フェデリコ・フェリーニ監督作『道』 特別解説:YouTube初無料公開記念
『道』 山下泰司
『道』(原題:La Strada)は、今からちょうど70年前、1954年の9月にヴェネツィア映画祭でお披露目された、イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニ(1920 – 1993)が監督した映画です。そのヴェネツィア映画祭では銀獅子賞を、1957年の3月には米国アカデミー賞の最優秀外国語映画賞に輝いた、彼の出世作です。
1954年というのは今でも「名作」と呼ばれる映画が世界中で数多く公開された年です。日本では黒澤明の『七人の侍』が4月、木下恵介の『二十四の瞳』が9月、本多猪四郎の『ゴジラ』と溝口健二の『近松物語』が11月、アメリカではエリア・カザンの『波止場』が7月、アルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』が8月(なんと10月には『ダイヤルMを廻せ!』も)、フェリーニと同じイタリアでは、彼の師匠とも言えるロベルト・ロッセリーニ(あのイングリッド・バーグマンの夫です。二人の子どもが俳優のイザベラ・ロッセリーニ)の『イタリア旅行』が9月、こちらも映画界では先輩格のルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』が12月と百花繚乱。まさに映画の黄金時代ですね。
フェリーニは、イタリアの北東部、エミリア・ロマーニャ地方のリミニという、夏は海水浴客で賑わう海辺の街に生まれ育った人です。ヴェネツィアの南、フィレンツェの東、ローマからはだいぶ北。その頃のリミニの雰囲気は『道』の前作である『青春群像』(1953)や後年になって撮る『フェリーニのアマルコルド』(1973)という作品を観るとよく分かります。もっとも、どちらの作品もリミニで撮影はしていないのですが。やがて首都ローマに出て、新聞に漫画やコラムを描き始め、ラジオドラマの脚本を書いたりするようになり、映画の世界に入っていった人です。ロッセリーニの『無防備都市』(1945)、『戦火のかなた』(1946)の脚本に協力し、アルベルト・ラットゥアーダとの共同で『寄席の脚光』(1950)で監督デビュー。『白い酋長』(1951)で一本立ちするも、これは商業的にも批評的にも大した成功は得られず。しかし2本目となる前述の『青春群像』はヴェネツィア映画祭で溝口健二の『雨月物語』(1953)などと一緒に銀獅子賞を受賞(この年は金獅子賞の該当作なし)、イタリアの外でも幾つもの国でヒットとなったのでした。
そして単独で監督した3本目がこの『道』ということになります。
幌付きのオート三輪に乗る、粗野な旅芸人ザンパノがある日、漁村で母親や妹、弟と暮らすジェルソミーナのところにやってきます。ザンパノはジェルソミーナの姉ローザ(姉の名は「薔薇」で、妹は「ジャスミン」の意味です)と一緒に巡業していたのですが、その姉が死んでしまったので、代わりにジェルソミーナをたった1万リラ(あまり確たる数字ではありませんが、いろんな情報から勘案するに、ざっくり現在の20万円くらいと思われます)で彼女の母親から買い取ります。人身売買。貧乏人の子沢山、夫も行方知れずの母親は少しでも食い扶持を減らしたい。あっけなくジェルソミーナは連れ去られて行きます。
初日の晩からいきなり手篭めにされて、巡業に付き合わされるジェルソミーナ。ザンパノのメインの芸は、胴体に巻きつけたチェーンを胸の筋力で断ち切るというまことに地味なものですが、その前にジェルソミーナとちょっとしたコントをやったりする。それでイタリアのあちこちを旅して回り、稼いだ金でなんとか晩御飯にありつくような、まったくもってのその日暮らし。おまけにザンパノの女癖ときたらひどいもので、バーでちょっといいのを見つけたらオート三輪で連れ出す、巡業先で後家さんを見つけてはしけ込むといった具合。ある時点でジェルソミーナは愛想を尽かし、彼の元を飛び出すのですが、とあるお祭りの日、街中で危険な綱渡り芸を見せるイル・マット(イタリア語のIl Matto 、英語で言えばThe Fool、要するに「バカ」の意味で、昔の日本語字幕では「キ印」と呼ばれていました)に魅せられたことから、この辛い旅の人生が徐々に、そしてある瞬間に劇的に変化していきます。
これ以上、あらすじを言うのは野暮というもの、あとはご自分の目でしかとお確かめください。YouTubeでは5月10日(金)の夜9時から、2週間限定で無料公開です。無料なので当然CMが入るわけですが、それが嫌な方は5月10日の夜9時ドンピシャから観てください。このプレミアム公開の時だけは、CMは最初にしか入りません。ラストまで一気にご覧になれます。
