やさしさ

「僕は1児の父です。子供の笑顔を見ると元気付けられます。幸せです」

さて、この1文にどんな意味が込められているでしょうか。
私たちは無意識のうちにその言語に込められた文脈を一人称視点で読み解いています。これが人間の解釈というものです。どうしたって自分の持つ文脈からは逃れられないのです。

少しこの1文について考えてみてください。

「家族思いだな。育児も参加しながら、家事も手伝ってるのかな?仕事も頑張ってるのかな?大変だな。どんなお子さんなんだろう。男の子かな。女の子かな」

先の1文をこんな文脈で読み解くこともできます。この解釈に同意していただいたり、似たような見方をされた方々も多いのではないでしょうか。それが自然な(通俗的な)解釈だとも思います。

でも、この解釈では「妻」の存在を暗黙の前提としています。僕には妻はいないかもしれません。この解釈では、他にも「家事育児は母がするもの」という前提も暗黙のうちに社会的善悪から踏襲されていますし、「仕事は夫がするもの」という前提、「家族は大切」という前提も。

これらはすべて読み手側の妄想です。もちろん、実際に妻はいますし、家事育児は基本的には妻が精力的にやってくれています。(妻にとってみれば、家事育児は女の仕事だと思っているからなのかもしれませんが...)書き手、言い手の意図と一定する場合もあるわけです。

でも、一致しない場合もあります。僕が同性愛者で、養子をとり、生活しているなら?もしそうなら、妻はいませんし、両方男ですから家事育児は女の仕事なんて通用しません。そして、人によっては「妻」の存在を前提とする会話にうんざりし、気分を害するかもしれません。

その反面、このような見方もできます。通俗的な家庭の総数が一番多いのだから、その家族像を前提とした会話になることは仕方がないと。もちろん、それも一理あります。コミュニケーションの際にかかるコストを最小化するべきだと考える考え方も正しいと思います。ただ、各人がそのコミュニケーションにかかるコストを払うことを僕はやさしさだと思うのです。人が人にやさしくするとき、それは何かしらの追加コストを支払わないといけない。発言、行動問わずです。

やさしくされる方も、やさしくする方もそれを前提に「やさしさ」を取り扱うから「ありがとう」が生まれるわけです。同性愛者や通俗的な家族像を持たない人に対してもその人の人生を思い、その人の意思を尊重しようと全員が一定のコストを支払う。それでこそ人間は社会を構成し、社会に包括されて生きていけるのではないでしょうか。

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