自分の好きな『F1』

皆さん、こんばんは!Yama Kei(やまけい)です。奈良県民としてはどうしても取り上げなければいけないようなニュースを目にしました。


「外国の緊急事態宣言とはまったく質がちがう、日本の緊急事態宣言だということを念頭においてどうするか考えますと、どういう意味があるのかなとまず思う。要は、実効性のあるようなウイルスとの戦いを志すには、それがこんなに効果があったよと皆さんの効果性についての判断になると思いますが、そんなご判断もお聞きしながら、どういうやり方がいいのか知恵を出していきたい」
Q:緊急事態宣言が出れば、知事が対応を迫られる部分あると思うが?
「あんまりないですよ」

奈良県に住んでいる者としては、隣の大阪府の吉村知事等が積極的な行動をされているのをテレビ、Twitterでよく拝見していました。吉村知事の対応を見てから荒井知事の今回の対応を見ると、残念です。

ちなみにこの翌日の発言はこちら。

休業要請は検討中とのことです。

昨日までの『地方の話』シリーズも終わり、今日は以前に1回した自分の好きな『○○』シリーズをしたいと思います。

モータースポーツといえば?

皆さんは、『モータースポーツ』という言葉を聞くと何が思いつきますか?

車やバイク等を使って行うレースのことをモータースポーツといい、

F1なら名前は聞いたことがあるという人がほとんどだと思います。

ということで今回はF1について詳しく紹介していきたいと思います。

F1とは?

F1は、Formula(フォーミュラ)・Oneの略です。

Formulaというのは、全参加者および参加車両が準拠しなければならない一連の「規定」を意味しています。

「F1=速い」のイメージを持っている人が多いですが、いったいどれぐらい早いのかこの動画を見てください。

https://www.youtube.com/watch?v=rtRXLB4psIU

鈴鹿サーキットでの映像ですが、鈴鹿サーキットの国際レーシングコースの全長は1990年当時5.85943km、約6㎞。6㎞のコースを約1分半で駆け抜けてしまうほどのスピードなのです。

今回は、この動画の中に出てくるドライバー、アイルトン・セナが活躍した1980年代後半から世代交代を迎える1990年代半ばごろまでを紹介します。

F1四天王の誕生、日本人初のフルタイム参戦 1980年代後半

日本でF1がフジテレビで放送されるようになった1987年。この年は鈴鹿サーキットで初めての日本GP開催等F1ブームが日本に来ます。その当時のF1で優勝争いをよくしていたのがこの4人

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右から、アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ

1987年、左側2人はウィリアムズ・ホンダでチームメイト、プロストはマクラーレン・TAG、セナはロータス・ホンダに所属していました。

鈴鹿サーキットで日本GPが始まったことに加え、ブームの火付け役になったのが、複数チームにエンジン供給を行っていたホンダ(本田技研工業)の活躍やF1に日本人で初めて1年間フル出場したドライバー、中嶋悟の登場等があったのです。

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アイルトン・セナと中嶋悟

この年のシリーズチャンピオンは、四天王の1人であるウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケになりました。

翌年の1988年マンセルはフェラーリ、セナはマクラーレンに移籍します。

セナがマクラーレンに移籍したことに伴い、マクラーレンにホンダがエンジン供給を行うことになりマクラーレン・ホンダとなります。

セナとプロストがチームメイトとなったマクラーレン・ホンダはこの年、全16戦のレースのうち、15勝を挙げ圧倒的な強さを見せます。

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セナがドライブするマクラーレン・ホンダのMP4/4

この年のシリーズチャンピオンは日本GPでセナが初めて獲得します。

セナ・プロ時代の幕開けです。

日本では元号が変わった1989年も、マクラーレン・ホンダの強さは変わりません。しかし、セナとプロストの関係は悪化。それを決定づけることが日本GPで起こってしまうのです。

https://www.youtube.com/watch?v=cx8bg9sm8Vs

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セナとプロストがシケインと呼ばれるコーナーで接触します。プロストはその場でリタイアしましたが、セナは走り続けました。セナは1位でフィニッシュしましたが、接触した際にコーナーをショートカットしたという事で失格になってしまい、この年のシリーズチャンピオンはプロストに決定しました。なかなか後味の悪い結果となってしまいました。

