「天気の子」を見て。――ネタバレ注意な視聴感想文

 ちょっと今更感があるのですが。2020年7月23日~26日、突如世情的に外出が厳しくなってしまった、梅雨のあけないままに突入してしまった四連休を利用して、新海誠監督「天気の子」を視聴しまして。で、ちょっと印象に残る作品でしたので、ちょっと感想文をしたためてみました。

注:この文章は、新海誠監督「天気の子」という作品のネタバレを思いっきり含んでいます。

※ 本作は、小説家になろうに転載しています(https://ncode.syosetu.com/n0948gk/)。


「今思い描いたことを書き残してみようかな」

 新海誠監督のアニメ映画「天気の子」を見て、ふとこの文章を書こうと思った動機は、そんな理由でしょうか。

 まあ、ストーリーとしてはボーイミーツガール、少年が少女と出会って一緒に頑張って恋をしてと、そんなありふれた「お約束」の物語なのですが。
 ただ、その物語の「背景」、雨が降り続ける街や雲の割れ目から差す陽の光、天気を願って祈る姿に一喜一憂する人たちの風景がちょっと気になる、そんな作品だったかなと、そんなことをふと思いまして。で、こうして筆を執ってみた訳です。

……で、この文章を読まれる方の多くは「天気の子」という作品を見たことのある人かな、なんて思うので、もしかすると不要なのかも知れませんが。でもまあ一応、以下にざっくりとしたあらすじを書き記してみます。

 離島で生まれ育った主人公の帆高(ほだか)は、フェリーに乗って東京にやってきた高校一年生の家出人。雨が降り続く東京で、ネットカフェに泊まりながら仕事アルバイトを探すがなかなか見つからず、マクドナルドの店内で途方にくれていたところ、そのあまりの甲斐性の無さげな姿に、アルバイトをしていたヒロインの陽菜(ひな)さんにビックマックをごちそうになってしまう。
 やがて、フェリーの中で知り合った胡散臭いおっさんライターの圭介(けいすけ)の元で住み込みで働くことになった帆高は、陽菜と再会し、彼女が祈ることで局地的だけど晴れを呼ぶことができる能力があることを知り、「100%の晴れ女」という商売を始める。その商売は軌道に乗って人気を博するが、その「天気の巫女」の能力には代償があって……

……で、二人が出会ってから三年後、水に沈む東京で二人は再会して満面の笑顔で喜び合って幕を閉じると、ざっくりと言うと、そんな作品ですね。

 で、このエンディングを見て、どうだろう?、これはちょっと斜に構えた考え方かもしれませんが、でも、結構素直に、こんなことを思ったのです。――ああ、これはハッピーエンドだな、と。

 作品を見終わったあと、少し物語を振り返って、このエッセイを書いたりもしましたが。それでも、その感想は変わっていません。やっぱりね、この物語はハッピーエンドだと、今でも思っています。

――東京が水没してても、雨が降りやまなくても関係ない。この物語は、「誰にとっても」幸せな終わり方だと思うのです。だって、その世界に住む誰もが、「降り続ける雨のために誰かを犠牲にしても良い」なんて思っていないと、そう思えますから。

  ◇

「なにが何が異常気象じゃ。だいたい観測史上初とか、世間はすぐそんなことを言う。そりゃいつからの観測だ。せいぜい百年、この絵はいつ描かれたと思う? ――八百年前だ。
 そもそも、天気とは天の気分。人の都合など構わず、正常も異常も計れん。しめってうごめく天と地の間で振り落とされぬようしがみつき、ただ、仮住まいさせていただいているのが人間。昔は皆、それをよぉく知っておった。

――それでも、天と人を結ぶ細い糸がある。

 それが天気の巫女、人の切なる願いを受け止め、空に届けることができる特別な人間。昔は、どの村にもどの国にも、そういう存在がおった」

 物語の中盤、圭介とその姪の夏美は、「100%の晴れ女」という都市伝説の取材の一環として、とある神社を訪れます。そこで、神社の神主さまは語ります。天気に正常も異常もない、そのことを昔の人はよくわかっていたと。それでも天気を願い、それを届けることができる特別な人がいたと。そして……