70年前の古い映画なので時代感がよく分からないかもしれませんが、これは1954年公開当時の「現代劇」です。一部の室内シーン以外はロケーション撮影なので(当時はまだ撮影機材も大きく重かったので、これだけあちこちを回るのは大変だったと思いますが)、当時のイタリアの田舎のありようがよく分かると思います。元祖ロードムービーと言ってもいい。現代劇ということで言えば、最初に挙げた日本の『ゴジラ』だって当時の現代劇で、まだ第二次世界大戦が終わって10年経っていない時代の空気がよく伝わってきます。日本はイタリアと同じ敗戦国ですが、では勝ったアメリカの『波止場』や『裏窓』はどうか。同じ時代の映画を比べてみるのも面白いものです。もっとも『裏窓』は100%、セットでの撮影だし、出てくるのがカメラマンやモデルといったセレブたちなので、当時のアメリカ庶民の様子を伝えてるわけではないかも。
ジェルソミーナを演じたのは早くにフェリーニと結婚し、彼が亡くなるまで添い遂げ、そしてその半年後には自分も後を追うことになったジュリエッタ・マシーナ(1921 – 1994)です。フェリーニはこの映画をそもそもジュリエッタを主演に据えることを前提に脚本を書いた、いわゆる「アテ書き」というヤツで、プロデューサーたちがもっと魅力的な別の女優を、とリクエストしてもがんとして聞き入れなかったといいます。でも、それで正解でしたよね。あの喜劇王チャップリンがこの『道』を観て、「私を泣かせた唯一の俳優はジュリエッタ・マシーナだ」と言ったそうです。確かにサイレント映画時代の、パントマイム芸のようなおかしみと哀しみが彼女の表情や佇まいにはあります。帽子をかぶっているところは、これも大昔の喜劇映画のレジェンド、マルクス兄弟の一人、ハーポ・マルクスのようにも見えます(彼は常にセリフを喋らないという設定ですし)。
ザンパノを演じるアンソニー・クイン(1915 - 2001)、イル・マットを演じるリチャード・ベイスハート(1914 - 1984)は共にアメリカからイタリア映画界に出張してきていたところで、たまたま彼らと同じ映画にマシーナも出演していたところから、フェリーニに紹介され、出演が決まったものです。なので彼らのセリフは別のイタリア人によるアフレコです。今はもう違うでしょうが、イタリアでは長い間、撮影現場での同時録音でなく、セリフはあとからアフレコで録る、というのが通例でした。イタリア映画界は出演俳優を地続きのフランスやヨーロッパの他の国から招くことも頻繁でしたから、撮影現場では実は、全員がちゃんとしたイタリア語で演技をしているわけではないのです。最近、ネット配信が盛んになり、そうした配信の業者さんにイタリア映画のマスターのデータを渡すと、「この素材、リップシンクが合ってない(口の動きとセリフが合ってない)んですけど」とクレームが来ることがたまにあるんですが、そもそも合ってるわけがないんですよ。フェリーニなんかは外国の俳優には、セリフの代わりに数を数えさせていた、なんて話もあります。
おっと話が外れました。クイン(メキシコ生まれです)はこの前に『革命児サパタ』(1952)でアカデミー賞の助演男優賞を受けているのですが、本格的に注目を浴びるようになったのはこの『道』からで、この後は『ナバロン要塞』(1961)、『アラビアのロレンス』(1962)、『その男ゾルバ』(1964)と大作、名作への出演が増えていきます。対するベイスハートは、この後、続けてフェリーニの作品『崖』(1955)に出演、残念ながら詐欺師たちを描いたこの映画は完全に鳴かず飛ばずだったのですが(決して悪い映画じゃありません)、その後、ジョン・ヒューストン監督、グレゴリー・ペック主演の『白鯨』(1956)、『ドクター・モローの島』(1977)に出たりしてますね。テレビでも『原子力潜水艦シービュー号』(1964-68)のネルソン提督をやったり、『刑事コロンボ』の一エピソードに出たりもしてます。まあしかし、彼を後世に末長く伝えるのは、この『道』の中でジェルソミーナに言う、「こんな小石でも何か役に立ってる〜これが無益ならすべて無益だ」というセリフでしょうね。そのセリフがどんなシチュエーションで語られるか、楽しみにしててください。この映画のいくつかある山場、しかし、とてもひっそりしたいいシーンです。
俳優たちと同じくらい、この映画にとって大切なのはイタリア映画界のこちらも巨匠中の巨匠、ニーノ・ロータ(1911 – 79)による音楽です。フェリーニとは前述の単独監督デビュー作『白い酋長』から、ロータが亡くなる1979年の『オーケストラ・リハーサル』まで16本(うち2本はオムニバスの中の短〜中編)、全てロータが担当している、まさに一心同体の存在。今、かわいいアニメの「クラフトボス」のCMをやっていますが、あの音楽もロータがフェリーニの『アマルコルド』のために書いたものです。他にもフェリーニのライバルとも言えるルキノ・ヴィスコンティの諸作もやってますし、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』(1960)も、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972)もこの人。