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水の透明のゆらめき

 水の流れというのは、不思議と綺麗だ。透明に透きとおる流れは、一つの形を、同じように流している。石のあいだを通る水は、ほのかにゆらめいて、柔らかな髪が風に流れるように、ふんわりとたなびいている。

 水を見つめていると、自分もその、水の流れのようなものだと、思うことがある。心の流れる、自分というものが、そこに一つある水の「形」に似ていると、そう思った。体のほとんどは、一ヵ月で入れ替わる。流れる水の、同じ水であることが決してないように。

 その考えは、「すべてものは、流れ動いている」という古代ギリシャのヘラクレイトスの言葉に近いが、少し違う。時間のゆらめきうごくなかで、世界は流動していると考えるのは、一つの深味をもつ。だが、時の流れが、水の水流のようなものだとすると、その水流のゆらめきの、一つ一つの「形」は、同じ一つのものとして、そこにある。ゆらめく紋様の形は、一つの風合いを彩り、その質感は、ゆれうごく水の、印象を与える。

 「もの」は、そのような、時の流れのなかの、「質感」以上のものではないのかもしれない。ヘラクレイトスは、すべては流れ動き、同一を保つ「もの」はどこにもない、と考えて、「もの」というのは、その世界の流動の、ぶつかり合う闘争の炎であり、火が眩く燃えては消えていくように、すべては流れ去る、と考えた。

 しかし、時とは、たしかに流れゆらめくものだが、存在がその流れのみであって、「同じもの」は存在しない、というのは言い過ぎだと思った。水の流れには、その紋様があり、その様相自体は、水によって流れ動く。しかし、柔らかな髪の流れるような、その印象の感触は、心のなかに宿る、一つの灯火のように、同じ一つのものとして、記憶のなかに灯りつづける。

 印象の与える質感は、私たちが一つ一つの「もの」を識別するのに、寄与していると思う。そして、心の世界というものは、その「質感」がほのかに干渉しあって、波打つ香りを、ただよわせるものなのかもしれない。

 あらゆるものが、水のように流れていき、存在をゆらめかせるのは事実だと思う。その点では、ヘラクレイトスは正しい。しかし、ゆらめく流動しかないと思うのは、その流動に宿る、一つ一つのゆらめきの紋様の大切さを、忘れさせる。たとえ流れ去るとしても、そして流れ去りゆくものでしかないとしても、透明のなかに生まれる形の様子によって、私たちは生きている。時のなかに、流れゆらめきつつも、しかしほのかに同じ様子を示すのが、私たちの心なのだろう。 

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