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歌舞伎zakzak-8 椎の実と鮨桶と生首 『義経千本桜』(三段目「木の実」「小金吾討死」「すし屋」)

introduction

『義経千本桜』は歌舞伎の三大名作(他は「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」)のひとつで、平家物語の世界を背景に源義経を主人公に描かれるが、義経が大活躍する話かと思ったら大間違い。それぞれの場の中心人物は、平家の落人である平知盛であったり(二段目)、すし屋の不良息子権太であったり(三段目)、なんと狐の化身佐藤忠信であったりする。義経は全体の核として存在はするが登場場面は少ない。三段目には登場さえしないが、この話は全体を通して義経の目で見た、落ち行く平家の人々の悲哀でもあり、同時に兄頼朝に追われる自らをそれに重ねた、すべての滅びゆく者達への哀悼のグランドロマンでもある。

アクションあり泣かせあり、バラエティに富んだ一幕

2023年6月3日〜25日 歌舞伎座
歌舞伎座新開場十周年 六月大歌舞伎
夜の部
「義経千本桜 --- 木の実/小金吾討死/すし屋」
いがみの権太:片岡仁左衛門
若葉の内侍:片岡孝太郎
主馬小金吾武里:片岡千之助
弥助実は三位中将維盛:中村錦之助
弥左衛門の娘お里:中村壱太郎
梶原平三景時:坂東彌十郎
鮨屋 弥左衛門:中村歌六


STORY

平維盛(たいらのこれもり)の妻若葉の内侍(わかばのないし)は、嫡男の六代君(ろくだいのきみ)を連れ、家来の主馬小金吾(しゅめのこきんご)に守られて、逃走中の夫がいると思われる高野山に向かう道中。差し掛かった吉野の下市村の茶店で一休みしていたところ、通りかかったいがみの権太(ごんた)の親切で、大木の枝になる椎の実を落としてもらい六代君の慰みとします。しかし立ち去る権太はわざと荷物を取り違えて、巧妙な手口で言いがかりをつけて彼らから二十両の金を巻き上げます。「木の実」
その後、大勢の追手に見つかった三人。小金吾の身を挺しての働きで、若葉の内侍と六代君は落ち延びるが、小金吾は奮闘の末に息絶える。「小金吾討死」
さて、一方権太の実家、鮨屋を営む父弥左衛門は、平維盛を守るため奉公人弥助と偽称させて匿い、娘のお里と祝言を上げさせようとしている。
父の留守時を狙って金をせびりに来た権太は母に、嘘の口実と泣き落としで三貫目の金を手にする。欲望の亡者と見える権太と、命がけで義理を通そうとする父弥左衛門。平維盛を挟んで二人の思惑が交差して起きる悲劇。「すし屋」

平維盛一家と権太一家が相似形なのがミソ

「いがみの権太」の「いがみ」とは?

辞書によれば『いがみ』とは、1「ゆがみ」に同じ、2 悪者、悪漢。どうやら権太の場合「ゆがんだ・心のねじれた」というほどの意味合いのようです。また、この芝居から派生して、一部の地域では「ごんた」というと親の言うことをきかない暴れん坊のことをいうようになったそうです。他にも歌舞伎から一般用語として使われるようになった言葉は沢山あって、当時の民衆の身近に歌舞伎があって親しまれていたことが想像できます。

権太の「三段活用」にびっくり!

幼い六代君のために、投げ石を巧みに枝にあてて、ぱらぱらと木の実を落としてやる権太。ここまでは旅路で出会った親切なおじさん。
ところが、権太立ち去る時に一行の荷物と取り違えて行ってしまう。そそっかしい人だったのかと思うのは一時まで、戻ってきて謝る権太とお互いの荷をあらためると、「俺の荷中にあった二十両の金が無い!くすねたな!」と言いがかり。がらりとその態度が変わった小悪党ゆすりの権太、
お忍びの旅の一行は仕方なく金を渡し立ち去る。(なんてテクニック!初犯じゃないな)それを見ていた女房は説教するが、権太は聴く耳持たない。外をほっつき歩いているらしい彼を家に一緒に連れて帰ろうと、幼い息子をたき付けて一緒に帰ろうと促す。二人の出会いが、かつては客商売の女であった時の馴染み客であったことなども語られ一気にアットホームな雰囲気に。そしてここで見せる権太の夫の顔、父の顔。
この一幕の中で、次々と豹変する権太のキャラクターに注目。

