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『これぞ我が銃、我が愛銃』第16話「テクニカラー」(最終話)

「おはようございます」
「今日も遠くからごくろうさん。最終出勤日だよな?」
「ええ。皆さん、そうですけどね」

 持田は長谷川の執務机に歩いていくと、椅子にどっかと腰を下ろし、肘掛けに手を乗せる。その位置から〈スペシャルルーム〉を見渡す。視界には長谷川、京香、春奈が収まっていた。
「一度、座ってみたかったんですよ。確かにいい椅子」
「まあな。あれだぞ、スタッフの椅子も他の事務所に比べたら、遥かに高級なやつをそろえてたんだからな。『いい椅子がいい仕事をする』。昔、世話になった作家の先生に言われたんだよ」
「本当に今日でここを畳むんですか」と京香が言う。
「ああ、終わりだ。在籍タレントはお前らだけだし、持田以外のスタッフも去った。全員の転職先を世話できなかったことは悔いが残るよ。おれの不徳の致すところだ」
「長谷川さんはどうするんです、これから?」
「事務所の営業を停止したといっても、残務処理やら、あいさつ回りやらで、しばらくは忙しいよ。落ち着いたら、そうだなあ。まずは弟と面会か」
 春奈の表情が強張る。京香は「弟さんいらっしゃるんですか? どこか体の具合でも?」と素朴に聞く。
「篠塚は知らなかったか。小野里にもきちんとは言ってなかったな。おれの弟、出来が悪くて、しょうもないことばっかするんだよ。いまは著作権法違反で刑務所に入ってる。出てきたら面倒見てやらないと。そういえば、金属バット振り回してたガキ、あいつもどうしてるんだか」長谷川は遠い目をし、手のひらで下頬をさすった。

  春奈がメモ帳から一枚破り取り、持田に渡す。
「私ですか? 次は違う世界を見てみようと思ってます。芸能界は面白かったですけど、十分すぎるくらいに見させていただきました。もっといろんな〈界〉を見たいですね。まあ、あれですよ、ダサく言えば『自分探し』ってやつ」と言った持田は屈託ない笑みを作った。

 突如、鳴り響くコール音。机の上に電話機はない。
「あれ? もう電話も止めたんじゃ? どこから鳴ってるんです?」持田がきょろきょろして言う。
「袖机の一番下の引き出しを開けてみろ」
 言われたとおりにする持田。そこには昭和の香り漂う代物があった。
「なんですこれ?」
「ホットラインだ。特定のやつからしか、かかってこない。お前が入社したときに説明したはずだぞ」
「そうでしたっけ? 少なくともかかってくるのを聞いたのは初めてですね」
 持田は赤いダイヤル式電話機を机の上に置く。
「私が出ていいんですか? なんて出れば?」
「自分の名前を名乗ればいいだろう」
「どっちの?」
「お前が決めろよ」

 ジリリリ、ジリリリと鳴り続ける赤電話。持田は緊張する様子もなく、ひょいと受話器を上げた。
「はい、アンです。アン・ウンジュです。え、どなたでしょうか? 紅子さん? あの紅子さんですか! いまはどこにいるんです? ジャカルタ? インドネシアですよね。そこで何してるんですか? はあ。それはそれは。一旦、室長に代わりますね」
「スピーカーにつないでくれ。そこにあるだろ」
 持田は赤電話を机上のスピーカーに取り付け、皆に聞こえるようにした。
「おい、紅子。久しぶりだな。いま何してる?」
「いまはねえ、陶芸評論家として一角の人物になってるの。すごいでしょ。こっちでは有名人なのよ。今度、出張でしばらくケープタウンに行くんだけど、その前に連絡しとこうと思って」
「面白い生き方してんなあ。で、何の用だ」
「そっちにLetterさんはいる? 小野里さんと篠塚さん、と言ったほうがいいのかな」
「ちょうど来てるぞ。よくわかったな」
「こういう直感は働くのよ。二人に言っておきたいことがあるんだけど、代わってもらえるかしら」
「スピーカーでつないでるから、そのまま話せ」

