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言語とSNSは手段に過ぎない

3つ目の記事となる今回も、2つ目と同様に、別のプラットフォームで書いた記事を投下してみようと思う。その前に、今回の記事はとても感情的になってしまっている部分があるのだが、とても自分的に好きな記事なので、あえてこのnoteにも載せてみようと思う。前回同様、今回の記事も再編集は一切していないので、当時この記事を書いていたときの感情をダイレクトに感じてもらえれば幸いだ。それと、今回の記事で既作の文章を投稿するのは最後にする予定だ。もしこれらの様な文章や考え方が好きだという人はぜひ、以下のリンクから他の記事を読んでみて欲しい。では、記事に今回の記事に移ろう。

さて今回は、少しホットな話題を主軸に記事を書いてみよう。今現在、日本という国では、外国人の日本入国数増加や、来たるオリンピックに向けて必死にグローバル化に向けて、顔に大きなシワを刻み込み、頭皮も徐々に寂しくなってきている大人たちが、ああでもない、こうでもないと必死に模索している。

そんな中で、そのグローバル化を実質的に担うであろう、顔にハリがあり、頭皮の後退など恐れもせず、十人十色の鮮やかなヘアースタイルを持つ若い世代の人たちは、大人たちの目標とするものとは別の方向でその波を捉えてしまっている様に思う。

日本という国は、地理的な部分と歴史的な背景から、公用語は世界共通言語とされている英語ではないことは皆知っているだろう。よって、グローバル化を進めるにあたり、必ず話題になるのが言語の問題だ。その言語の問題の捉え方が間違ってしまっていると私は思う。ここではこの言語というのをわかりやすくするために英語として話を進めていこう。

よく、先生や社会の大人たちは、「いいか、このご時世、英語ができた方が有利になるぞ」や「社会に出た時に英語くらいできる様になってないとこの先ついていけないぞ」などとまだ社会に出たことのない子供たちに耳にタコができるほど口うるさく唱え続け、また、子供たちもそれに疑問も持たず鵜呑みにしてしまっている。

よって、子供たちは英語 "が" できる様になるために学校で無数の単語を暗記させられ、また、考えたこともない言語の法則性とルールである文法なるものを何個も何個も教えられる。そしてその習熟度を可視化するために定期的にテストという形で数値化する。なので子供たちはその数値を少しでも高いものにして、自分は英語 "が" できることを証明するために必死に勉強する。

これは問題の本質から全くずれてしまっていることがこの記事を読んでいる人には理解できるだろうか。

まず、英語 "が" できることが最初にあげたグローバル化問題のゴールではなく、「英語 "で" できる」ということが本当の目的地なのである。

そもそも、「言語」というとても不安定でかつ形もない抽象的なものにおいて、「出来る/出来ない」という2通りの枠でくくることは実に難解で不可能に近いのである。また、その定義を決めることなど誰にもできないと個人的には思う。

しかし、今の日本では、やたらと数字を追い求め、根底にあるはずの目的からそれた努力の仕方を子供たちに教え、促している様に思う。学校のテストや外部の英語試験(TOEICなど)で高い得点を取るための教育が大半を占めており、子供たちも言語を学習する目的がただそれらのスコアを上げることにシフトしてしまっている。そうして生まれたいわゆる英語試験高得点保持者が「英語 "が" できる」と社会からもてはやされ、そうした賛辞の中で本人も「私は英語"が"できる」と錯覚してしまうのだ。そして、大半の人々がここの段階で英語学習を終了し、胸に"英語習得者"という見えない勲章バッジを付け、社会で活躍している。

はっきりというが、これは実にバカバカしいことだ。本当の目的である、英語"で"何かをするという段階の直前で第一線から離れ、スコアという栄光だけをひけらかし活躍する、また社会がそれを何も疑わずに認めてしまっている。

今の段階では、「言語」というものは人間同士がお互いの意思を、お互いがより深く理解し合うために使われるツールの一つだ。そしてこのツールは他のどのツールより一般的で大衆に受け入れられ、人間の生活に根強く染み付いている。よって、社会では、言語を扱えることに対してその価値が見出されているのだ。

ツールは目的のために使用されて初めてその価値が真価を発揮すると私は思う。例えば、世界で一番座り心地の良い椅子があるとしよう。(そんなものがあるかは知らないが、私の友人がこれに近いものを将来作成したいと言っていたことがあるのを書きながら思い出した。楽しみだ)。その椅子の真価は人に座られて初めて現れるのだろうが、「世界で一番座り心地の良い椅子」などとして美術館などに観賞用展示されていては、それはどこにでもあるたわいも無い椅子となんら変わりないものになってしまうだろう。

また、近年で言語学習と同じ様に本来の目的とは異なる目的のために使用されてしまっているものが、instgramやtwitterなどのSNSだ。これらのものは全世界の不特定多数の人間に誰の許可も必要とせず、自分の姿や考え、言葉を発信することができる画期的かつ絶大な影響力を持つ革命的なツールだと私は思う。しかし、instagramを例に見てみると、本来ツールであるはずのinstagram自体を綺麗に着飾らせ、少しでも自分というものの見栄えを良くしようと必死に努力している人がとても多い様に思える。真っ白い肌に加工され、「誰々と食事をした〜」などの投稿に誰も興味はないのだ。そんなことよりも、その肌を加工する技術を使って、僕/私は元の写真を全く別の角度から新たに表現することができるという部分を見せた方が何倍も他人の関心は引けるだろうし、自分自身、他人からの見られ方、捉えられ方も変わるだろう。

いつもの様にかなり話が長くなってしまったので今回の記事の核の部分をまとめて終わりにしたいと思う。

言語しかり、SNSしかり、本来ある目的の為に使用される道具、手段であるはずのそれらが、現代ではその道具をより強固にまた精密に整備、手入れする段階に目的がシフトしてしまっており、扱われるべき場面で、使用されていない。またその事実に余りに多くの人が気付いていないのではないかということ。

ただ、恥ずかしい話、私自身も英語学習の目標設定の際、「〇〇で高いスコアをとるぞ!」やSNSで何か発信する際、「おしゃれでみんなの目を引く様な物をなるべく投稿しよう」などと気づかないうちに行ってしまっているのも事実。本質を理解しているつもりでも、それにぴったり沿って行動していくことは、実はとても難しいことなのかもしれない。ただ、頭の片隅で物事の本質を理解しておくことによって、少なくとも大それた道(目的)に入りそうになった時に自制が少しは効く様になるのではないかと私は考える。

自分の好きなトピックということもあり、いつもより少し熱く、クサイ内容になってしまったがこれも一つということで。



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