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自分史 自業自得と時々外されちゃう梯子④

この記事は続編です。ここに至る経緯はこちら

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高校時代ダイジェスト

・硬式野球部に入部、3年間やり遂げる。
・みっともなくフラれる。
・球技大会で失敗。

硬式野球部に入部、3年間やり遂げる編

紆余曲折あった中学時代に引き続き、硬式野球部へ入部。しかし、現実は甘くなく、というか厳しすぎ。端的に言うとスタートダッシュでだいぶ出遅れていた。入部希望者でなんと卒業から入学の間の春休みにすでに練習に参加していた人もいたようだ。

中学校(軟式)から高校(硬式)のこの変化はとてつもなく大きい。なんせ使っている道具が違うのだから。まずは慣れるところからで練習どころではなかった。具体的には打球の跳ね方、ノビが軟式と硬式では全く違う。さらにのほほんと春休みを過ごしてきた僕とは違い、練習に参加こそしていないが体を絞ってきている人が大半。しかし、そんな中、この条件にさらにハンデを抱えようとする愚か者がここにはいました。

秒速でテニスの王〇様になることを諦め、高校で野球を続ける決意をした僕は一つ決めていたことがありました。僕は右投げ右打ち(一般的な右利きの人はこれ)ですが、簡単に言うと左打も挑戦していこうということです。経験者以外には伝わらないと思いますが、難易度的には利き手と逆の手で箸を使って小豆を10連続かつ制限時間ありで摘まめる様になるくらい練習が必要だと思います。実は中学時代にもチャレンジしたことはあったのですが、しっくりこなくて止めてしまいました。


三年間の結果から言うと、大成はしませんでした。笑 
もちろん、ただ無謀なのではなく挑戦する価値があると僕自身が判断した挑戦です。悔いはありません。しかも、2年生の秋に監督直々に【お前の左は使いたくない】と死刑宣告。渋々右打ち1本に専念することに。右打ちにしてからは試合でも使ってもらえるようにもなったが1年間ですらレギュラーを維持することは出来なかった。

理由は2つ。年に1回以上のペースで骨折するような選手だったこと。もう1つは中学での経験からか闘争本能が失せてしまっていた。野球は好きだし、楽しんでいたつもりではあった。でも、また突然に悪意を向けられることが怖かった。出る杭にならぬように、ほどほどに。実は結構怯えていた。

それがすべてではないけれど、自分で思ったよりはダメージを引きずっていたようだ。いざ新たな競争社会に放り込まれるとどうしても思い出してしまう。そして、今現在でもその引きずったものが歪な形でこびり付いて落ちなくなっているものもある。目を背けて逃げて胸の内に秘めたままにしていたから。もはや自分の一部だ。気付くのはそこから10年後ぐらいだけどね。

つづく

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