 長谷川は赤電話を指さして、「こいつがB子だ」と春奈らのほうを見て言った。
「はじめまして。私は針山紅子。あなたたちが私の曲と歌詞に命を吹き込んでくれたのね。二人のことを知ったのは、例の騒動をジャカルタのニュース番組で見たからよ。といっても、これは怒らないでちょうだいね、世界の面白ニュースみたいなコーナーでわずか二分くらい流されただけ。しかも、前のニュースはベネズエラで牛と結婚しようと裁判を起こした男の事件だったし、あとのニュースはブルガリアの高校で教師と生徒が入れ替わって学校生活を続けてたとかいう、どっちも珍ニュースの間。あなたたちには大変な経験だったでしょう。二時間ドラマにできる物語かもしれないけど、インドネシアの人たちからすれば、二分間の珍ニュースなのよ」
「相変わらず、言いますねえ」と持田。
「誤解してほしくないわ。別にバカにしてるんじゃなくて、世界から見たらそういうことって言いたいの。だから、あまり気を落とさずにね。でね、小野里さんと篠塚さんにはお礼を言いたかったのよ。ニュースではビデオの映像がちょっと流れただけだったから、日本から取り寄せたわ。第四弾の最終作? になるのかしら、『かけがえのない歌』の一本だけだけど。私が一番思い入れのある曲だったし、二人もそれに応えてくれてるわ。きっと最高傑作のはず。それと、私がタイトルを付けなかったせいで、代わりに考えてもらってごめんなさい。誰の案?」
「あ、篠塚です。タイトルは私と春奈さ、小野里さんと一緒に全部を考えました」
「いい声ね。すばらしい。私が歌わなくて正解。実際、曲作りは好きだったけど、歌うのは苦手だったからね。逃げたのはそれも理由だったりして」
「西ドイツ時代の友人に命狙われてるからじゃなかったのか。心配してたんだぞ」
「ウソじゃないわよ。最近、日本のドラマでも流行ってるらしい〈ストーカー〉ってやつ。日本にまで追いかけてくるんでビックリ。私はインドネシアに逃げたけど、彼は結局、そのまま日本に居着いて、いまは栃木で農業やってるそうよ。ちょっと! 話が脱線しちゃったじゃないの!」
「悪かった。続けてくれ」

 テンション高く、あけすけな紅子の調子に、その場の全員が主導権を握られていた。
「小野里さん、あなたにもお礼が言いたい。私もね、ルックスはいいんだけど、あなたの瑞々しさというのか、純度には負けるわ。あと、私は歌うとき、といってもデビューする前だけど、とにかくなるべく体力を使わない、省エネスタイルだったから、あなたの頭のてっぺんから足のつま先までフルに使い切る、舞踏みたいな歌いっぷりには感服した。篠塚さんの歌声が小野里さんの体を中継して、モニターの走査線に乗って世に放たれる。歌ってのは一人だけでもできるけど、多くの人を経た化学反応で初めて誕生する味もあると思う。あなたたちの歌、いい味してたわよ。ただ、〈Letter〉って名前はイマイチかな。ビデオレターって言いたいのかもしれないけど」
「おれが考えた。修行が足りずにすまん」
「ま、そのうち一周まわってよく見えてくるかもよ。インドネシアに住む日本人の意見なんてあまり真に受けないで。そうそう、こっちの音楽シーンも面白いよ。大衆音楽のダンドゥットは西アジアや南アジアの音楽にロックを融合して、竹笛なんかの伝統楽器を用いることもあれば、ギターやドラムも取り入れる摩訶不思議な世界。私はジャワ語で歌われる〈ポップ・ジャワ〉が好きで、勝手に〈JPOP〉って呼んでるの。あ、もう切らないと。今度は南アフリカから連絡するかもね。私は来月にはもういないけど、インドネシアはいいところよ。この国も複雑な歴史を持ってるから、それだけ層が厚いっていうか。一度は来てみて。いろいろ考えさせられるし、気づきも多いわ。じゃあ、お元気でね。サンパイ ジュンパ ラギ!」

 スピーカーからはツーツーと終話を知らせる音が流れる。持田は受話器を置く。
「あの頃と変わらず、カラッとした人でしたね。陶芸評論家ってどうやったらなれるんですか?」
「おれが知るかよ。専門学校でもあるんじゃないのか」
 それから長谷川は「さて、おれから二人に話があるんだ」と芝居がかった口調になる。演技は素人のため、よりわざとらしく聞こえる。「今日でお前らともお別れだ。迷惑かけたな。オファーしたとき、お前たち自身で決めろなんて言ったけどな、ああいうのは卑怯者が言うことだ。内心、おれはやってほしいと思ってたんだから。こういう騒動が起きることも想定してたよ。あの女の子の件についてまでは予想できなかったが。それに小野里が病院に運ばれたことも。すまなかった」

