別れの季節

新年度になりもう1か月が経過してしまった。
旦那は配置換えになり毎日遅くまで残業をしている。
2人目がほしいならば育休をとると誓え!と迫ったばかりなのに。


新年度は出会いの季節であり別れの季節でもある。
娘の主治医も新年度になり異動で遠方に行ってしまった。
出会ってから一年も経たずに別れとは。
なんと無情な人事異動。
だがしかしきっと戻ってきてくれると信じて待っていようじゃないか。
そう思うぐらいには私も旦那も彼を好ましく思っている。


大学病院のシステムはよく分からないが、理学療法をしているリハビリ病院からの紹介状を持っていって最初に診てもらった後、主治医が決まった。
どんな人が主治医になるのかと戦々恐々としながら診察室へ足を踏み入れた私が見たのは、なんだかチャラそうなイケメンであった。
わたし、いけめん、とてもにがて。

回れ右して帰りたかったが後ろには旦那と義母がいて逃げ場所がなかった。
仕方なくベビーカーを押して先生の前にまで来たが、並んだ椅子のうち一番医師から遠いところに腰かけた。
だってわたしいけめんにがて。
イケメンに苦手意識のある私のことを理解している旦那が会話を引き受けてくれた。
チャラそうな彼は表情筋があまり動かないタイプらしく、娘に対してもあまりにこっとしないまま「ちょっと見せてねー」と可愛く話しかけていた。

…なんかこの人独特だな

整った顔立ちだが、表情筋が仕事をしない。
子どもに対してもそれは同じ。
でもそれがだんだんクセになるという…恐ろしいイケメンである。

診察室のベッドに横たえた娘を、彼はとても丁寧に診てくれた。
多い時は月に2回ほど通うのだが、毎回首すわり~腰すわりのあの診察を丁寧に行ってくれる。
そして毎回ポケットから膝蓋腱反射を診るためのあの器具を取り出す。

あの、聞いてみたいのですが小児科医はみんながみんなポケットにあの器具持ってるんですか?
先端にシリコン製っぽい三角形がついた例のアレです。
うちの主治医いつでもポケットから出してたんですが、小児科医は必携なのでしょうか?


話がそれた。
チャラそうと思った彼はとても真面目に娘のことを診てくれた。
見た目で判断してしまったことを内心で深く詫び、彼のもとで娘の病気を調べる日が始まった。
血液検査から髄液検査まで、検査は多岐にわたった。
腰椎穿刺の時なんかは検査の方法や不測の事態の可能性など聞くだけで血の気が引いたが、主治医がいつものごとく表情筋仕事しろ、な顔だったのでかえって落ち着けた。
なるほどあの表情はこういう時に活きるのか。


今時病院では名前を呼ばないところが多くなった。
大学病院もその流れにのっとり、その日機械が割り振ったであろう番号で掲示板に表示される。
最初は番号が表示されたら診察室に入る、という普通の流れだった。
しかし気付いたらいつの間にか待合室のキッズスペースで遊ぶ我々を主治医が診察室から出てきてお迎えしてくれる流れに変わっていた。

こんなことしてるのこの主治医だけである。
キッズスペースで寝返りを頑張る娘を応援していたら、主治医が近くにやって来た。
「娘ちゃーん」と名前も呼ぶ。
受付の機械が自動で吐き出す“あなたは○○番とお呼びします”の紙が泣いている。

そして娘をベビーカーに乗せるのを待って、主治医が先導して診察室へと入っていく。
この人他の受け持ちの子に対してもこうなんだろうな。
たくさんの患者がいるだろうに娘の名前と顔と親の私たちを認識してくれているのは嬉しい。
嬉しいがいいのか。悪目立ちしてないのか君は。


その彼がいつものように表情筋仕事しないままで診察終わりに告げた。

「残念ながら異動になりまして。新年度から他の病院勤務になりました」

あまりに淡々と言うのでそうなんですかー、とうっかり流しかけた。
私自身異動もなにもない中小企業で働いていて“異動”という単語に馴染みがなかったからである。
その点異動の可能性がある旦那はさすがに反応が速く、どちらに!?と聞き返していた。
隣県の病院で、引越しが面倒だと主治医は言っていた。

あんまりあっさりしていて、実感が湧かない。
実感が湧かないまま日々を過ごし、この間とうとう最後の診察を受けてしまった。
旦那がお世話になりました、ありがとうございましたと告げるのに合わせて私も礼を述べた。

「こちらこそありがとうございました。娘ちゃんのこと、原因を突き止められずすみません」

彼は詫びた。
すみませんも何も、当初から原因や病名がはっきりする可能性が低いことは言ってくれていたじゃないか。
何を詫びる必要があるのか。
旦那が戻ってきますよね、と思わず聞いていた。
主治医とは1年も経たない付き合いだが、この短期間に多くの検査や検査入院を乗り越えてきたからか随分と慕わしく思っている。
どうですかね、と珍しく苦笑いを浮かべた彼は、すぐにいつもの顔に戻った。
いつものように次回の予約を入れた彼は、最後に娘にバイバイしてくれた。
娘はバイバイを理解できない。
(というか親である私たちを認識しているかどうかすら怪しい)
でもこの時はかえってよかったのかもしれない。
理解していたら絶対ぐずって泣いて大変だったはずだ。


予約表には彼の名前ではない、見たことのない名前が載っていた。
次の主治医になる人の名前だった。
それを見てようやくああもう彼に診てもらえないんだなと実感した。


ああいう時は戻ってくるって言うんだよ、嘘でもな。
次会った時にはしっかり教えてあげないといけない。




万が一億が一彼がこの文章を見る機会を得た時に備えて書き添えておきたい
見るわけがない?そんなこと誰が分かるものか
ネットの海は広大だが世間は狭いと昔の人はうまいことを言っているじゃないか

先生へ
あの。年上なんでしょうか年下なんでしょうか。
踏み込んだ質問ゆえ旦那も私もずっと聞きたくても聞けずにいました。
戻っていらした時にでも教えていただけたら嬉しいです。
新しい配属先でもお元気で。
娘に携わってくださってありがとうございました。

いただいたサポートは、車で往復4時間弱のところにある娘の病院に通う際のガソリン代や駐車場代に使わせていただきたく思います