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『豊饒の海 春の雪/三島由紀夫』 ネタバレ考察

もともと小説の考察とかまとめとかを書きたくて始めたノートですが、なぜか映画の感想しか書いてなかった。久しぶりに春の雪を読んだので、これを機にまとめてみたいと思います。いずれ読書会や、一学期とか1年とかかけてじっくり読む準備も兼ねて。なんとなく豊饒の海全体のネタバレも含むと思います。(途中のページ数は新潮文庫版のものです)

優雅とは

春の雪は、三島由紀夫の遺作、豊饒の海の第一巻。貴族の恋の物語。

この作品を語る上で、外せないのが「優雅」のテーマ。言葉を変え形を変え、全編を通じて何回も登場します。

例えば、冒頭で、一つの優雅の完成形でして示されるのが、妃殿下の御姿。

P13:「清顕の目には、その末広がりの匂いやかな白さが、奏楽の音につれて、あたかも頂の根雪が定めない雲に見え隠れするように、浮いつ沈みつして感じられ、そのとき、生れてはじめて、そこに女人の美の目のくらむような優雅の核心を発見していた」

対照的に、序盤での清顕の優雅はまだまだ未完成/発展途上。

P20:「強いて説明すれば、彼(清顕)は何事にも興味がないと言おうとしたのだ。彼はすでに自分を、一族の岩乗な指に刺った、毒のある小さな棘のようなものだと感じていた。それというのも、彼は優雅を学んでしまったからだ。(中略)彼は優雅の棘だ。しかも粗雑を忌み、洗煉を喜ぶ彼の心が、実に徒労で、根無草のようなものであることも、清顕はよく知っていた。蝕もうと思って蝕むのではない。犯そうと思って犯すのではない。彼の毒は一族にとって、いかにも毒にはちがいないが、それは全く無益な毒で、その無益さが、いわば自分の生まれてきた意味だ、とこの美少年は考えていた」
P25:「何か決定的なもの。それが何だかはわからない」
P140:「それはいわば彼のぎくしゃくした優雅のため、虚栄心とほとんどすれすれな未熟な優雅のためであった。聡子の優雅の持つみだらなほどの自由が嫉ましく、それに引け目を感じてもいた」

これらから見えてくる思想は、優雅意志の対比。
清顕は、意志というものを持たず、感情のままに生きることを自身に課しており、それが彼の優雅の源となっている。ではなぜ意志が優雅となり得ないのか。それは作中で本田さんが語っているように、意志は達成されないからだ。彼の言葉を借りるなら、「歴史は人間の意志通りに動かない」

意志が歴史を形作ることはできない。
と言うのも、例えばこの世のあらゆる権力を手に入れたとしても、歴史がその者の思った通りになる保証はないばかりか、あらゆる何かは達成されるや否や崩壊を始める。そして、その者の意志とは全く無関係のところで、その者が思い描いた歴史が達成されたりされなかったりする。これは人類の意志が歴史に関与できないことの証明に他ならない。(自由意志というものを信じ続けるためには、「偶然」に頼る必要がある)

よって、人間が持つのは「歴史に関わろうとする意志」に過ぎず、それらの意志とは全く無関係に、歴史は流れるままに流れていく。意志は必ずや挫折する
ならば、無意味である意志に囚われることが、どうして優雅になりうるだろう。故に、意志とは無関係に、移ろいやすい感情に生きる清顕は、優雅の体現者であり、歴史のあり方の体現者でもある。

一つ注意したいのが、「感情に生きる」というのは、(周囲に)流されることではない。優雅は、歴史は、何にも強制されるものではない。

(例えば、P140:「事前な成行は自然に強いられてそうなるという感じを与え、何事につけて強いられることのきらいな感情はこれから抜け出して、今度は却って自分の本能的な自由を縛ろうとさえするからである」)

感情とはただそれだけのためにあり、ただそれが望むままに歩みを進めるだけ。そのあり方は本来とても必然なもの。だからこそ、清顕の感情を外部から揺さぶることのできる聡子は、清顕にとって天敵なのだ。そして、外部からのコントロールを赦してしまっているがために、清顕の優雅は未だ未熟である。

絶対の不可能による優雅の羽化

「何が清顕に歓喜をもたらしたかと云えば、それは不可能という観念だった。絶対の不可能」(P217)