 ソファに座る春奈と京香より少し離れた場所に置かれたパイプ椅子に座り、長谷川は話を続ける。
「バレる少し前、札野が死んじまってメンタルやられてたから、いろんなことに気持ちが追いついてなかったが、いま振り返れば、おれにとって一連のゴタゴタは正直に言うが、楽しませてもらった。メディア対応の矢面に立ってたのも、もちろんお前たちを守るためだったり、室長としての立場もあるが、おれ自身が矢で射られてるのが面白かったんだ。紅子がおれたちの仕掛けを世界の珍ニュースとか言ってたよな。おれには勲章ものだよ」
 長谷川は春奈、京香、それに持田の顔をそれぞれに見やり、何かに納得した表情を見せた。
「これから先、おれみたいなやつとまた出会うときが来るだろう。そいつを簡単に信用するな。で、信用できなかったら逃げろ。どこまでも逃げ続けろ。以上だ」
「学園ドラマだったら、サイテーの最終回ですね」
 いつの間にか長谷川の近くに立つ持田が帽子越しに頭をかきながら言う。
「私はコールセンターの仕事、特にあいさつもなく辞めたので、代わりのいいお見送りのスピーチでした」と京香が言う。
『長谷川さんらしいです』と春奈の言葉。
「お二人はこれからどうするんですか?」

 持田に言われた二人はソファから立ち上がる。
「私は職探し、のつもりなんですけど、名前もバレちゃったし、ほとぼりが冷めるまでは次郎君の手伝いでもしようかなと思ってます。彼はギャラも事前にちゃんと金額を提示してくれることで業界でも評判らしいし」
 春奈はメモ帳ではなく、A4ノートに書き連ねている。茜と出会ってから、長文用にと持ち歩くようになったのだ。
「じゃあ、コンビのよしみで私が代読するね。『私は詩織ちゃんに会いに行こうと思っています。まだ、どう伝えればいいのかわからないけど、それをしないと前に進めない気がするんです。お酒の量も減らさないといけないし、声のこともリハビリをやり直して、時間がかかっても、いつか話せるようになりたい。そして、みんなとカラオケに行きたいです』」

 携帯電話の呼出音。持田宛だ。「はい。そろそろですね、わかりました。いまから向かいます。ええ、本日はよろしくお願いいたします」
「もうそんな時間か」
「記者の方々も集まり始めてます」
「よし、行くか! Letterの最後の仕事にして、最初で最後の記者会見へ!」

・・・
 
 集まった男女二十数人の手には、カメラ、ムービーカメラ、ペン、手帳、それぞれの職種に応じた武器が握られている。

「ペルーの日本大使館籠城、そろそろ動きがあるって噂だぞ」
「いよいよ、突入か?」
「本来、おれは芸能番じゃないんだよ。なんでこんなとこにいるんだ」
「うちはバラエティ班だけど、六月から香港行ってくるよ。返還前後の現地がどうなってるのか、エンタメ文化の視点で取材してこいとさ」
「あ、ずりい。おれなんか来週はアメリカのアリゾナなんていうド田舎に行かされて、UFO目撃事件の取材だよ。どうせ、フリスビーも知らない間の抜けたやつがそれを見ただけじゃないのか。そいつには未確認飛行物体に違いないだろうし。早く政治担当に戻りてえ」

 記者たちにとっての他愛のない日常業務を前にした雑談が交わされる。会見が終わったあとの彼らには別の仕事が待っており、この現場は本日タスクのうちの一つにすぎないのだ。

・・・
 
「篠塚さんの準備はどうです?」
 持田から背中越しに声をかけられた京香は、眼鏡拭きできれいに磨いていたサングラスを装着し、皆のほうへ振り向く。それから指でオーケーマークを作った。
「しかしなあ、緑か」
「謝罪会見だからって黒づくめじゃなくてもいいでしょう。さすがにこういう場で明るい緑のスーツだとバットマンの敵みたいで顰蹙もんですから、ダークグリーンにしましたけど」
「すいません、私のわがままでこの色にして」長谷川と持田に頭を下げる京香。
『私は気に入りました』と春奈は書く。

 貸衣装のスーツに白のブラウス姿の二人は身だしなみの最終チェックを持田から受ける。と、控室に次郎が入ってきた。
「スタッフさんからの伝言。会場の準備はバッチリだそうです」
「わかった。すぐに行くよ。まさか辞めたスタッフたちが、この日のために手伝いに来てくれるなんてな。おれはちょっと泣けてきたわ」
「OBの助太刀。ドラマの最終回みたいですね」
 持田が皮肉を感じさせない真っすぐな口調で言う。

