全部壊れてしまえ、に成人を過ぎてから共感を覚えた

この世界の理が全て壊れて仕舞えばいいのにと思うようになりました。

こういう言い方だと誤解を与えるかもしれませんが、僕は至って健全です。ただここ数日で、むしゃくしゃすることが多くなったのは原因の一つだと思います。

全部壊れて仕舞えばいいのに。

学生時代には敬遠していたはずの言葉なのに、なぜ今になってそんな感情が湧いて来たのか。

結論から言えば、世界の壊れ方を想像できるようになったからだと思います。

現在、浮き足立っている世界情勢の中で、何がきっかけでどんなことが起こるのか、その具体的な壊れ方をこの目で確かめたいという思いが強くなっています。

例えば、金融から壊れるパターン

アメリカ政府が多額の経済対策を行なっているため各所でバブルが吹き上がっている。
昨年4月あたりから始まっていたこのバブルは、断続的な資金援助が行き過ぎた結果となり歯止めが効かなくなっている。このバブルを滑らかに終わらせるためには、それに見合うだけのお金がまた必要になるため、結果として自転車操業みたいになるだろう。
そして、それだけ放り出したお金を再度収集するための方法として上がっているのが富裕税の導入らしい。
ただこれは妥当な判断でもあるのでなんとも言えないが、少なくとも経済は後退するのではないだろうか。

アメリカさんはここまでの流れを一つのミスなく行う必要があるため、指揮決定をする時の重圧は計り知れない。

もし、ここまでの流れのうちどこかで想定外のことが起きたら?

変異型へのワクチンが追い付かなくなり、指数関数的に増えていく感染者を指を加えて見るしかない場合は。

中国との国交が今以上に悪化し、三段飛ばしで成長していく中国に対抗するためさらに自転車操業を続けた場合は。

あくまで例え話ですが。

バイデンさんは中国と良好な関係を築こうとしてますし、変異型が必ずしも強力になるとは限らないです。


要するに何が言いたいかというと、「壊れて仕舞えばいいのに」という言葉への重みが変わっているということです。

十代思春期の頃、何かに挫折して「こんな世界壊れて仕舞えばいいのに」と言った場合、それは自分の身の回りの数メートル範囲で繰り広げられる世界のことを指しており、どちらかと言えば陳腐です。

対して、世界の理をある程度理解した上での「こんな世界壊れて仕舞えばいいのに」は、その言葉の重さを理解した上で発言しているので、どちらかと言えば最低だと思います。

ということで、冒頭で「共感を覚えた」と発言してますが、「こんな世界・・・」と心から言った思春期の子とは違う視点からの想いであるため、正しくは「こんな世界壊れて仕舞えばいいのに」という文字面に共感したことになります。

ちなみに僕はそんなこと思ってないですけどね。

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