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いつまで育ててるのか問題。

私が住んでいる土地はこのところ、春の陽気が続いているので、単純な私はまだ春休みも始まらないというのに、浮ついた気持ちでいる。
私自身に春休みがあるわけではないが、子供たちが長期休みに入る前はなんだかふわふわした気持ちになる。
子供の頃のあの何とも言えない気持ちが、胸の奥底でうずくのだ。
どうやらそれは、うちの三姉妹から感化されているように思う。

長女が少し遅いスキー学習に出かけて行った。
3月のこの時期になったのは、年末年始のコロナのせい。
ここ最近は本当に暖かいので、雪深い地域と言えど本当に大丈夫なのかと心配したが、そこはさすがにスキー場。雪がありません、なんてことはないようだ。

私の知らないところで、子供たちは育っていく。
年々、子供たちが家にいる時間が減っていく。
授業の時間が増え、部活が始まり、帰ってくれば自室にこもる。
自分がそうだったように、家族より友達になっていく。

寂しくは思うが、ちゃんと成長していることを感じて嬉しい。
話したい事あれば「お母さん聞いてよ」ってすり寄ってくるのもかわいい。
子供たちが2~3歳のころ、「今が一番かわいいわよ」とよく言われたが、今だって十分かわいい。
おっといけない、娘の自慢話は置いといて。

私はさっき、ライターになりたての頃から所属しているサイトのライタープロフィールを更新しようと思い立った。
今までのプロフィールには子持ちの主婦であることや、自分の得意分野を書いていた。
得意分野やできることは自分の現状を書けばいいのだか、「子育てをしています」と書くのはなんだか違う気がしてきたのだ。
未就学児や、小学生ならなんとなく、「育てている」でもいいのだけど。
中学生ともなると、「育てている」感じがしないのだ。
まだまだ保護下にあるし、年齢だって成人ではない。
なのに、「育てている」感覚は少し違うように思えてきた。

同じ屋根の下に住み、食事を共にし、たまに服やバックをシェアし、お互いの悩みを相談しあう。
私にとって長女はもう「育てる」人ではなく、「ともに生きる」人なのである。

もちろん、相手は思春期真っただ中で、親を疎ましく思うこともあるだろう。それでも、彼女は私を親としてだけでなく、「中学時代を経験した人」として、話をしてくることがある。
私はそのたびに、自分の中学時代に思いを巡らせ、嫌な思い出しかない時代のことを話す。

私は、長女を通して、楽しい中学時代を取り戻しているのかもしれない、と思うこともある。
つまり、自分により近い存在になってきているから、「育てる」が腑に落ちないのだ。

さて。どうしたものか。
私のこれからのプロフィールは何を書こう。
3姉妹とともに生きるだとなんだか少し重い気がするし。

実際は仲良くぶつかり合いながらわぁわぁぎゃあぎゃあ毎日を過ごしているのだけど。
これをスマートに文字に起こす能力は、私にはまだ無いようだ。

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