をヒンドゥーと呼び、それが訛ってインドとなり、ヨーロッパでも流通するようになった。
本格的にヨーロッパ人がインド音楽に興味を持つようになったのは、十八世紀末ごろからである。当初から、彼らはインドの建築や美術、文学、舞踊には魅了されたようであるが、こと音楽については、幼稚だとか騒音のようだとかいってけなし、音楽とさえ認めていなかった。視覚的な側面では許容範囲が広いのに、聴覚的な側面では、幼少期から培われてきた感覚から逃れることが難しいのかもしれない。
ヨーロッパ人は自らの音楽文化をそのまま植民地に持ち込んで、オーケストラや舞踏会を楽しみ、 家庭にピアノを置いた。しかし、やがてインド音楽に興味を持つ人々が登場して、事情は次第に変化していく。インドで最も早く植民地となったカルカッタで十八世紀末に登場したのが、ヒンドゥスターニー・エアと呼ばれる一連の作品群である。 これは、ヨーロッパ人が出会ったインドの旋律を西洋楽器で演奏可能なように五線譜に書きとめ、ときには英語の歌詞をつけたり、ピアノの伴奏をつけたりして適当にアレンジしたものである。
ヒンドゥスターニー・エアの楽譜集はカルカッタばかりでなく本国イギリスでも出版された。これは、ヨーロッパのインド音楽観の転換点になったといわれている。いわゆる東と西のフュージョン音楽は、その後もヨーロッパの作曲家たちによって試され続け、やがてビートルズをはじめとするポピュラー音楽におけるインド趣味の系譜へとつながっていくと考えられる。
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