聡子に勅許が下ったことで、物語は本筋に入っていく。
聡子との恋が不可能になったことで初めて、清顕は聡子に恋をする。

恋愛というものが、他者を通じて自身の理解や自身そのものを深めていく行為であるならば、ここに清顕のキャラクターを掘り下げてみることができる。
聡子の優雅への憧憬という、とうの昔から実在していた事実を清顕が享受できるようになったのは以下の理由による。すなわち、事態が不可能となった今、清顕に聡子への恋を強いるものはなく、よって聡子への想いは清顕自身から湧き上がるものに他ならないことは明確である。

そして、『優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を』という構造から、この二人はさらなる優雅の高みへと上り詰めていくことになる。改めて、この舞台装置を作り上げた三島先生天才だな……

逆説的に、近年の多様化する社会はある種の優雅の死を予言するのかもしれない。優雅が禁を犯すものであるならば、多様な生き方が許容され、あるべき姿というものが喪われていく現代においては、至高の禁は存在しうるのか。
貴族文化亡き現代に優雅を体現させるなら、どんな題材を選ぶだろう?

「女の囚人はどんな着物を着るのでしょうか。そうなっても清様が好いて下さるかどうかを知りたいの」(P331)

こんな文章が書けるようになりたい。

優雅の完成:三島由紀夫は誰なのか?

清顕にも本田さんにも、三島先生に共通する点があるだろうことは言わずもがななのだけれど、どういう位置付けなのか考えるのは結構面白いと思う。

清顕に三島由紀夫を当て嵌める上で、一番のネックとなるのが本田さんの存在、本田さんを書けてしまう事実。なぜなら、このような構造的美を描くことのできる=優雅の構造を認識してしまっていることを示すから。

清顕の行動は「意志によるものではない」ことが優雅の根元となっている。
一方で、一度「こういった行動が優雅である」と理解してしまうと、
・優雅な行動をとろうとする
・「優雅な行動をとろうとする」ことをしない
のいずれもが、強いられた意志をもってしまって、優雅に到達できない。(これを本田さん本人は後日「認識の地獄」などと呼んでいたはず。)だから、こんな小説を書ける人間は、本来優雅の体現者ではあり得ないはず。と言うか、認識していては描き出せないはずの優雅がここに現界している。

「それが俺にはいちばんの謎なんだ」(by 本田さん、P130)

最後の場面で、清顕が身体を病んでいく描写があっさりとしていることに戸惑いを覚えた人も多いんじゃないかと思います。でも、清顕の病状に語るべきことなど何もない。なぜなら、そこには何の意志も介在していないから。まるで水が高い場所から低い場所へと流れ落ちるように、必然なことというだけ。

だから、清顕の生き方・死に方は狙ってできない。
世界に選ばれたような必然の死こそが、清顕が体現した優雅の完成。これは天人五衰の透君の苦悩にもよく現れていますね。

だからこそ、優雅と認識の構造的現界に挑み、一つのアウフヘーベンされた形を提示する試みというのが、私のこの「春の雪」という作品の解釈です。そして、この世界に存在する「恐ろしい必然の神」「認識の地獄」を描き出していること、それらに救いを与えうることが、豊饒の海の「世界解釈の小説」たる一つの由縁であると思っていたりします。

実際の三島由紀夫の姿がどこにあったのか、彼の割腹自殺は何に従ってなされたものだったのか、今となっては分かりませんね。

その他

自由意志の否定は、深い深い絶望であるはず。
今回一緒に読んだ方が、「結局、清顕が死んで聡子が出家するだけで、世界は何も変わっていない。欧米的な(?)ヒットの法則にはのっていない」と言ってて面白かった。「自分の意志で世界を変える」というのは、本作で否定される「自由意志が歴史を作る」という幻想そのものですね。
春の雪を観賞するためには、自然な、ありのままの姿であることに美を見出すような文化の地盤が必要なのかもしれない。

最後に、言うまでもなく、春の雪に描き出された優雅は、こんな風に構造的に解析できるものだけではない。むしろ、こうやって理解することで、解体されてしまう類のものかもしれないのが、なお厄介ですね。

やーーー最高だった。また読みたい。

(以下、豊饒の海全巻のネタバレ)














そう言えば、豊饒の海読み終えた人は、ぜひ春の雪の三十六章に戻ってみてください。だからと言うわけではないけれどニヤッとするはず。

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