生きる意味について

今回のテーマは生きる意味について。
皆さんはナニモノなのか。

一度、初めて会った人に自己紹介する場面を想像してほしい。
「私は、KPOPが好きだ」とか「生の魚が嫌いだ」とか「東大卒で空手黒帯だ」とか色々いうのだろう。
しかし、これらの説明の一切は、あなたを説明しているようであなた以外について説明している、と言えるのではないだろうか。
これは、あなた自身があまりに空虚な存在であることを意味している。
つまり、「あなたについて説明しろ!」と言われたはいいが、あなたという存在があまりにちっぽけであるからこそ、あなた以外についてしか説明できないのだ。

この現実は、あまりに苦しい。
なぜなら、「あなたがあなたである必要がない」という命題を強要されるからだ。
あなたが、あなた以外の外部要因(KPOPとか生の魚など)によって規定されるのであれば、あなた自身の存在がどうでもよくなる。
例えば、ここで、あなたの自己紹介と全く同じ自己紹介をする人間を、すなわち、あなたを規定する外部要因と全く同質な外部要因によって規定された人間を、想像していただきたい。
彼とあなたの違いはどこにあるか。
どこにもないだろう。
「あなたがあなたである必要はない」のだ。

「あなたがあなたである必要がない」という命題に耐えられる人間などいない。
では、我々はどのようにして生きていけばよいのか。
そして、どのように生きてきたのか、について言及する。
私が考えはこうだ。
我々はすでに、自身が空虚であるという事実、を知っていた。
だからこそ、生きる意味を作り上げたのだ。
私たちは、「本当に隠すべきことがないということを隠す(『ちぐはぐな身体』鷲田清一著より引用)」という知恵を持ち得ていたのだ。
本当に隠すべきことがない、というのは私自身の空虚さと対応している。
そして、その空虚さがあまりに苦しいからこそ、それを隠すために、私たちはそれらしい自己紹介や、生きる意味を形成するのだ。

つまり、生きる意味とは、自身の空虚さを埋め合わせるための見事な装置であるのだ。

では、次の問題に移る。
それは、私の空虚さを完全に理解した上で、それでもなお、生きる希望を持ちうることは可能か、という問題。
私は、ここまで読んでいただいたあなた方に、生きる意味の再建をなさねばならない。
あまりにも無理矢理に、あなた方の生きる意味を崩壊させてしまったかもしれないからだ。
そのためにも、ここで、提唱したい三つの概念がある。
意味形成と意味喪失、そして、不可疑意味の三つである。
意味形成とは、生きる意味を作ること。
意味喪失とは、生きる意味が失われること。
そして、不可疑意味とは、無限に続く意味喪失の可能性の先に、それでもなお光り輝く存在として立ち現れる、疑いようのない生きる意味のことである。
ここまで、生きる意味が私たちの空虚さを埋め合わせる装置でしかないことを告げた。
そして、その告白があなた方の生きる意味の無意味さを証明してしまったかもしれない。
もしそうであれば、それは意味喪失と言える。
だからこそ、新たなる、意味形成の必要に差し迫られているのだ。
何かの、生きる意味がなければ、空虚さに直面せざるを得ない。
そして、空虚さを直視することはあまりに苦しい。
しかし、かといって、今のあなたにとって意味形成は容易でない。
なぜなら、すべての形成された意味が、すぐにでも喪失する可能性、崩壊する可能性を秘めているからだ。
どんな生きる意味も、無意味に感じられてしまう。
とてつもなく辛い。
そこで登場するのが、不可疑意味である。
これは、疑い得ない生きる意味、と言い換えてもよい。
これも同様、意味喪失の可能性を孕んでいる。
しかし、「やっぱりこの感覚は疑い得ないよな」と感じられる点で、フツウの生きる意味とは異なる。
私は、不可疑意味を完成させた一人の例を挙げたい。
それは甲本ヒロトである。
彼は元ブルーハーツ、ハイロウズのボーカリストであり、名曲リンダリンダやTRAIN-TRAIN、日曜日よりの使者などを残している。
そして、重要になるのは、彼が根っからのロック大好き人間であるということだ。
ロックンロールというものが、彼にとって、不可疑意味として立ち現れているということを、端的に示す一文がある。
それは彼の主張である「ぼくはロックンロールにだまされていたい」という言葉だ。
この文章、特に最後の「だまされていたい」という音の響きに着目したい。
ここからは、ロックンロールが彼にとっての生きる意味として現れたり、一方で、もしかすると生きる意味とまでは言えないのでないか、と考えたり、した過程が伺える。
しかし、そういった無限の疑問符が繰り返された果てに、最終的には「ロックンロールにだまされていたい」と思えるほどの強い力へと昇華したのだ。
これはやはり重要である。
私の言葉で言い換えるならば、無限の意味喪失の可能性を含んだ先で、それでもなお耐えうる意味として完成された、ロックという、不可疑意味への昇華である。
したがって、彼のように、自分にとっての不可疑意味を完成させることが、意味喪失の苦しみに対する処方箋として重要であるのだ。

最後に、不可疑意味の問題点について考慮したい。
不可疑意味は私たちの生きる意味の最終到着点として非常に重要であるが、一方で、それは個人の思想を無闇に肯定してしまう問題がある。
例えば、「私にとっては殺人が不可疑意味である」と主張する人間に対しては、彼の不可疑意味が彼自身の生きる意味を支えているという点では、彼にとって重要であるが、私たちがただ殺されるのを黙っているわけにはいかず、意味の対立が発生する。
社会問題としての不可疑意味の取り扱い方は非常に難しい。
そこで私は、不可疑意味ができるだけ社会を包括しうるような意味であるべきだと主張したい。
話は戻るが、あなたはあなた以外によって説明されるのであった。
つまり、あなたを規定するのはあなた以外の外部要因である。
ゆえに、外部要因になりうるものに対しての思慮深さがなくては、あなた自身について考えたことにはならない。
不可疑意味を形成する上で、できる限り広い外部要因に思考の羽を伸ばすことは、その点で非常に合理的だと言えるのではなかろうか。
あなたに意味を与えるためには、あなた以外の外部に意味を持たねばならない。
だから、限りなく広く社会を包括しうるような不可疑意味を作らなくてはならないのだ。

以上で、私の主張を終えたい。
不可疑意味を作り上げることは簡単なことではない。
実際、私も突然生きる意味を見失い、定期的に憂鬱と貧乏ゆすりを発作的に繰り返し、酒とタバコに身を委ねる生活を送っている。
私も、不可疑意味を形成する道半ばでしかないのだ。
しかし、私含め、諦めないでほしい。
もし苦しければ、私のような半人前の仲間もいるのだ。
この苦しみを共に乗り越えよう。
まぶしいほど青い空の真下で。

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