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言祝ぎ
同じ場所の記事をまとめておきます。瀧の水量がまったく違います。
[蜻蛉の瀧:晩秋] 先月の記事で、感覚としては「秋」ですが。
[蜻蛉の瀧:冬] この記事のひとつ前で、感覚としては「晩秋」ですが。
[蜻蛉の瀧:春] 昨年の記事で、撮影のための体力が足りていません。
【記録◆2023年11月13日】③
『あきつの小野公園』を抜けて、駐車場に戻ります。
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この日に、自分がなぜ瀧や清流を巡っているか、分かった気がしました。
以下に、「日記」を写します。
日記(2023年11月13日)
心ゆくまで瀧のまわりを巡って、ようやく帰ると決めた。
螺旋階段を下りてきた時とは逆に、二本の杖をまとめて右手で握り込み、舞うよりも力をこめて、翔けあがるような動きで細い筒を抜けた。
手すりに溜まっていた雨水を全て拭った手袋は水浸し。
袖口までが雨水をすくい上げたため、色が変わるほど濡れていた。
帰宅後に靴を脱いで、靴下もジャズパンツの裾も同じ状態だと気づいた。
カイロを足首の外と内、膝上にも貼っていたため、つま先が冷たいとしか感じなかったけれど。
わたしは、雨水の溜まった所に突進していったらしい。
子どものように、行きたい所にだけ視線を定めて、大喜びで瀧のまわりを巡ったのだ。
駐車場で上を見ても、色の濃淡のない曇り空では何も探せないから、すぐ車に乗った。でも、走っている時には、昇龍のように立ちのぼる霧をみた。
雨上がりの霧のように谷を満たすのではなく平地を取り巻くのでもなく、山肌からは離れて幾柱も直瀑のような形で立ち上がっていたため、大きさが龍であっても、珊瑚礁の砂地に棲む生き物を連想して、「かわいらしい」と感じたのだった。
里山を抜けて盆地に出ると、見たこともない荘厳な光景が正面にあった。
大和盆地の北半分は青空なのに、まるで二上山が境界であるかのように、南半分は黒雲の下だった。
大和の空は広い。場所によっては、東の稜線から西の稜線まで空になる。それが完全に二分されていた。
そして、西の山地の稜線が(二上山より南へ向かって、岩橋山、葛城山、金剛山の連なりが)壮大な瀧の落ち口となった。
黒雲のわずかな隙間から盆地の内側へ、高い山々の斜面を光が流れ落ちてきたのだ。
10km以上の幅の半分は、信号待ちの間に数えられた。
半分に「七筋」が並んでいて、南半分は分かれもしない大瀑布だった。
薄明光線であっても、瀧としては存在し得ない大きさ。
そこを、真っ白に輝く龍が渡った。
光の瀧と黒雲の間を。
それは、伝承と神話の山々にかかる細長い雲だったのかもしれない。
盆地の広い空を覆う黒雲と、光のなだれ落ちる稜線との間に、背後の輝く白雲がみえたのかもしれない。
それでも、問いかけたくなった。
「わたしは言祝ぐから、姿をみせてくださるのですか」
読む人がいなくても書く(想いは流れて巡るから)。
見る人がいなくても踊る(舞いは天と地を繋ぐというから)。
そんなふうにおもえることをわたしは続けてきた。
誰の目にも触れない所でも、水は流れ続ける。
誰の目にも触れない時も。
だけど、触れた相手から言祝がれたら、うれしいかもしれない。
瀧も清流も、龍の神さまも。
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