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気がついたら何者かになろうとしている。自分じゃない誰かに。

ある本に書いてあったこと。

自分の価値観だと思っていることの中にも、幾重にも幾重にも、他人(ひと)の考えがおおいかぶさっている。

剥がしても剥がしても、まだそこに「世間の一般常識」や「親が考えていること」などが存在する。

それを注意深くみていってあげることが大切だ。

と。

私は他人の意見でみずからを覆いつくして生きてきた時間が長く、今でも油断するといともカンタンに、そのようなもので自分を覆ってしまう。

といっても、本当の自分なんていうものは他人との関係のなかで生まれるわけで。実際には自分だけで作れるものではないということも、わかっている。

だから、ここでいう「本当の自分」とは、こんな感じ。

自分が心から良いな、好きだな、と思えるものだけから、それらのエレメントを好きなように取り込んでいった結果できあがった意識。

それを仮に「本当の自分」と呼ぶとして、この話を続けたい。

私は、無意識に「本当の自分」とは逆方向に走っていることがある。

たとえば先日、ブログライティングについて友人と話していたときのこと。

私は、ブログにおいても、自分の苦手なことをやろうと奔走しているのではないかと指摘された。

私はブログを書くとき、情報をまとめる作業が苦手だ。

ある人やモノ、事がらについて、自分なりに分かったことをまとめる。これは得意。

だけど最近のブログを見ていると、それを語るために「そもそも●●とは?」など、しっかりと分かりやすい情報を補完してあげることが一つのフォーマットとなっている。

これは、読む人が読みやすいように、そして、より多くの人に読んでもらうため、あるいはページの滞在時間を長くして、Googleの検索順位アップを狙うため。

だけど、私はそうやって情報を補完していると、他人の知識を切り貼りしている気持ちになってきて、大概の場合には「こんなことやって何になる」と虚しく思えてきてしまう。

だが「人の役に立つ記事を書く」ということはそういうことなので、絶対に必要なことだとも感じていて、私はビジネスライティングには向かないと落ち込んでいた。

その一方で、仕事でSNSやWEBサイトのライティングをやるときには、逆に私情が一切ないことで解放され、思い切って目的に沿った文章が書けて気持ちよかったりすることも、実感しているのだけれど。ここらへんの考察については、また後日。

しかし。

それを聞いた友人が、私がまた苦手なほうへと懸命に努力していると指摘。

なぜなら、大概の場合、その「自分なりにまとめる」のほうができなくて突出できずにいるのだと。

だから、その「自分なりのまとめ」部分がしっかり書けることこそ私の最大の強みなのだと。

それさえ書けたら、前後の情報まとめなんてどうにでもなる。とのこと。

…目からウロコ。

私が自分なりにまとめたものなんて、誰も読みたくない。欲しいのは情報だ。

そんなふうに思ってきた。

だが、友人の意見は、たしかに一理あると思わざる得なかった。

なぜなら、自分が長く勘違いしてきたことに気づいたからだ。

ブログでもSNSでも、よく言われることがあって、「芸能人や著名人でないかぎり、あなた個人の日記や思っていることなど誰にも読まれない。人の役に立つことを書きましょう。やりましょう。」というやつ。

これは、たしかに確かなことなんだけど、私はここで大きな勘違いをしていた。

「あることについての自分なりの意見」これも「個人的なこと」と捉えていた。

だが、よくよく考えてみれば、それは大切なライティングのエレメントだと気づかされた。

…。

長年にわたり、出る杭打たれる生活してきたから、もう分からなくなっている笑。

なぜこういうことが起きるのか??

理由はカンタンながら、やっとのことで気づいたのだけれど、私みたいな人間は、どうやら少数派らしいのだ。

思ったことを忖度なしに口にしたり、やりたくないことを絶対にやろうとしなかったり。そのかわりに、物事を珍しい角度や方向から見て語ることができたりする。

それで、そういうことって、ある程度、距離のある関係だと面白がってもらえるんだけど、実際に一緒に仕事したり、友人として深く関わってたりしていくと、多くの場合は否定されはじめる。

常識や固定概念にとらわれない言動は、人を良くも悪くも刺激してしまう。

自分が怖くてできないことをいとも簡単にやっている人をみたら、潜在的にやりたいことを我慢して生きている人たちは、それを否定する。

そしてそんな相手がどこか遠くに行ってしまうように思えて、自分のいる世界に留まらせたいと願う。

私自身は、自分のことを特別だとか凄いとか、そんなことを思ったことはない。

ただ、どんな人にも世界は自由で平等なものだと思っているだけなんだ。

けど、多くの場合、それは伝わらない。

どんなに口で肯定していてくれても、行動として私をきっちり受け入れてない場合は、同じこと。

以前は行動でなく発言で判断してしまって、なかなかその見極めができなかったりしたけど、最近はもうあまり迷わない。

それは、私自身も自分とちがう考えの人たちを否定しなくなったからかもね。前はやっぱり否定されると「有り得ない!間違ってるのはそっちだ!」という気持ちがあったけど。

今は、否定されるのは相手の弱さだとわかるし、自分の問題じゃないから、あまり気にしないし、気になる場合は即座に離れることができるようになってきた。

ちょっと横道に逸れたが、とにかくそんな少数派で育ってしまった自分なので、そんな自分を好きでいることは、なかなか難しかった。

ブログに関していえば、まったく勘違いしたままで、自分は間違ったことしかできないと、失敗したまま去ろうとしていた。

友人のさり気ない言葉に、感謝。

その友人は、生まれて初めてぐらい、私の考えや分析を面白がってくれる存在。

そういう友人ができて初めて、自分の価値を少しずつ肯定できるようになってきている気がする。

まぁ、最近わたしが口にしてることって、8割ぐらいが「ジブリ汗まみれ」出典なんだけどね…

ということで。

実は今日の朝も、やたらと焦って自分が何者かになりたい気持ちで、何かやらねばと思っていたのだけど。

自分なりのペースで進みたい自分をみずから差し置いて「とにかく日々なにかやってる感がある」ということに向かいそうになっていた。

危ない、危ない。

いいんだ。

突き抜けてもいいし、休んでもいい。

そういう自由で、生きていけるといいよね。

#ただの日記  #ブログライティング #SNS

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