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「社交」は文化そのもの。だが、コロナで存亡の危機 ~山極寿一学術会議前会長の見事な解説~

○「社交」は文化そのものであり、それがコロナで存亡の危機に瀕している―そんな大事なことを私は気が付きませんでした。山極寿一日本学術会議前会長・京都大学前総長による、2021年2月11日朝日新聞の「科学季評」で教えられました。山極氏はゴリラが専門の霊長類学者。分かりやすく、面白く、しかもコロナで日本社会がどのような状況に追い込まれているか、見事に解説したものなので、科学季評の原文を是非読んでいただきたいと思います。しかし、1週間前の新聞を読みに図書館に行っていられない、と言う人も多いと思われますので、及ばずながら、私が要約して紹介を試みてみましょう。

○ 山極氏は「人類は長い進化の過程で脳の大きさをゴリラの3倍にした」とした上で、「ゴリラなどの類人猿に比べ人間は圧倒的に自己を抑制して場の雰囲気に合わせる能力が高い。類人猿はいったん自分の集団を離れるとなかなか戻れないし、1日のうちに複数の集団を渡り歩くことなどとてもできない」と言う。しかるに「私たちが日々様々な集団を遍歴し、コンサートやスポーツなどを見て見知らぬ人と一緒に心身をふるわせることが出るのは、人間だけが持つ不思議な同調能力のおかげだ」と指摘する。

○山極さんはさらに、「昨年亡くなった劇作家で文明批評家の山崎正和さんが、私たちが文化的な生活を送る上で社交が欠かせないと強調した」と紹介する。そして「社交の場とは・・くつろぎと儀式的な雰囲気を兼ね備えた音楽ホール、舞踏場、レストラン、酒場などが該当する」と言います。「社交にはその場に応じた礼儀作法があり、参加者は自らの表情も発言も内面の感情も、その起伏に会わせ協力してリズムを盛り上げなければならない・・典型的な例が祭りだ・・スポーツもコンサートも現代の祭りと言っていい」。

○山極さんは言う。「社交とは文化そのものだと山崎さんは言った。リズムが社交を作り、社交の積み重ねが文化として人が共感する社会の通低音になる。であれば、やはり人々は集まりリズムを共有する試みを怠ってはいけない」。

○ここからが、山極さんの結論です。「オンラインは情報を共有するためには効率的で大変便利な手段だが、頼りすぎると、私たちが生きる力を得てきた文化の力が損なわれる。とりわけ、まだ文化的な付き合いに慣れていない若い世代から社交の機会が失われるのは大きな問題だ。社会的距離を適切に取りながらも、私たちは『集まる自由』を駆使して社交という行為を続けるべきだと思う」。

○どうです。山極さんの見事な解説!、馴染みの飲食店がいつの間にか店を閉じているとか、日本社会にひずみが生じていることは皆さんも感じておられると思います。しかし影響は幅広く、かつ本質的な問題を含んでいるとは十分理解できていなかったのではありませんか。例えば、多くの大学で、オンライン授業が広がっています。しかし大学が大人になりかけの若者にとって、一番スムースに入っていける社交の場だったことを考えると、授業の中味らしいものを自宅にいる学生に届けるだけで、、わが事なれりと大学に思われたのではたまりません。見知らぬもの同士が集り、交わってこそ大学、と思っていた古い我々の感覚が正しいことが山極さんに裏付けられた気持ちです。

○また、一番わかりやすい飲食店の役割。飲む、食う、だけが問題なのではありません。親しい仲間が寄り集まって、談論風発することが大事なのです。スポーツ、無観客試合がどうしてあんなに味気ないのか、理論的に分かったような気がします。

○私は、山形のソプラノ歌手と東京のボニー・ジャックスの全く対照的な歌の力をドッキングさせ、毎年東京でコンサートを開いてきました。去年は中止し、今年も当然のように中止を決めています。しかし、文化の維持を怠っているという自覚がないことを反省させられました。

○コロナ後の社会をどうデザインするかではなく、ウイズコロナの時代の文化社会をどう守り、作っていくか、真剣に考えなければならない、と深く考えさせられました。##

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