JCSと駆け込み訴えの話
ジーザス・クライスト=スーパースターというミュージカルがとても好きだ。何か奇跡が起きて「一回だけ好きなミュージカルで好きな役をやらせてあげる」と言われたら「じゃあJCSのシモンやらせてください!シモン!」と即答するくらい好きだ。いや、アンサンブルでも構わないし、もう携われるなら何でもいい。それくらいこのミュージカルが好きだ。
ファンをしてJCSと略されがちなこのミュージカル、太宰治の「駆け込み訴えによく似ている」という話をちょこちょこ聞く。
「申し上げます。申し上げます。旦那さま」で始まるあの短編だ。余談だけどこの出だしマジで芸術点高いよね神がかってるわぁ。
JCSはジーザス最後の7日間を、駆け込み訴えはそのうちのユダヤ教の司祭にイエスを売り渡す場面をそれぞれ書き出している。
JCSは神の子をジーザス、駆け込み訴えはイエスと呼んでいる。マグダラのマリアについてもJCSはマリア、駆け込みの方はマリヤとちょっと違う。
読めば確かにどちらの世界も近いようであり、二人のユダは似ている。
神の子と呼ばれているただの男をそれでも支えたい、一番の理解者でありたいという気持ちが増幅し、傷ついてほしくない、一番近くで守りたい、本当に愛しているのが自分だけでありたい、それを彼にも分かってほしい、それが叶わないのならいっそどこからもいなくなってしまえばいい、という狂おしいほどの愛が見て取れる。そして真に支えたいから現実的に状況を判断しているため傍から見たら浮ついてない。ユダはそんな人物像に見える。
他の信者からは煙たがられていただろうと思う。熱量の違いは上すぎても下すぎても集団の中では異端になってしまう。また言動の端々から周りを明らかに見下げているのがわかる態度も良くない。
特にマリアは神の子にピッタリ寄り添って甲斐甲斐しく世話をやいているのでどちらの作品でもユダにネチネチ嫉妬されている。これは誰から見てもいい印象は持たれない。
それでもまだJCSのユダは話の通じそうな雰囲気があるが、駆け込み訴えのユダは情緒がゼリーくらいブルンブルンで訴えては否定し、訴えては「今のナシ」を繰り返すのでどこまで話に信憑性があるか分からない。しかも殆ど心情の吐露である。暴言もひどい。よく申し上げられて聞く耳が持てたものだ旦那様。
途中、海辺をイエスと二人で歩く回想シーンがある。BGMに『So much in love』でも流れていそうな雰囲気だ。
そこで「俺の家族にならないか」的な非常に地に足のついたプロポーズともとれる提案をしているがサラッと流されている。不憫。
その後、マリヤの登場でイエスの気持ちがそちらに向くのに気づいてイエスの浮ついた気持ちを貶し、そのついでのようにお姉さんのマルタを突然悪しざまに言う。流れ弾である。良くない。働き者のいい娘さんなだけに尚更だ。
そしてイエスの浮気心に口を出しながら、自分もちょっとマリヤに気があったようなことを言う。いや自分もかい、と裏拳で突っ込むしかない。
そこをいくとJCSのユダは徹頭徹尾ジーザスだけを愛し、マリアだけを邪険にしているので筋が通っている。この物語の最後まで付き合う覚悟が決まっている。だから最後スーパースターのようなジーザスのことも自分のことも茶化すような歌詞だってお構いなしに歌ってしまう。「時代もところも悪かった」という歌詞がとても彼らしいなと思う。そのあとで「今なら世界も動かせた」と続けるところも。
JCSのユダは冒頭、ダンスをしながら客席に語りかける。駆け込み訴えのユダは口上からはじまる。ユダは作品と受け手を繋ぐ媒体の役割でもあるのだ。
どちらも煮えたぎった渦から情熱を伸ばしてこちらに掴みかかってくる。自分の正しさに刮目せよと言わんばかりにこちらを引っ張り込む。受け取り手は抵抗する間もなくその渦中へ引き摺り込まれ、潜っていく。
抜け出すのは自力でやらなくてはいけない。私はもう自ら抜け出すのは諦めて、周りを咀嚼しながら吐き出されるまでそこにいる。
そうして定期的に読み返したり、チケットを取ったりしてまた渦に引き摺り込まれるというのを、おそらく死ぬまで繰り返すのだろうなと思っている。
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