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夏の夜

夢を見ている。

その事実に気付いた途端、私は「私」の背中を空中で見つめる形となった。
自分の後頭部など見たことがないので、まじまじと見つめてしまう。
いや違うそんなことをしている場合ではない。


「先生、早くここから逃げましょう」


趣のある日本家屋の一室。柱にかけられた古めかしい時計は振り子を静かに揺らしている。
文机の上に原稿用紙が何枚も重ねて置かれているのも見えた。
薄い座布団の上に座り、一心不乱にペンを握る壮年の男性に向かって、「私」は先生と呼び掛けている。
先生は聞こえなかったのかペンを走らせる手を止めない。


「先生、早く逃げないと」


寝巻代わりの和服を着ている先生の袖をそっと引いた「私」が、そう言いながら何かに怯えるようにこちらを振り返った。
どきりとした。
目が合ったようにも感じたのと、その目が恐怖で濡れていたからだ。
私にまで伝染した恐怖が、後ろを振り向かせる。
後ろには襖があるだけだが、なにやらその向こうから足音が聞こえている。
とたとたとた…。幼いこどもが拙い足取りで駆けているような、そんな足音が。


「先生!逃げましょう!!」


再三の訴えに、先生はようやく手を止めて顔を上げた。
「私」をまっすぐに見据える先生の顔を見て、私はあっと声を上げた。その顔に見覚えがあったからだ。
教科書に載る彼の写真は、右手で頬杖をついているものだった筈だ。文豪、夏目漱石である。


「すぐに逃げましょう。近づいてきています」

もはや恐怖で歯の根も合わない状態で、「私」はひたすらそう訴える。
髭をたくわえた先生は袖を掴んでいる「私」の手を振り払った。
先生は私を…正確に言うならば私を超えてその奥、襖の向こうを一瞥した。


「私はここで構わない。逃げなさい」
「でもっ、先生!」
「いいですか。もし見つかっても声を立ててはいけない。息を殺して、やり過ごすのです」


そう言って先生は「私」の手を取り立ち上がる。
足音の聞こえてくる方とは逆の襖を開けて、廊下へと「私」を放り出した。
「私」は二、三歩たたらを踏んだ。体勢を整えてすぐに振り返った「私」の視線の先に、慈しむような眼でこちらを見る先生が立っていた。


「さらばだ」


先生、と絶望の淵に立つ「私」の声が聞こえたのかどうか。先生はぴしゃりと襖を閉めた。
そうしてくるりと踵を返してまた元の座布団の上に座りなおす。
先生はペンを持つことはせずに目を閉じて腕を組んだ。
何を考えているのだろう?とそう思ってふと気づく。
正体の分からない何かがやって来るこの場に、私は取り残されてしまった。
とたとたとた。
足音が先ほどよりも随分と近い。振り返るのも恐ろしく、どうにかして宙を泳いで壁際に移動した。

がらり。

建付けの悪い音がして襖が開いた。先生は目を開けず、ただじっとしている。
私は恐ろしくて視線を動かせず、先生ばかりを凝視していた。
しかし足音の主が、私の前に立った。
こどものような足音だった筈だが、それはひどく大柄だった。
全身黒い靄のようなものに覆われて、どこに目があるのかも分からない。
それなのに。

見られている。

目の前に黒い靄が広がっているだけだが、そう感じた。
先ほどの先生の言葉を思い出し、悲鳴を飲み込んだ。息すらもできる限り止めた。
ゆっくり、ゆっくりと靄が私の前を移動していく。
靄の行く先は先生だ。
先生も声を出していないのに、やつには先生が分かっているようだ。
迷いなく先生の背後に近づき、唐突にがばっと大きく口を開けた。


「先生!!」


先生が食べられてしまう。思わず叫んだ。
やつが物凄い速度で私の目前に迫った。視界が黒一色になる。
しまった。食べらr

飛び起きる。
息が乱れて、汗をかいている。
周囲を見回せば、フローリングの床にベッドだけが置かれた自室である。

恐ろしい夢を見ていた。
目が覚めてよかったと胸を撫で下ろす。

息が整うのを待って再び横になった。
きっと、次は逃げられない。


という夢を見ました

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