「ただのう、やはり物事には代償がある。天気の巫女には悲しい運命があってのう」

……そして、その願いには、人の自由にならないはずの天気を願うという行為には、代償がある。そう神主さまは、二人に語るのです。

 この言葉の通りに、天気の巫女となった陽菜さんに、悲しい運命が襲いかかります。降りやまない雨を止めるために陽菜さんは、空の上でたった独り、静かに消え去るという運命を受け入れようとするのです。

  ◇

 私は、あの物語はハッピーエンドだと思います。だって、誰も陽菜さんを犠牲にしてまで晴れて欲しいなんて思わないと思うんですよ。主人公の帆高も、ヒロインの陽菜さんも、陽菜さんの弟の凪も、家出した帆高を助けていた圭介や夏海も、絶対にそんなことは望んだりしないと。
 身近な人たちだけじゃない、陽菜さんに晴れ女の依頼をしたお客さんたちや、帆高や陽菜さんを追い回していた警官たちも、他の誰も陽菜さんが人柱になることなんて絶対に望んだりはしないと。例え見ず知らずの人たちでも、誰かを言葉通りの意味で人柱にしてまで雨が止むことを望んだりしない、あの世界にはそういう人たちが住んでいると、そう思うのです。

 もしもあの世界が狂っているというのなら、それは雨が降り続けてるからじゃないと思います。雨が降り続けることよりも一人の少女の命、少年と少女の出会いを大切にする、そんな世界は狂っていると、そう思いそうにもなります。

――だけど、天気なんて、本来であれば人にはどうすることもできないのです。そんな天気のことで、これから先もずっと雨が降り続ける、たったそれだけのことで、誰かが罪悪感を抱かないといけないような世界は、もっと狂っていると思うのです。

 作中で描かれた世界は、今の世界は、きっと雨が降りやまなくても笑って過ごすことができる、そんな世界なのですから。

  ◇

「もう二度と、晴れなくたっていい。青空よりも、俺は陽菜がいい。――天気なんて、狂ったままでいいんだ!」

 物語の終盤、陽菜さんを探し求めて雲の中の世界に行った主人公の帆高が、陽菜さんと共に落下しながら叫ぶ言葉です。いかにもこの人の作品らしい、とても綺麗な青空の風景にどこまでも青い台詞。だけど、たとえ恋仲でなくても、この言葉の価値は変わらないと思います。

――天気のために、青空なんかのために、誰かが不幸になってもいい。そんな考え方をしたい人なんて、きっといないのです。だから、この帆高の叫びは、どれだけ自分勝手な言葉のように思えたとしても、きっと正しいのだと思います。

 そして何より、女の子に向かって「青空よりも君が良い」と叫ぶだなんて、とても勇気のいることではないでしょうか。……まあ、告白なんて、勇気ある言葉に決まっているのですけどね(笑)

  ◇

 雨が降り続ける世界は狂っていますか? たった百年間、天気を観測しただけで本当にそんなことが言えますか。人の都合など構わずに何が正常で何が異常なのかも計れない、そんな天気を狂っているなんて誰が言えますか? これは、物語の中盤で、神主さまから投げかけられた問いです。

 天気を癒し、人の切なる願いを受け止めて空に届けることができる巫女がいて、その巫女に悲しい運命が待っている。あの世界にはきっと、天気の巫女に訪れるであろう悲しい運命のことを知りながら人々の切なる願いを届けさせたであろう過去の人たちがいて、そんな人たちが今の世界を作ったはずなのです。
 そんな過去の人たちと、「もう二度と晴れなくていい。青空よりも、俺は陽菜がいい。天気なんて狂ったままでいい」と叫んだ帆高と、どちらが狂っているのでしょうか? そんな帆高のことを受け入れる人たちの作る世界と、過去から続く、天気の巫女の悲しい運命を受け入れてできたであろう世界と、一体どちらが狂っているでしょうか。
 誰もが天気の巫女のことを忘れた世界なのに、なのにその犠牲を、悲しい運命を受け入れないといけないような世界は、本当に狂っていないと言えるのでしょうか? 何も知らないで、知らないふりをして誰もが犠牲のことを見ない、目をつぶって見ようともしない世界は、本当に正常な世界なのでしょうか?

