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protocol-3.「映画の話をする」ということ

高校時代からの友人たちと集まって飲んで、その時話す話がつまんなく思えてきたのは40代に入ったくらいの頃。

話がつまんなくっても、その友人たちの大切さが変わることはないんですけどね。もう四半世紀以上もツルんでるやつらですから、お互いどう童貞卒業して、どういう女性にフラレて、どういう仕事を経てどういう家庭を築いたか。それぞれ互いに知った仲ですから、1年ぶりとかに会ったとて、さほど特別に話す話題もありません。特別に話す話題もないということがつまり、「皆、無事暮らせている」ということ。だからいいんです。でも、話はつまんないとある土曜日。

最近こんな理由で病院行ったとか、固有名詞が出てこなくなったとか、世の中の流行についていけなくなったとか、「老化あるある」をひとしきりした後は、もう何度もコスった思い出話。

話すことで、自分の何かを誇示することも、相手の何かを諭すこともなく、同じテーブルで酒だけ飲んでれば、あとは会話なんてループする環境音楽みたいなもんです。それはそれで、それなりにいいんですけども。

あの頃アツく語り合った恋愛論や仕事論、結婚論や子育て論の理想と比べて、今の自分らの体たらくがどうかは別として、
それでもそれなりに年を重ねて今を暮らせているんだから、お互いに生き様や人格についてなんて、人それぞれ。「何をか言わんや。」ってお年頃ということです。

翌日の日曜日は家族に対して「何をか言わんや。」

その翌日からの平日は、仕事の関係者に対して「何をか言わんや。」

考えてみれば、
大人になるとだいたいのことが「人それぞれ。」で「何をか言わんや。」になるんだなということに少し寂しく、気がつくのです。

「映画の話なら“何をか言わんや”じゃなくていいんだけどな。」その週の木曜日あたりに、そんなことを考えました。

恋愛観や、仕事観や、結婚観について、友人や仕事の関係者や家族の当人たちと話すのは生々しいし、角が立つこともある。あーだこーだ言うことが何ハラになってしまうかもわからない、難しい世の中です。

でも映画に対してなら?

映画の中の人たちや出来事に対してなら?

あーだこーだ言い合ったって誰も傷つけなさそうな気がしました。

映画にちやほやしたり、デレデレしたり、物申したり、上から目線をしたり、欲情したり、かぶれたり、アツくるしい持論を熱弁したり…。そういうことしても、さほど誰にも怒られることはないんじゃないか?って話です。

そして、同じ話を繰り返す必要もヒマもない程、新しい人物像や出来事を描いた映画が毎週のように公開されています。

「映画の話なら、同じ思い出話を繰り返さなくても、無限に新しい話ができるのにな。」そんなことを考えて、僕は映画を趣味に決め、「映画見」となり、映画の友だち達と出会い、映画の話をたくさんしました。

映画の話をすることは、純粋に楽しくて、居場所みたいなものができていくような気もしましたし、ある種のケーススタディや思考実験のように、他者を知り、自分を深く知ることができる知的冒険のようでもありました。

いずれも意図して求めて得た縁でしたので、こだわりや思い入れが強くなり、友だち達との距離感を間違えてしまうこともまた幾度かありました。

映画の話をすることが、案外難しくて、なかなかに自分がそれを下手であるということを知的冒険によって知って落ち込んでいた頃、ある近しい人にこう言われました。

「“良い悪い”ではなくて、そもそも映画の話をあーだこーだしたい人ということ自体、“めんどくさい人”だという自覚はしておいたほうがいいわね。」

話の文脈からそれは「映画語り」を否定するものではなかったけれど、少しムッとしつつ、大いにギクッともしつつ、結果として気が楽になった言葉でした。確かに映画は観るためにあるもので、語るために作られているのではないですもんね。

本編が終わり、エンドロールが流れ、客電が灯って、劇場を出るまでの間、「面白かったね。」「うん、サイコーだったね。」くらいの熱量での映画との向き合い方。それが圧倒的大多数の“フツー”であることを、映画見たちは忘れがちです。

遊園地でジェットコースターに乗った後、「コワかったー!」「いやぁ、でもスカッとした!」と言う相手に、「だよねー、この『スチールドラゴン』はさ、開業当初は最高部高度、最大落差、最高速度、全長の4項目でギネスに認定されたことで話題になってさ、今でも全長は世界一なんだけど、なんつっても最初のドロップは93.5mを一気に落下するからね、そのいちばん下のところでは時速153kmだもん、ハンパないよね・・・」とか解説し出したら、引かれると思います。

ラーメン食べて「辛かったけど、美味しかったね!」と言う相手に、「だよねー、いっとき創業者が体調悪くして閉店になったんだけどね、でもこの味が好き過ぎて20年通い続けた常連客の人が創業者に弟子入りさせてもらって、修行してその味を再現して、営業再開したっていう味だからねー、『ラーメン大好き小泉さん』て漫画に載ったり、アニメにも取り上げられたりしてね・・・」なんてウンチク言うのも、やっぱり引かれることでしょう。

「まずは出された料理を美味そうに食う」って大事。

それでも僕は「面白かったね。」「うん、サイコーだったね。」と劇場を出た、その後にも、その映画の作り手たちが伝えたいメッセージとか、それを示すメタファのこととか、役者の演技や、映像の演出や、時代背景なんかを踏まえて、自分が感じたことや考えさせられたこと、映画の中の人物たちの言動や価値観について他の映画見はどう見たのかなどなど、やっぱり語ったり話し合ったりしたいのです。

「映画の話をする」ということ。それはどうやら確かにめんどくさい人のすること。さほど映画を観ない人に対してはもちろんのこと、映画見同士であっても、心地良く映画の話をすることは、読んだ字のごとく「有り難い」ことなのだと思います。そもそも「有り難い」ことなんだったとしたら、これまで幾つもしてきた僕の失敗も、ある程度は仕方のないことなのかなと、結果として少し気が楽になったりもしますが、それらの失敗や気づきから得たことを記録して見返したりすれば、人にめんどくさい思いをさせることなく映画の話ができる映画見になることができるかもしれない。本連載『映画見のプロトコル』は、そのへんを目指して文章を綴っていきたいと思っています。







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