このころからセナは音速の貴公子と日本で呼ばれるようになります。

日本人初の表彰台、ホンダ撤退、そして・・・。1990年代前半

1990年、プロストはフェラーリに移籍。チームメイトではなくなったとはいえ、2人の確執はまだありました。この年もマクラーレン・ホンダ好調の中、シーズンは進み日本GPになりました。

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1周目の第1コーナーに突入する際の写真

この写真が撮られた直後、最前列にいるセナとプロストは再び接触します。

2台とも直進しクラッシュしたため、2人ともリタイアし今回はセナがシリーズチャンピオンになりました。

この年の日本GPでは特筆すべき話題がもう1つ。中嶋悟に続く2人目のフル参戦ドライバーであった鈴木亜久里(すずきあぐり)が日本人初の表彰台に乗ったのです。

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左端の3位表彰台にいるのが鈴木亜久里選手

日本人でF1の表彰台に乗った人は鈴木選手を含め2020年現在わずか3人です。

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2004年アメリカGP、右端にいるのが佐藤琢磨(さとうたくま)選手

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2012年日本GP、右端にいるのが小林可夢偉(こばやしかむい)選手

1991年もマクラーレン・ホンダの好調は続き、セナが3度目のシリーズチャンピオンを獲得したのですが、翌年からは革新的な出来事が起こるのです。

1992年、ウィリアムズ・ルノーがハイテク化を進め自動制御により飛ぶ鳥を落とす勢いで四天王の1人、マンセルが16戦9勝という強さを見せシリーズチャンピオンを獲得します。

この年の伝説的なレース、モナコGPについて紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=d9gmHZOpgko

F1のグランプリの中で最も伝統があるモナコGP。市街地コースで有名です。

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2018年のモナコGP

1992年にはモナコマイスターと呼ばれるセナとこの年シリーズチャンピオンを獲得したマンセルの一騎打ちが演じられました。

結果、0.215秒差でセナが優勝、マンセルが2位という結果になりました。レース終了後、2人は疲労困憊しており立つことがやっとの状態でした。

93年にはマンセルの後をプロストが継いで2年連続ウィリアムズ・ルノーがシリーズチャンピオンを獲得

そして迎えた1994年。セナはウィリアムズに移籍しますがこの年からハイテク装備が禁止になり、マシンの状態は不安定に。その結果、セナはポールポジションを獲得していましたが、開幕後2戦はリタイアを喫します

1994年イモラ-最後のレースに臨もうとするセナ

そして迎えた第3戦のサンマリノGP。後に『呪われた週末』と呼ばれるグランプリウィークの初日、セナの同郷ブラジル出身のルーベンス・バリチェロが大クラッシュ

ルーベンス・バリチェロのクラッシュは悪夢の序章にすぎなかった

不幸中の幸い、骨折程度のけがで済みましたが翌日の予選2日目。

新人のローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ。

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マシンが原型をとどめないほど大破し、ラッツェンバーガーは衝撃で頭蓋骨骨折、ほぼ即死状態だったといいます。グランプリウィーク中の死亡事故は12年ぶり。ドライバーの誰もがナーバスな状態になりました。

このグランプリでもポールポジションを獲得したセナ。しかし、決勝でもクラッシュは起こってしまいます。

スタート時にエンジンストールしたマシンに後続マシンが衝突。破片は観客席にも飛び散り、腕を切断した人もいたらしいです。

この事故によりセーフティーカーが登場。事故処理終了するまで走り、セーフティーカーは退場することに。セーフティーカー退場後の再スタート後の2周目。この週末4度目の事故が起こります。

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音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナがコンクリートの壁に時速約200㎞で衝突。マシンが大破し、その中の部品がヘルメットを貫通。ヘリコプターで病院へと運び込まれ、懸命な蘇生が行われましたがその甲斐も無く亡くなってしまいました。

この時点でF1の1つの時代が終わってしまいました。

その後、安全化が進み94年のこの事故まではドライバーの方が見えている状態でしたが、最近では横からは顔も見えないほどになっています。

セナの死以降、ミハエル・シューマッハやフェルナンド・アロンソのようなカリスマ的ドライバーが現れましたが、F1ファンの中で1番はやはりアイルトン・セナだと言われています。

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ミハエル・シューマッハ

今日はF1の1時代を紹介しました。明日の題材はもう少し考えます。

今日はここまで。ありがとうございました。

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