曖昧だからこそ
「あなたの文章には、具体的な感情を表す言葉が滅多に出てこない」というようなことを友人に言われて、確かに……と思った。書いているときは非常に感情的なのだけれど、最終的にはできるだけそれを隠すようにしているのだ。あまり気づいていなかったけれど。
たとえば、アメリカから帰ってきた直後の話を書いた以下の文章。新居に入居し、そこに画家のAestherから餞別としてもらった絵を飾った日のこと。
冒頭の「白木のフレーム」「新居」「水彩画」というキーワードはいずれも、新生活に対するさわやかな期待を込めている。あたらしくて、軽やかなものばかり。その一方で、「まだ家具のほとんど揃っていない」「一人」は、寂しさや不安を表している。だからこの文章をもう一歩感情的に書くならば、以下のような感じになるでしょうか。
くどいな……(笑)。と自分で書きつつ思ったのだけれど、温度が伝わりやすいのは下の文章かもしれない。
ただ、下の文章にあるような「私なら出来る!」というのはあくまでも自分に対して言い聞かせているセルフエンパワメントな言葉なのだ。それを誰かが読むような場所にそのまま書いてしまうと途端に「私を応援してください!」という意味が強く出てきて、自ずと読み手の感情をデザインすることになってくる。
──
読み手の感情をデザインする……というのは、言ってしまえば、読者の感受性を低く見積もるということでもあるだろう。
本来多くの人は、行間から、言葉選びから、情景描写から、そこにある感情を想像する力を持っている。それがたとえ間違った解釈だったとしても、想像は自由に頭を巡る。
けれども作り手側がそうした、「間違った想像」を恐れたり、もしくは受け手の想像力を信頼していない場合、「ここは応援するところですよ」「ここは泣くところですよ」と感情の進む道をデザインしていくこともある。わかりやすくて親切な文章……とも言えるけれど、そうした文章を私はあまり好まない。感情を他者に奪われているような感覚になるから。
私の存在は、時間は、労働力は、ときに「誰かのもの」となり便利に活用される。それはとてもありがたいことだ。私たちはそうやって、社会の一部として暮らしているのだから。
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