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「わからない」に捧ぐ

いくつになっても、別れにだけは強くなれない。

思い返せば、涙を流すのは決まって誰かと別れるときだった。正確には、それが永遠の別れであるか、きっとそうなるとわかっているときだった。

記憶にある初めての永別は、祖父が旅立ったとき。数学教師として生涯を全うした祖父は、晩年をアルツハイマーに悩まされた。

ぼくが数学を学び始める頃、祖父は息子である父の名前も思い出せなくなっていた。だが何かを忘れまいと、財布の小銭を大切そうに数えるのだけはやめなかった。その姿は、祖父の生きた89年という歳月が最後まで誇らしく、ぼくの中で生き続けるのだと教えてくれた。そこにいるかぎり、自分ではない誰かの人生となり続ける。涙を流してからしばらくして、生きているとはそういうことなのだと知った。

日本酒を教えてくれた伯父の訃報を聞いたときも、学生時代お世話になった塾の恩師の最期も、長年一緒に暮らした猫が虹の橋を渡ったときも、ぼくは泣いていた。初めての異動を迎え、新人時代から過ごしたオフィスに向かう最終日の朝は、まだ人影もない道で静かに涙を浮かべた。アイコンの子とアルザスではぐれてしまったときもそうだった。もう会えないと、心のどこかでわかっていたから。


そして今日も、涙を流した。お昼ご飯を食べながらひとり。液晶に並ぶ言葉の一つひとつに、行き場のない想いを馳せて。何度も読んだ。そのたび零れる涙とともに、交わしてくださった言葉を思い出しては、また零れるそれを止められないでいた。

お会いしたことはなかった。なんなら、ちゃんとお話したことすらなかった。画面越しにお姿を眺めて、少し言葉を交わした程度。それでも零れたのだった。会っていたのだ。言葉というあなたに。

わかることばかり考えて生きてきた。そうあることが正しいと信じていた。わからなければ、息が止まってしまうと思っていた。生きるためには、わからなければいけないのだと思っていた。

ところが、わからなくていいと言っている人に出会った。その人は、わからないことを楽しもうとしていた。歩みをゆるめてごらんと声を掛けてくれた。わからないからこそ、考えが、想いが、そして言葉が、生まれてくると教えてくれた。

ぼくはその言葉に、救われた。たくさん言葉を紡いで、たくさんわからなくなればいいと思えた。言葉は、何かをわかるために紡ぐものではなかった。わからない世界を、ずっとわからないままにしておくためだったのだ。

知ったときから、覚悟はしていた。でも泣くと思ってなかった。会ったこともない人とのお別れで。会ったこともないのに、泣くなんてダメだと思っていた。身勝手だと思った。もっと涙を流したい人がいるのだから。

今年の初め、一緒に新年を寿いだ。同じお酒を、別の場所で飲みながら。あのとき、遠く離れて交わした盃の音が聞こえたような気がした。その音を確かめることは、もうできない。

心動いたとき、言葉が零れるのは知っていた。だから、今こうして浮かび上がる言葉をただ連ねている。でもこんな心の動き方は望んでいなかった。

もっと言葉を交わしたかった。だから、もう交わせない言葉の代わりにひとり盃を交わします。

届くと信じて。
献杯。



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