 次郎は京香に近寄った。何か多くを言いたげだったが、結局は「頑張れよ」の一言のみで去っていこうとする。
「次郎」京香は彼を呼び止めた。
「どうした?」
「君が私を撮影するのは初めてだね」
「ああ、確かにそうかもな」
「よろしくお願いします」丁寧にお辞儀をする京香。
「任せてくれ。いい顔に収めてみせる」

・・・
 
「……というわけでして、このたびはわたくしどものせいで世間の皆様に大変ご迷惑をおかけし、また一部の方々を深く傷つけてしまったことを、この場を借りてあらためてお詫び申し上げたいと思います。経緯については私から説明させていただきましたとおりでございます。小野里と篠塚の考えも、先ほど本人たちから延べさせていただきました」

 すべてを話した。京香はその口で。春奈はその言葉を京香が代読して。これまでのこと、いま思うことすべてを。しかし、玲子のことには何も触れなかった。彼女がいたからこそ、いま二人はここにいる。だが、それはこの場で話すことではない。玲子の母にだけはいつか伝えようと、京香は心に刻む。

「続きまして、記者の方々の中でご質問がございましたら、挙手をお願いいたします。ご質問の際は、媒体名とお名前をお願いできますでしょうか。質問数の上限は特に設けておりませんが、時間も限られておりますので、他の方へのご配慮をお願いできれば幸いです」

 品性を欠いた質問が相次いで飛ぶ。主にカネと痴情にまつわるものだった。春奈に男の影がなかったため、京香との同性愛を疑う質問もあった。また、長谷川の弟が服役中であることも批判として挙げられた。それらに対して、三人は毅然とした態度で答えていった。

「『シンプルニュース』の倉敷です。小野里さんに質問いたします」会見が始まる前、UFO取材の愚痴をこぼしていた男が手を挙げる。「私には結局、あなたが何をやりたかったのか、いまも見えてきません。あなたが子供の頃から大変なご苦労やひどい目に遭って生きてこられたことは知っています。しかし、それでこの騒動の中心人物の一人として許されるわけではないと思うのですが。もちろん、法には触れないですし、倫理に反するほどのことでもないでしょう。ただ、これだけは知りたい。あなたは何が欲しかったんでしょうか。お金? 名声? 歌手になる体験? それとも、同じように声を出せない人たちへ夢や希望を与えたかった? 簡潔にお答えください」

 春奈は倉敷の顔をじっと見る。彼は冷徹な目で見返す。質問には嘲笑や蔑みはなく、彼が配属されている番組のモットーである『簡潔でわかりやすい真実を届けたい』に沿ったプロとしての問いだった。記者会見とは、登壇者と質問者が互いにプロとして全力でぶつかり合うリングなのだ。倉敷はそれを知っている。
 上着の腰ポケットに右手を入れる。指が触れたのは紙の束。あの日、茜からポスト越しに渡された往復書簡のメモ用紙だった。春奈は茜の感触を指にすり込ませてから、そっと手を引き抜く。そして、テーブルに置かれたマジックを手に取った。

「私も同じ答えです」
 京香がマイクに口を近づけて言った。まだ他の者には見せていない春奈の答え。手元に伏せられているその言葉を、横にいる京香は先に見て、同調の意志を表した。
 春奈はバラエティ番組でよく見るようなフリップを両手で掲げる。記者たちの後方からムービーカメラを構える次郎がそれを見て「情熱」とつぶやいた。
 フリップには、二文字で表された春奈の答えが力強い筆圧で書かれている。まるでクイズ番組の回答だった。フラッシュが一斉に焚かれる。激しい光の点滅。光の連弾が春奈と京香に撃ち込まれていく。
「『情熱』ですね。わかりやすく答えていただき、ありがとうございます。以上です」倉敷は着席する。微かに満足げな表情を浮かべていた。
 意外に重量のあるフリップをずっと掲げているせいで、春奈の腕はプルプルと震えていた。まだ光弾の雨はやまないものの、京香に手を触れられて、ようやく腕を下げた。

「『愉快爽快ジャーナル』の藤島です。篠塚さんにご質問というか、お願いがあります。そのサングラス、ちょっと取ってみてもらえませんか? 別に肉体的な障害をお持ちなわけじゃないんですよね? 高校の卒業アルバムはもう世間に知られてますし、もういいじゃないですか。いま、あなたがどんな顔をしているのか、皆の知りたいことだと思いますよ。取っちゃいましょう。責任を果たす意味でも」

