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傑作を書こうと張り切るほど駄作になってしまうジレンマ



「好きこそものの上手なれ」と言われても、好きという感情が完全なる片思いであれば、あまり上手になれないこともあるんじゃなかろうか。

たとえば私は物心がついた頃から絵を描くのが大好きで、将来の夢といえば絵描きさんだった。そして脳内では、「絵描きさん」という将来の夢に対する猛烈なイメージが完成していた。むしろ完成されすぎていた。


それは、"木漏れ日の美しい林の中にイーゼルと椅子を置き、鳥の声や川のせせらぎを聴きながら、森や草花の繊細で瑞々しい絵を描く" ……という(なんともステレオタイプかつ現代的ではない)イメージで、そうした理想像に少しでも近づこうと、小学生の頃は庭に椅子を置いて植物を写生し、スケッチブックに絵の具を乗せて仕上げていた。けれども、完成した「作品」を発表すると、いつだって母は「あんた、落書きのほうが、ずっとええなぁ」と言ってくるのだ。


辛辣ながらも母の言う通りで、真っ白な画用紙を前にすると「さぁ、名画を描こう!」だなんて力んでしまう。もちろん名画を描くほどの技術も知識もない上で表層だけを真似るので、子どものくせに嘘っぽい絵に仕上がってしまうのだ。

今になってその内訳を考えれば、絵が描きたいという純粋な欲求を追うより前に、理想的な行為をしている自分自身のほうに酔っていたような気がする。それはなんというか、「好きな人が好きなのではなく、恋をしている自分が好き」みたいな状態であって、永遠に通じ合えない拗らせ片想いなのである。


そんな私ではあるけれども、何も考えずチラシの裏に落書きをするとなれば、途端に自由に楽しく描けていた。母は、そうした落書きを見つけては「味があるわぁ、ええやんか!」と褒めてくれるのだから、こちらはきまって複雑な気分になるのだ。でも確かに今見ても、落書きはそれなりに良い味を出している。


つまり私には、絵の才能が微塵もなかった訳ではなく、理想像が明確すぎて、それを意識すればするほどに、自己愛拗らせ片思い状態に陥っていたんだろうな、と。脳内で強烈になにかを意識していると、表現はどうしても、借りものの劣化版になってしまう。

そしてなにより、傑作を、最高傑作を……だなんて自分のハードルを上げてしまうと、目の前の駄作にうんざりして、結局ちっとも続けられない。

結局私は、美大の実技試験を終えた18歳の冬を境に、ぴたりと絵を描くのを辞めてしまった。



──


けれども、物書きにはなれた。

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