でも、とにかく一番やってるのはフェリーニ作品で、ロータ自身が言うには、フェリーニを相手にピアノを弾いていると「恥ずかしくなるほど簡単に」曲が出来てしまうのだそうで、まさに天才。フェリーニ作品の曲はどれも素晴らしいものですが(後年になると、過去作の焼き直しも増えてきますが、これは仕方のないことです)、中でもこの『道』の、ジェルソミーナがトランペットで吹くあのテーマは彼らのコラボを代表する一曲と言えるでしょう。このシングル・レコードはイタリアで200万枚売れたそう。日本でも映画が公開された1957年に、歌詞をつけて美輪明宏(当時は丸山明宏)が歌ったレコードが出ました(今では配信で聞けます)。そして『道』にはこのメインテーマ以外にも、思わず口をついて出るような素晴らしい、キャッチーなメロディがいくつもあるのです。最近、映画を見終わった後に、つい歌ってしまってる映画音楽って少なくなりましたよね。亡くなった映画評論家、淀川長治さんなんかは、ロータが亡くなって他の人が音楽をやるようになってから、フェリーニの映画はダメになった、なんてことを仰ってました。
さてさて、ずいぶん長くなりましたので、そろそろ終わりにしましょう。冒頭でこの『道』を巨匠フェリーニの出世作と書きました。フェリーニがどれくらいの巨匠かというと、1993年に亡くなった時(命日の10月31日、奇しくもアメリカではリバー・フェニックスも23歳の若さで亡くなりました)、ローマで国葬が行われたと言えば、その偉大さが分かろうというもの。イタリアだけでなく、世界中にファンがいて、もちろんありとあらゆる映画人たちからも大リスペクトされている。映画好きが集まった時に嘘でも「フェリーニが好き」と言っておけば、「ムム、こやつ……」という目で見てもらえる可能性は大です。
フェリーニが好きな人の中には、この『道』を最高傑作に挙げる人も少なくありませんが、そういう人は彼の後年の作品はあまり好きでなかったりする。逆に、フェリーニがユング心理学に傾倒して、登場人物の鬱屈した精神を表面化し、ビジュアル的には壮大なスケールのセットを組んだり、やけにかっこいい構図や陰影を強調したりしつつ、お話はなんだかよく分からない感じになっていったアーティスティックな後年の作品、たとえば『甘い生活』(1960)とか、『8 1/2(はっかにぶんのいち)』(1963)が好きな人は、『道』は甘ったるくて、ちょっと説教くさくて観てられないねえ、という感じかもしれません。確かに『道』は誰が観ても分かる話ですし、また教訓めいた話でもありますしね。「女性が虐げ続けられるこんな映画がどうして『名作』と言われているのか?」と疑問を持つ方もおられますが、映画のお話というのはある種の「神話」みたいなものです。別に粗野で愚かなザンパノを肯定しているわけでもない、許しているわけでもない。でも、世の中って、人生って、こういうものであることもあるよね、というその抽出の仕方が見事な映画です。
とは言え、この初期作にも、後のフェリーニ作品に通じるような描写もちょこちょこ入ってて、それがこの、ある意味、ベタな話を奥行きのあるものにしている。例えば、ザンパノに置き去りにされて路上でうたた寝しているジェルソミーナの前に馬が現れる瞬間とか、ジェルソミーナが農家の2階で出会う、何かの病気で寝ている白い顔の少年だとか。超自然的なもの、世の中心から疎外されたものに深く感応し、寄り添うフェリーニの鋭敏なセンスが、もうすでにこの段階で現れています。また、サーカスや舞台での芸といったものはフェリーニが子供の頃から大好きだったので、全キャリアの作品の中、あちこちに出てくる大きなモチーフです。『フェリーニの道化師』(1970)なんてセミ・ドキュメンタリーのような映画も撮ってますしね。
そんなわけで、まずは『道』をお楽しみいただいて、もし興味が出てきたら、他のフェリーニ作品も探してみてください。
★『道』をシネフィルWOWOW プラス公式YouTubeにて5月10日(金)21時から2週間限定無料公開
▶https://youtu.be/uFe0hiPSegA?feature=shared
山下泰司(やましたやすし)
1964年山口県生まれ。レーザーディスクから今日の4K UHD Blu-rayに至るまで、30年以上、映画の円盤ソフト制作に関わり続け、近年は(株)WOWOWプラスで映画、アニメーション作品の修復や、劇場公開にも携わる。映画、音楽関係を中心としたライターとしての活動も長く、妻との共著に「格安世界一周お二人様ご一行」、著書に「雨のち晴子 水頭症の子と父のものがたり」がある。日々、映画の情報を流しているXのアカウント@cinefilDVDの中の人。
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