見たくない、けど見たい「小金吾討死」

被虐美というのが、歌舞伎ではいろんな演目で出てきます。有名なのは「時鳥殺し(ほととぎすごろし)」の時鳥、「金閣寺」の雪姫、「女殺油地獄」のお吉などなど。そんな場面リアルにやったら、普通の感覚の人は痛ましくて見てられませんが、そこは歌舞伎の不思議なところ。歌舞伎独特の様式美で描かれて、決めのポーズはあたかも錦絵のよう、そして被害者はたいていは美女か美少年。何か胸がざわつくゾクゾクするような感覚です。(と言ったところで「夏祭浪花鑑」の舅殺しを思いだした!例外もありです)「小金吾討死」もそんな名場面です。忠義一筋の美少年が大勢の捕り手に囲まれて戦います。痛手を負っていながらもクモの巣のように張られた縄の上で決めポーズも美しく格好いい!しかし派手な大立廻りの末についに討死します。
しかも終幕その死骸の首を取られるというおまけ付。ああ無情。

なぜ、そこまでして鮨屋弥左衛門?

「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」も通底するテーマのひとつは、高貴な人のために誰かが大きな犠牲を払うということだ。これは現代人には一番理解しがたいことかも。自分のため、家族親族、友人のためでもなく、尊敬する人のため、忠義のために犠牲になる。「なんでそこまで?」と普通思うが、歌舞伎の文脈に浸かっていると、それが自然と胸に入ってくるようになる不思議。
さて、一介の鮨屋である弥左衛門がなぜ平維盛を店に匿い命がけで守ろうとするのか。場合によっては家族まで巻き込んでしまう危険も犯しながら。平維盛の父平重盛に世話になったから、だというが話の中で何の説明もないようで疑問は尽きない。他の観客はどうなのだろう?(鮨屋を開店する時の出資金を出してもらったのか?)
なんだかんだ調べていたら、どうやら弥左衛門は重盛の元家来であって、その時何かの罪を許されて、その恩義がいまも胸に深くあるものらしいです。

寿司桶に生首のドッキリ

「弥左衛門さん、商売道具の神聖なる寿司桶に生首を!いいんですか?」と突っ込み入れたくなるが、舞台に並べられた美しい白木の寿司桶と、おどろしいはずの生首の取り合わせの妙。
しかし歌舞伎の舞台に出て来る生首は独特の存在で、大抵は一点の汚れも無い白木の桶に宝物のように納められて生々しい感覚がいっさい無く、むしろ高貴な微光を放っているように感じられる。
一方、権太は父の急な帰宅にとっさに寿司桶のひとつに金を隠した。その後桶の並びが変えられることによって見る者を惑わせる、はてどの桶が首、金?という展開の面白さ。

お父さんもっと落ちついてよ

歌舞伎の登場人物は思慮深いかと思いきや、いきなり過激な行動にでたりします。終幕の弥左衛門が突然権太を刺すのもそれで、大切な恩義ある人を息子が売った、と思い込んでの衝動的な行動でしたが、権太はむしろ父の意向を汲んで自分の妻子を犠牲にしての計らいでした。おたがいの行動のベクトルは実は同じ方向むいていたのに、コミュニケーション不足から起きた悲劇。
そしてさらに平家撲滅の主導者である源頼朝も自ら「平維盛は出家させて逃がすように」というメッセージ(分かりにくい方法で)を残していた。頼朝もかつて重盛に命を救われた恩を返そうとしていたのだ。(もっと分かりやすく意志表示して欲しかった〜)これが落ちならあまりにも権太が可哀想だ〜

歌舞伎座
https://www.kabuki-za.co.jp

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