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自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子⑦

この記事は続編です。ここに至る経緯はこちら
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大学生編ダイジェスト(1900字弱)

・ 東日本大震災を経験 ⑥~
・ 順調過ぎると思っていた就職活動

それではどうぞ。

相変わらず弟とは連絡が取れず、その夜は余震が怖かったので家族全員で車中泊。ガスも使えず、停電も続いていた。携帯の電池を持たせるため、電源を切っていたが寝る前に確認するとメールがたくさん届いていた。
不安定ではあるが電波は通じるようになったようだ。情報がなかなか得られない中、アルバイト先から店舗前の通路の天井が崩落したのでしばらく休業と連絡を受けた。一通り返信し、電源を切った。
あたり一面は真っ暗。
もとから明るい場所ではなかったが、空気が澄んでいて星空がとても綺麗なのが印象的だった。雪も降ってきた。弟は大丈夫だろうか。イメージを打ち消して毛布に包まった。明かりはなく、娯楽もなく、暗くなれば、寝るだけの夜。原始人の気持ち。


次の日、アルバイト、夜遊びで乱れ切った生活をしていた大学生にしては早い目覚めだった。
朝日とともに活動を開始した僕。家族と話し合って、優先事項を確認した。
①弟の安否の確認・情報収集
②食料の調達
③その他生活基盤の再建と構築

まずは市役所に行くことにした。人で溢れかえる市役所に着くと、至るところに伝言メモが張られていた。よくメディアで取り上げられていたあれだ。
自分の安否と居場所を知らせるメモを書き残しつつ、探す相手の情報を探す。するとそこで小中学校の同級生に再会した。
しばらく会っていないのにすごくほっとしたことを覚えている。


にわかには信じられないかったが海寄りの家屋は全倒壊だそうだ。
ほとんどの建物は鉄骨だけとか基礎だけになっているんだとか。
消防署など二階建ての公的施設などは比較的頑丈な造りなのだろうが何台もの車や瓦礫が突っ込んでいて、とても大丈夫という状況ではないようだ。
(最終的には町民が700名以上亡くなってしまった)
その友人は外出しているところを津波に巻き込まれたそうだが、瓦礫や車が止まった後の泥水だけだったので助かったそうだ。どうやら家族の安否を確認しに市役所に来たようだ。

その後、お互いの情報を共有するため、連絡先を交換し手短に分かれた。
弟の情報を得ることは出来なかったが、近隣の避難所の場所が分かった。
同じ市内の小学校が避難所になっているらしく虱潰しに周ることにした。

しかし、どこへ行っても弟の姿を見つけることは出来ない。

ここで気付く。
小学生達の姿自体が見当たらない。避難所の受付の人たちに聞いても把握していない。非常事態なのだから、皆必死だ。情報が錯綜しているのも仕方がない。このころには携帯も幾分繋がりやすくはなっていたが、次から次へと入ってくる情報を捌く人間が足りていないのだろう。今は情報が整理されるのを待つしかないようだ。

僕はその足でアルバイト先の店舗が入っている大型商業施設に向かった。
車も人もごった返している。みな考えることは同じようだ。店舗内は危険なので駐車場で食料品や生活必需品が売り出されていた。長蛇の列を抜けて、乾麺とカップ麺を手に入れることができた。数量制限があるのは仕方がないが数日は何とかなるだろう。食料を掲げて帰宅すると、ちょうど母親が電話をしているところだった。小学校からの連絡で、あっさり弟の無事が確認出来たようだ。

だが、やはり懸念していた通り、小学校自体は津波に飲まれ、2階の天井付近までは浸水してしまっていると聞いた。水がなかなか引かないため、帰宅自体は困難な状況で数日は引波で流れてきた燃えたよく分からないものや瓦礫、余震、飢え、寒さに怯えながら、助かった地域の人々と小学校の3階や屋上で生活しなければならないという。それでもまずは一安心。その夜は少しだけ安眠できたような気がする。

被災してから4日後、水はまだ完全に引いていないが弟が帰ってきた。
自衛隊がヘリで救助に来てくれたらしい。それから3週間ほどで電気、ガスが復旧し、少しづつ日常へと戻っていった。

色々な人の助けのおかげで、個人ではどうしようもない問題が拍子抜けするほど簡単に解決してしまった。

今にしてみれば、この時から漠然と人のためになることがしたいと思い始めたのかもしれない。

その後、大学は春休み延長の判断をしたため、市内のボランティア活動に参加し、清掃、炊き出しなど出来ることをしたが僕がやりたいことは別にある気がしていた。

つづく

~~~マガジンにまとめてみました~~~
自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子


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