 少なくとも私は、誰かを犠牲にした世界よりは、誰も犠牲にならない世界の方が、好ましく感じます。

  ◇

……でもまあ、そうですね。ちょっとだけですが、あの世界の気象庁長官には同情します。だって、さすがに数年間も雨が降り続いたら、誰かが責任を取らないといけないと思うのですよ。そうなると、やっぱり気象庁がその監督責任を問われることになるのかなと。

 前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。(以下略)

――民法第714条第1項(責任無能力者の監督義務者等の責任)より引用

 まあ、普通に考えればね、天気に責任能力を求めることはできないと思います。作中だと「雨の魚」とか出てきましたけど、「雨の人間」とか「雨のお金」とかは出てきませんでしたし、きっとそんなものはあの世界にも無いと思うのですよ。でもきっと、長く振り続ける雨は多大な損害を与えたんだろうなぁと、そうも思う訳です。

 そうなるとね、やっぱり天気の所管省庁である気象庁には、天気を掌握、監督しきれなかったことによる責任が生じると思うのです。だからうん、多分最低でも一回は、気象庁長官に責任をとって辞任していただく必要はあるのかなと。まあ、それもちょっとかわいそうな気もしないでも無いですが、しょうがないですよね。

 もう二度と晴れなくたっていい。気象庁長官が責任を取ればそれでいい。――そんな風に私は思うのですが、どうでしょうか(笑)

  ◇

……とまあ、ちょっとアレなジョークを交えてしまいましたが。

 新海誠監督自身がこの作品について、インタビューで以下のように語っています。

「この映画について『許せない』と感じる人もいるだろうと思いました。現実の世界に適用すると、主人公の帆高は社会の規範から外れてしまうわけです。弁護士の先生にもお話を聞いたんですが、法律で考えても、結構な重罪で…。帆高が空の上で叫ぶセリフも許せないし、感情移入できないという人もたくさんいると思います」

「いまの社会って、正しくないことを主張しづらいですよね。帆高の叫ぶ言葉は、政治家が言ったり、SNSに書いたりしたとしたら、叩かれたり、炎上するようなことかもしれない。でもエンタテインメントだったら叫べるわけです。僕はそういうことがやりたかった」

『天気の子』新海誠監督が明かす“賛否両論”映画を作ったワケ、“セカイ系”と言われることへの答え(URL:https://movie.walkerplus.com/news/article/200868/)より引用

 そうですね、私もこの作品は賛否両論あるだろうなと思います。作品を見たあとにこの記事を見て、その言葉に納得もしました。空の上で帆高が叫んだ言葉を間違っていると感じる人もいると思いますし、その人が間違っているとも思いません。
 ただ、私は空の上での帆高の叫びや、最後に陽菜さんと再会したときの台詞、「僕は選んだんだ。あの人を、この世界を、ここで生きていくことを」という言葉は良いと思いました。

 誰にも不幸を望まれていないであろう少女に、少年が想いのままに叫び、気持ちをぶつける。世界と一人の女の子を天秤にかける。これはそんな、どうしようもなくありふれた物語で、それなのに、世界よりも互いを選んだ二人を、その世界に住む人たちが温かく迎え入れる、これはそんな物語でもあると思います。

――だから私は、この物語はハッピーエンドだと思います。だって、誰もが望む結果で終わったのですから。

 物語の最後の方で、水に沈んだ東京の風景が映し出されます。きっとその風景も、人々の営みの生んだ、美しい風景の一つなんだと、私は思います。

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