もしも聖書が神の言葉であったら-3
【#もしも聖書が神の言葉であったら-3】シリーズ
さて。
編さんされているという点について、もう少し。
情報を伝える時に、多くの編集者はきっと「何を書き加えるか」より「何を残すか」という、「そぎ落とす」行為に時間を割くのではないかとわたしは想像する。
そのため、そぎ落としはしたものの貴重な情報は「スピンオフ」として保管しておくのではないだろうか。
もしも聖書が神の言葉であったら、それらそぎ落とされた部分の書が後の時代に発見されても何ら不思議ではないと思う。
ある人々は、「編さんされている」ということを「書き換えられている」と言ったり、「他の書の部分が発見された」ということを「現在の聖書は信用ならない」と言うかもしれない。
けれどこの可能性はないだろうか?
「現在の聖書の信ぴょう性をより強めることになる発見だ」と。
どちらに転ぶのかは、わたしには分からない。
けれど可能性はどちらにもあると、わたしは考えている。
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