見出し画像

届くことのない解像度の終着点

この文章は、今日しか書くことのできない暫定回答です。

本日、入谷聡さんの主催する「#磨け感情解像度」コンテストの結果が発表されました。閉幕こそしたものの、1カ月以上に及ぶ盛況が生み出した熱は、当面冷めやらぬ状態が続きそうです。

応募総数215件。受賞者の方々をはじめ応募されたすべての皆さま、お疲れさまでした。そして、全作品に素敵なコメントをくださるという偉業とともに、このような場を作り上げてくださった主催の入谷聡さん、運営のサトウカエデさん、カラエ智春さん、Mica Hiraiさん、本当にありがとうございました。

小説、詩、エッセイなどの逸品がひしめく中、ぼくの応募作『「感情解像度」の解像度』というコラム(?)を佳作に選んでいただきました。通知が来たとき、平静を装って心の中で飛び上がるように喜びました。改めて感謝を申し上げます。

佳作の発表記事の講評で、主催の入谷さんから次のようなコメント(宿題?)をいただきました。

kaoruさん、あらためて結果を見渡してどうですか? 「続編」の考察にも期待してます!

まだ応募作すべてに目を通せておらず、続編の準備が整う気配は些かもないのですが、今日の結果発表と皆さんの反応を見る中で、新しく見えた世界を言葉に残しておきます。

講評で、入谷さんはぼくの応募作にある次の段落を引用されていました。

説明されない世界は不安と恐怖に満ちている。それを前にして人は慄き、悲観し、時に絶望する。だから人は未知なる世界に言葉を与え、説明可能な状態をつくる。たとえそれが十分な説明ではない幻想だとしても。言語というルールによって、世界を説明可能なものとして秩序化していく。

この一節は、応募作の直後で引用した宮下誠氏の著書『20世紀絵画~モダニズム美術史を問い直す~』によるものです。宮下氏の世界に向き合う姿勢がソシュールの言語観と似ていることもあって、ぼくは強い影響を受けました。

宮下氏は、同書で次のように述べています。

説明されることで、解釈されることで不思議は消える。ものそのものの持つ圧倒的な存在感は希薄となり、人は世界から決定的に疎外される。そして人の作った説明原理によって世界を拘束的に見るよう仕向けられる。「…として見よ」。これが言語の本質である。

人は、自分が見た(感じた)世界を言語によって再構築し、人工的な新しい世界を作る。それは、自分がゼロから築いた安住の空間です。説明されることによって人は「自分の視点」を獲得し、安心し、盲目となりがちです。

これは、小林秀雄氏が著書『美を求める心』で指摘した、次の有名な一節に通ずるものがあります。

言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。

この指摘は、最近専ら巷を賑している「言語化」に対するアンチテーゼだといえます。

書店で言葉に関する本を見かける機会は、一昔前に比べてずっと増えました。文芸・ビジネスのジャンルを問わず、言語化、語彙力、文章術の手腕を磨こうという大きな潮の流れ。「言葉にできること」は、今や社会において確かな価値観としての地位を確立しつつあります。

おそらく、今回の「#磨け感情解像度」コンテストも、少なからずその時流を受けたものなのではないかと思います。ぼくは小説もエッセイもろくに書けません。応募作を開いては、参加者ひとり一人が自分の言葉で切り取った世界の美しさと、その言葉の磨きの巧みさに感嘆するばかりでした。

小林秀雄氏の上記指摘は、時代を超えて、そんな「磨くこと」に対して一石を投じているようにも見えます。眼を閉じてはいけない、すなわち、磨くことをやめてはいけないと諭すかのように。磨き続けるべき対象は自分の手腕はもとより、「生み出した文章」であると。

優秀賞の受賞者のお一人である上田 聡子(ほしちか)さんが、コンテストの発表後に次のような記事を書かれていました。

この記事を読んで、ぼくははっと気づかされました。文章は書き手が磨いた後も、読者によって磨かれ続けるということ。今回のコンテストの講評や、運営の皆さんが丁寧に連ねてくださったまとめ記事を見れば一目瞭然です。

そしてnoteは、その繰り返しが許される空間だということ。書き手と読み手の解釈の応酬。それは紛れもなく螺旋階段を上っているという意味であり、アウフヘーベンと呼ばれるべきものです。何より、両者の真摯なコミュニケーションにほかなりません。

これは、嶋津亮太さんとふみぐら社さんの対談記事で、お二人が仰っていた「お互いが動いていく」という一節と重なる気がしました。

また、マリナ油森さんが奇しくも先日界隈にお声掛けくださった、こちらの企画の趣旨にも通じるものがあると思っています。もっと開放的に習作(エチュード)を作る。それは、書き手と読み手がお互いに揺り動かされることで実現される、双方向の運動ではないかと思います。

読み取られた世界も、また読み取られる運命にある。言葉によって築き上げられる自分の世界は、あまりにも複層的です。複層的な世界を映しだそうとする言葉が、磨かれるほどに多義的であることを疑う必要がどこにあるというのでしょう。

幾重にも連なった光景が凝縮された1粒の雫。そこを覗き込んで見える世界は万華鏡のようにどこまでも複雑で、多様な色に輝いていて当然なのです。磨かれた言葉だけが持つことを許される、密度の高い虹色の煌めきです。

ただ、ぼくが自分の応募作の中で言及したのは、主にネガティブな感情表現についてでした。

コンテストの応募作でも多く扱われていた喪失の悲哀や孤独の不安。こうしたネガティブな感情と対峙するために、その解像度を高めるために、人は言葉を磨くのではないかという仮説。これは、楽しさや喜びなど、ポジティブな感情表現の解像度を高めたいことの説明にはなっていません。最優秀賞(下記リンク先にて!)が、主催者である入谷さんの涙を誘いつつも、「喜び」をテーマとした作品であったことは非常に示唆的だと思います。

受賞者の皆さまの作品はおろか、まだ読めていない珠玉の作品がたくさんあります。コンテストは終わったようで終わってない。むしろこれからぐらいに思い始めました。ゆっくり読みながら、宿題を解いていきます。

暫定回答なので、この記事はいつか書き直します。それは宿題の答えが見えてきたときで、届くことのない解像度の終着点に、少しだけ近づけたときになるのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?