机上の空論と、高校生



インターネットの世界で生まれ育った私ですら、やっぱりオンライン一択というのはしんどい。これまでは「あえてインターネットを選ぶ」から楽しかった訳で、電波状況を確認しながら話すテレカンも、オンラインで楽しむエンタティンメントも、それしかないとなると、当たり前にしんどい。目の前に実態がないものを見続けると、身体的な感覚が狂ってくる。そして自分が狂っていることに、渦中ではなかなか気づけない。


同時に、自分の書く文章にも抜け落ちたものを感じてしまう。ステイホームを遵守する人間が書く社会問題なんて、机上の空論でしかないんじゃない?安全圏の中で過ごしている人間の話にどれほどの説得力が……と自己否定を重ねつつも、とはいえそれを生業にする訳で、ネットの世界に文章を投げ込み続けた1年間。読者からの感想も、編集者からのフィードバックも、つるりとした画面の向こう側から現れる。

そんな日々がおよそ15ヶ月も続いて、先日いよいよ、人前で話をすることになったのだ。人!身体を持った人の前で!

感染症対策のために席数はかなり少ないが、開始前から梅田の蔦屋書店にずらりと並ぶお客さんの姿が目に入り、そこに人がいることに動揺してしまった。あちらも私の姿を見つけて「あ!」という顔をしていたので、軽く会釈をしつつ控室に逃げ込んでしまう。そして名前を呼ばれて壇上に上がれば、そこにはもう人、人、人………沢山の目がこちらをじっと見ている。もうずっと、もぐらのように過ごしていたから、その光景だけで頭が沸騰してしまいそうだった。



「塩谷さんって、実在するんですね!」

なんとか90分のトークイベントを終えた私に、お客さんの一人がそう話しかけてきた。そのセリフをそのまま「いや、読んでくれてる人も実在するんやなぁ、ってびっくりしてます」と返しながら、お互いしげしげと実態を伴う相手を観察した。つるりとした画面の向こうに相手が実在するということを、頭ではわかっちゃいたけれど、身体は忘れかけていたのである。

あらためて会場を見渡せば、人、人、人の詳細は様々だ。洒落た大学生の男の子二人組、会社員をしているという女性二人組、薬局ながら本屋も併設しているという風変わりな薬剤師さん、いつも一緒に読んでいますというカップル、「塩谷さんにとっては、親ほどの年齢なのですが……」と言いながらも熱心に感想を伝えてくれる女性。

もしこれがTwitterの画面上であれば、思想だけが文字として浮かび上がるから、「あの人と私は思想が違うな」というところばかりにフォーカスしてしまうのだ。でもこの目で見ると、顔も、喋り方も、服装も、まるで違うんだから、思想が違って当たり前だ。そんな「当たり前」の前提条件がすぽりと抜け落ち、時に思想が違うというだけで好戦的になってしまうんだから、オンラインの社交というのはむずかしい。


──


お客さんの中で、一人飛び抜けて若い男の子がいた。隣には、どうやらお母さんらしき女性が立っていて、私の前に立ち固まってしまった息子にエールを送っている。しばらくして、彼は震える声で「以前このようなメールをお送りしたのですが、僕は高校2年の……」とスマホの画面を見せてきた。その瞬間、あぁ、あの子か! と私も思い出した。


1年前に、「この春から高校生になる○○です。5年前から塩谷さんの記事を拝見しています」というメールを受け取り、私は心底びっくりしたのだった。だって、高校1年生の5年前って、小学5年生じゃない。その頃からずっと、私の記事を読んでくれていたんだというから、衝撃のあまり記憶に残っていた。若い。若いけど、自分にもそれくらい若かった頃があるし、見知らぬ人にメールを送ったこともある。その記憶を懐かしみながら、「私がインターネットにハマりはじめたのもその頃だったので、なんだか嬉しいです。当時、学校は窮屈だったけど、ネットの先にある世界は輝いていて、本当に広い広い可能性を感じましたた」みたいな返事を書いていた。

彼がどんな学校生活を送っているかはわからないけど、私の記事に辿り着いてくれるのだから、きっと私と似たような子ども時代を過ごしていたのかもしれない……と想像して心がギュウッとなったのだ。

彼がそのとき送ってくれたメールには「私は将来、具体的にはまだ決めていませんが、環境問題、飢餓、貧困のような、地球規模の問題の解決に取り組む仕事をしたいと思っております。」と書いてあった。そしてこの1年で、色々と目指す方向が固まってきたらしく、「工学部の地球工学科に進学したいんです」としっかりとした言葉で話してくれた。地球工学。なんて未来ある選択肢なんだろう! 今は私の熱心な読者かもしれないが、10年後にはきっと、私は彼に教わるべきことが山程あるに違いない。


私は常々、これからの社会には環境問題のプロフェッショナルがさまざまな場面で必要になるし、私自身そうした専門家と協力して歩んでいきたい……という記事を書いてきた。まさに彼は、そうした道を歩もうとしているのかもしれないと思うと、頼もしくって仕方ない。もちろん、将来の夢なんてものは、何度でも変わっていいんだけど。


ただ私がずっと、これは机上の空論かもしれないと不安になりながらも書いていた文章が、誰かにとっての目標となり、そして未来になるかもしれない……という事実を前に、途端に嬉しさと、それに伴う責任感のようなものが溢れてきた。責任感というのは持って生まれるものではなく、頭の中だけでぐるぐると育てるものでもなく、誰かに真剣な眼差しを向けられたときに育つものなんだと思った。それが未来ある若者だと尚のこと。



──



しばらく我が子の様子を優しく見つめていたお母さんが「もう何年もずっと、塩谷さんにお会いして感想を伝えたいと言ってたんですよ。今日、やっと夢が叶いました」と伝えてくださった。聞けば、なんと遠方からわざわざ一泊二日で、大阪まで足を運んでくれたのだという。(なんと素敵なお母様!)


本当に実在して、ちゃんと届いている。その事実を前に、私は(ほんま、書いて良かった……)と何度でも思った。もちろん、彼の存在は知っていた。けれどもいざ目の前に、明らかに歳の離れた、日常生活で喋る機会もないような若者が現れると、現実味が身体いっぱいに襲いかかってくる。たった数分話しただけなのに、この1年ずっと欠乏していたフィジカルな歓びが、怒涛に満たされていく感覚に興奮した。


この1年間すっぽりと抜け落ちていたのは、この現実味、そしてそれに伴う責任感だ。

つるりとした画面の上に指を滑らせるだけで、人を傷つけ、立場を奪い、命まで奪えてしまう。自分が何を書いたとて、目の前の景色は平凡なままなのだから、まるてゲームをしているのと変わらない。そうした身体性を伴わない世界の中で、思いやりを持ち続けることはむずかしいのだ。私はネットの先にいる自分とは異なる姿形をした相手を、どれだけ想像できているだろうか。



まだまだ手放しに「会いましょう」と言える世の中ではないけれど。虚構と実態の間を行き来することでやっと、想像力が育まれるし、机上の空論は、誰かとの確かな約束に変わっていくのだ。まだまだ洞窟みたいな日々が続く中で、そのことを忘れないようにしなきゃいけない。


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