 登壇者用テーブルの脇に立つ長谷川がマイクを口元に持っていくが、彼の近くにいる春奈が手振りで制した。皆の言葉が止まる。聞こえるのは機材の調整音や咳払いのみ。京香は内ポケットに手を差し込む。緑色のねずみに触れた。玲子からの年賀状に描かれたイラスト。クレヨン画の手触り。玲子の感触を指に馴染ませてから手を引き抜く。
 それから、中央付近に立つ藤島を越えた先、ムービーカメラの一群の中にいる次郎に視線を向けた。彼はファインダーから目を離し、京香と対面する。互いにうなずき合う。そして、京香は右手でサングラスのつるの部分を軽くつまみ、うつむき加減で下にずらす。まつ毛が見えてきた。が、動きが止まる。時間を逆回転させるように、ずれたサングラスをかけ直し、正面を向いた。

「やっぱり無理です。すいません。いまの私がどんな顔か……そうですね、好きに面白おかしく想像してみてください。それが私の顔です。すみません、こんな答えで」
 京香は達観とも開き直りとも受け取れる落ち着き払った表情をしていた。「なんだそりゃ」と藤島が舌打ちを交えて小さく吐き捨てる。次郎は最高の顔が撮れた満足感で心を躍らせた。
「では、お時間となってしまいましたので、質疑応答は終了とさせていただきます。最後に――」
 長谷川は持田に合図をする。壁側に立って三人を見守っていた彼女はスピーカー機材のそばへ行って操作した。音楽が立ち上がる。客席数四十五席、五十平方メートルほどの面積、天井高は約四メートル。これが春奈と京香の、京香と春奈のライブ会場だった。
「Letterの謝罪会見、さらにはラストライブを兼ねた本日の催し、いよいよ最後の演目となります。歌っていただきましょう! Letterのラストソング『生き残りの影』です!」

 立ち上がった二人はテーブルの前に回り込む。二人ともマイクを握っている。歌はLetterの活動期間中、京香が少しずつ密かに作曲していたものだった。機材も買い直して。それぞれ退職、退院してからの一か月をかけて、京香は曲を完成させ、春奈が歌詞を書いた。記者会見もラストライブも二人の発案によるもの。最後の出し物のことを他に知っていたのは長谷川、持田、次郎だけだった。
 
 京香は歌い、春奈が歌う。二人が歌っている。
 春奈は歌い、京香が歌う。Letterが歌っている。

「ふざけてんのか」
「コントかよ」
「こんなのどう記事にすりゃいいんだ」
「反省してねえな、こいつら」

 悪態をつく記者もいれば、倉敷のように呆れるばかりの者もいた。サプライズを知らされていないスタッフも皆、驚愕している。ことを理解し、ライブを堪能しているのは長谷川と次郎だけだ。長谷川の隣にいたはずの持田はそこにいなかった。

 春奈は歌い、京香が歌う。二人が歌っている。
 京香は歌い、春奈が歌う。Letterが歌っている。
 二人が情熱に突き動かされている。

・・・
 
 胃がおかしい。この感覚は何だ? 腹の中でずっと眠っていた何者かが目を覚まして暴れ出したかのような。次いで、自然と口の両端が上に引っ張られる。自らの意志とは思えない。何が私を操っている?

 会場の出入り口に面した廊下に立つ持田は、ラストライブの模様を誰よりも後方から見ていた。二人の燃える歌唱は彼女たちの魂を焦がし、心が発する熱は膨張をやめない。一世一代のめらめらした歌謡ショー。それが記者たちによって底抜け茶番劇の烙印を押され、場内は失笑と揶揄に包まれた。しかし、二人は意に介さず歌い続ける。真摯に。滑稽に。無様に。堂々と。

 持田は気づけば笑っていた。腹の底から大笑いした。こんなに爆笑したのは、いや爆笑という経験自体が生まれて初めてだった。笑いすぎて涙まで出てきた。笑いで泣くことも、いままで体験したことはなかった。

「そう、こういうの。こういうのだったんだよ……私はこういう美しいものが見たかった」

 手に提げていたリュックを背負い、ワークキャップのつばを引き下げた持田楓――アン・ウンジュは冷たい廊下を一人歩き去っていく。その先には真っ白な光の出口が待っていた。
 
 美しいものを見ることができたよね。さあ、血の涙を拭いて。


〈完〉

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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