スナックはまゆうに行った話

歌集「老人ホームで死ぬほどモテたい」で有名な、短歌歌人・上坂あゆ美さんがマスターの「スナックはまゆう」に先日初めて行ってきた。

彼女のお仕事は色々あるが、直近は読売新聞の「大手小町」での、文筆家・ひらりささんとの交換ノート(往復書簡)である「まじわらないかもしれない」を追っていた。

彼女にお会いしたのは、約2年ぶり。青山ブックセンターでの歌人・岡本真帆さんとの対談イベントで、その後、日本橋で「スナックはまゆう」が始まったのは知っていたが、なかなか敷居が高いイメージがあり行っていいものか迷いがあった。

ここ1ヶ月、メンタル不調で引きこもりのような生活をしており、この状態を改善したく、きっかけを掴もうと思った時に頭に浮かんだのが「スナックはまゆう」で彼女に会う、ということだった。

私にとって、精神的なロールモデルは2人いて、1人が以前ポッドキャストやエッセイを発表していた友人、もう1人が彼女だ。
彼らが世に出している作品や発言をなるべく読んでは、自問自答したり、ヒントをもらったりしている。

まだ、メンタル不調の症状がある中で会うのは、迷惑をかけてしまうかもしれないというリスクがあった(実際、私の言動は、抑うつ傾向による攻撃性があったように振り返って反省している。)し、久々に人と会う、声を出すので、うまく話せるか自信は無かったのだが、とにかく行ってみることにした。

「スナックはまゆう」は、新宿駅から新宿東宝ビルに向かって右側の飲食街の一角にある「デカメロン」というアートスペース兼バーで、水曜日のみ営業をされている。
路地に少し入ったところにそれはあり、行くと、店先に彼女がいた。「上坂さ〜ん!」と声をかけると、「めっちゃ久しぶり!」と応えてくれて嬉しかった。その日は、「まじわらないかもしれない」のひらりささんもいるという。ひらりささんと入れ違う形で、カウンターに座り、手始めにウィスキー「上坂」のハイボールを飲むことにした。

上坂さんとちゃんとお話しするのは、今回が初めてだった。

以前、とあるプロジェクトでお世話になった際、私は事情があって打ち上げに参加できず、直接お話しすることができなかった。また、青山ブックセンターでは他にもファンの方が沢山いて一言・二言声をかけてもらっただけだった。
その後、「スナックはまゆう」を開いているのを知っていたが、なかなか行く勇気が出なかったし、とにかく緊張して、うまく話せる自信がない、というのが、「スナックはまゆう」に行けなかった理由である。

お会いすることに、こんなにモジモジするくらい、私は上坂あゆ美のファンなのである。

なのに、今回お会いした時、私の天邪鬼な性格が災いし、なかなか素直に気持ちを表現できず、ついついイジってしまったことをここで懺悔してみる。

怒りって光と似てる 路地裏の掃き溜めすべてはじまりだった 

「老人ホームで死ぬほどモテたい」(上坂あゆ美)

弔いの海物語 マニラにも沼津にも海は海として在る

「老人ホームで死ぬほどモテたい」(上坂あゆ美)

待ち合わせしましょう各々の最寄りの海で すべてはつながってるから

「老人ホームで死ぬほどモテたい」(上坂あゆ美)

「老人ホームで死ぬほどモテたい」は上坂さんのこれまでの人生を、短歌を通して「お焚き上げ」したもの、だという。(詳しくは、ぜひ手にとって読んで欲しいと思う。)

可愛い歌も、切ない歌も、力強い歌も様々にあるが、形容するならば「F1カー」だなと思う。
目の前に迫ってきたかといえば、急カーブで走り過ぎていく。
決して、交通ルールを破るわけではない倫理性やマナーがある。
ささやかなこともハードなことも、淡々として冷静でクール。

また、「老人ホームで死ぬほどモテたい」は、抑揚ある雰囲気から徐々に、ただただ静謐になっていく印象がある。
その静謐さの中で、短歌を読み進めた後、巻末に東直子さんの解説と、ご本人のあとがきがある。
東直子さんの解説は、上坂さんを抱擁するような愛情に溢れていて、深く深く彼女を理解しようとしている文章に感動した後、ご本人のあとがきを読むと、なぜ本の題名が「老人ホームで死ぬほどモテたい」なのかを謎解きする内容となっており、私はその内容に感動して泣いた。「すごい、すごい」と思って泣いた。

これまでの沢山の感情や経験が、短歌という表現方法によって、うねりを伴って昇華され、「上坂あゆ美」という結晶が現れてきた様子を見た。美しい魂ってきっとこういうものなのだろう、と思わずには言われなかった。

魂は自由である。
当てはめられ、分断され、主体を奪っていく「システム」の対極にある。
揺れ動き、越境し、システムの綻びから抜け出していける。

それからというもの、私はずっと上坂さんのファンである。

とはいえ、彼女を理想化しないことにもしている。理想化って、支配欲と近いものがあると思うから。いつか、何か自分と合わないと感じた時に、憎悪を持って「こきおろし」をしてしまう可能性があると思っている。

彼女の表現することに、モヤることもあるし、同意できないこともある。
でもそれが健全だろうとも思う。
だって、違う人間だから。

そして、私がそういう姿勢でありたいのは、ただ1人の人間として認識したい自分がいることに気付く。
それは、彼女自身が「私は私である」というスタンスでいるだろうことと、他者にも「あなたはあなた」と1人の人間であるというスタンスで接しているのだろうな、というのを感じているからである。

これは、「スナックはまゆう」で感じたことでもある。

おそらく業界人のお客さんも多いであろう「スナックはまゆう」には、ファンも多くいるようだ。
それぞれに満遍なく、等しく接する様を見て、あるいは「タバコ吸いに行かない?」とサラッと誘ってくれる様を見て、X(旧Twitter)やエッセイやポッドキャストの上坂さんがそのままそこにいて、「上坂さんは上坂さんなんだ」と思って嬉しかった。

透き通るように、まっすぐだった。

だから私は、これからも彼女をすごい人と思いすぎず、「上坂あゆ美」として認識し続け、随所で自己開示する彼女の輪郭から、内なる対話を通じ、自分自身の輪郭も見つけてみたいと思っている。

彼女は自身のキャパシティを「デカい豪華客船」くらいの大きさだという。
あの日、「スナックはまゆう」にいた私は、新参者の乗組員であった。

でもずっと専属の乗組員でいたいかというと、そうでもないな、と思っている。彼女は船長で、精神的なロールモデルではあるけれど、全てを委ねてしまうのは、「私は私」という主体性を放棄することであって、不健全だと思うからだ。

インナー上坂をインストールしつつ、でも依存しない。
私は私の足で立って、いつか同じ景色を、境地を見てみたいと思うのであった。


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