人間と怪物、どこに違いがあるのだろうという話

四季のミュージカル、ノートルダムの鐘を観劇して随分経つ。

ディズニーミュージカルと銘打ってはあるがその内容は原作に近く、アニメ映画化されたそれとはだいぶ筋が違う。エスメラルダがちゃんと死ぬ。内容が複雑なので冗長な印象を受けたことは否めないがそれでも素晴らしかった。サラッとネタバレしたけど大丈夫?

兎にも角にもセットがいい。シンプルでありながら情景が分かりやすく、場面転換がスムーズなので興が削がれることがない。
カメラが動くような二次元的な見せ方の演出があるのも面白い。三次元の舞台でこういう視点の捉え方、変え方をするのか!と本当に興味深かった。
そして開幕直後早速歌が素晴らしい。当時小6の息子は「出だしの音圧がエグい」とありったけの語彙力を駆使して感想を述べていた。
分かる、打ちのめされる。ここを聞くためだけにチケット代を払っているという人がいても理解ができるほどの価値を感じる。義務教育で全員に聞かせたい。

さてこの作品は「答えてほしい謎がある、人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」というフレーズが冒頭とラストに出てくる。
そしてこれが私にとって随分長い間この作品の余韻を楽しむことができた要因になっている。

人間と怪物の違いはどこにあるのだろう。

フロローはカジモドに怪物だと言い続ける。お前は醜い怪物だ。だから人前に出るんじゃない、お前は私が与える世界だけで生きていけばいい。
そして言われたとおり素直にカジモドは自分が怪物だと悲嘆する。

私はカジモドが怪物だとは思わない。
純粋で素直な一人の青年だ。
しかしラスト、カジモドがフロローの愛を解さず怒り、ノートルダムから突き落とした刹那、彼は怪物であったと私は思う。

ならばこの時、カジモドを怪物たらしめたものは何だろう。

産まれてからこれまで、カジモドの世界はフロローに与えられたものだけだった。
見える景色も、話す言葉も、思想も、感情も。

だからこの怪物は、フロローがカジモドに与えた友達だったのかなぁ、と思う。
カジモドの中にその種を蒔き、大事に育ててしまった、カジモドの中のひとつの感性だったのではないかと。
その怪物がラスト、カジモドの内側からカジモドを喰って、フロローを突き落としたのだと思う。
怒りに我を忘れた、とか怒りに呑み込まれた、とか言ってしまえばありきたりな言葉になってしまうけれど。

フロローは本音のところではカジモドをどこまで怪物だと思っていたのだろうか。

大切な弟の忘れ形見であると同時に自分から弟を奪った憎いジプシーの子でもある。
受け入れられなくてもしょうがないとは思うが、それでも弟の面影を重ねながら世話をしていたようにも見える。
それは愛だったのか、神に仕える身であるが故なのか、弱さなのか、執着なのか。

自身のエスメラルダへの想いをなかなか受け入れられなかったことを考えるとフロローは情愛を嫌悪していたのかもしれない。いや、フロローにとっては弟への愛こそが唯一で他の愛なんて知らないものだったのかも。

だとしたらフロローはエスメラルダを自分のことを唆す怪物だと思っていたのだろうか。

最後、弟への愛を吐露し、カジモドに否定されて、絶対に余計なことなのにカジモドの親を悪しざまに罵ったフロローは人ではないように見えた。
フロローは肌感で愛というものを感じたことがなかったのかも知れない。

人間と怪物、どこに違いがあるのだろう。
「愛」が在るかどうかかな、と私は思う。

私にとって不寛容は人間であると感じる。何でも受け入れられるなんてそんなことは無理だ。
市井の人たちがカジモドに辛く当たる。
あれを怪物だと思う人もいるかも知れないが私は不寛容からくる人間の弱さの凝縮だと思う。

しかし愛の否定は怪物であると感じるので、きっと私にとって愛というものは不可侵で何よりも守られるべきものだという思いがあるのだろう。
さらにそれを力でねじ伏せられようものならそれはもう怪物である。
誰が何と言おうと、私はその人を怪物だと思う。

怪物は、人によって姿形が違うのだろう。誰かの怪物は誰かの救世主かもしれない。

フロローを突き落とし、エスメラルダの亡骸と二人きりになったカジモドは純粋にエスメラルダの側にいたいと望み、命が消え、白骨化するまで添い遂げた。

怒りのままに人を殺めたカジモドは、一人の青年として添い遂げられたのか、エスメラルダの仇をうった英雄なのか、怪物のままだったのか。

カジモドがカジモドとして、そばにいられたのならいいな、と私は思う。

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