見出し画像

早期退職駐夫のおいしい?生活@エルサレム編

駐夫にもいろんなパターンがあります。働き盛りの時に所属先を休職していく人、仕事を辞めていく人、もともとフリーの人、そして僕のように、早期退職をして第2の人生との間に駐夫をする人。タイミングは自分で選べないけど、組織との関係をどうするか、自分の人生での位置づけをどうするか、そしてどういう心持ちで過ごすかは、自分次第だと思います。

まずは自己紹介

申し遅れました。内藤徹といいます。妻の海外赴任にあわせて、中1と小3の子ども2人ともに、エルサレムに1年7か月ほど住み、コロナの影響で父子のみで日本に戻ってきた駐夫OBです。もともとは、妻と同じ組織で国際協力の仕事をしていました。海外は、トルコに単身赴任していたことがあります。妻の意向で、可能な限り夫婦平等であろうとしていて、日本にいるときから、家事や子供の世話は分担していたので、慣れていました。そんな駐夫です。

なんで早期退職したのか?

夫婦2人とも海外勤務の可能性は高く、その際に家族でどうするかは大事なことでした。子どもができてからは、家族ともに海外で過ごしたいというのが、共通の意見でした。配偶者海外赴任同伴休職の制度ができたので、2人でその制度を申請していました。さらに、妻は育休をとったことで仕事の機会を失ったと感じていた一方、僕は仕事での海外志向が弱く、また仕事を一時休んで海外で子育てしながら自己研鑽でもして過ごすのも良い経験だと考えていて、人事には海外勤務は妻優先を希望する、と伝えていました。既にこの制度で休職した男性もいて、2,3年の休職によるキャリアのマイナスもそれほど感じていませんでした。その結果、妻への海外赴任の話がきました。
その話があった当時は51歳。既に40代後半から次の人生をどうするか考えていました。そのころ読んだ印象的な本に、藤原和博さんの書いた「坂の上の坂」というのがあります。「定年退職したら、坂の上に雲があるんじゃなくて、もう一度次の坂があって、それを登るのが今の時代だ。そのために、今の仕事と新しいチャレンジのかけあわせで、ユニークな存在になろう」、といったことが書かれている本です。藤原さん自身も、リクルートで活躍した後、民間出身の中学校校長になり、その後も教育改革者として活躍されている方です。
僕も、定年に関係なく仕事をずっとしていきたいので、どこかで次のギアにチェンジをしようという思いはありました。といっても、仕事をしながら次の準備は進まない。そんなときに、同伴休職の話になった時に、帰ってきたら役職定年の55歳も近いだろうし、であれば休職でなく早期退職しよう、と心が決まりました。

向こうの暮らしはどうだった?

エルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地であり、観光地です。治安が悪いイメージがありますが、実は日常治安はとてもよく、夜暗くなってから子供が一人で帰ってきても問題ないぐらいです。滞在中、危ない思いをしたことは一度もありませんが、場所や状況によっては、イスラエル人とパレスチナ人との間で事件が起こることはあります。ちなみに、空爆やロケット弾の応酬の報道がよくされるのはエルサレムから大分離れたガザ地区の話でです。


エルサレムの街は、イスラエルとパレスチナ地域(ヨルダン川西岸地区)の境界に位置していて、西エルサレムはユダヤ人の地域、東エルサレムはパレスチナ人の地域です。ユダヤ人はヘブライ語を話し、パレスチナ人はアラビア語を話しますが、街では割と英語が通じます。エルサレムに住む外国人は、国連や各国政府の援助関係者や、メディアの駐在者、研究者が多いです。

画像1

住んでいたのは西エルサレムで、ユダヤ教の教えに基づく安息日が日常生活に大きな影響がありました。ユダヤ人は、金曜の日没から土曜の日没までは、仕事もしない、携帯も使わない、電車も動かないし、車も使いません。店もほとんど閉まって買い物もできず、マンションでトラブルがあっても、管理人に電話をしても出てくれません。物価は高く、外食は日本の1.5倍から2倍ぐらいします。

主夫の一日の過ごし方は?

朝ご飯を作り、子どもたちをインターナショナルスクールに送り、買物をし、午後に学校に迎えに行き、宿題をみて、夕食を作るのが日課でした。そこに、最初は学校手続き、そして住居探しと引越し。そのうち、子どもが学校に時々行かなくなり、その対応。慣れてきたら、日本から来る知り合いを泊めて案内したり、旅行の手配をしたりと、1年目はずっとばたばたしながら過ぎていきました。仕事をしている時のように、オンオフが特になく、昼寝もできるけど、夜も土日も何やかや、家族のことを考えて何かやってる感じです。
食材は、スーパーや、マーケットに行けば、基本的なものは手に入ります。何軒かあるアジア食材店に行けば、米、豆腐、中華めんなども売っていて、季節次第では大根、白菜も手に入ります。肉類は、ユダヤ人もパレスチナ人も豚肉は食べませんが、ロシア人用スーパーに行けば売っています。妻の職場の日本からの出張者には、よく子どもたち用の日本のお菓子を買ってきてもらいました。
夫婦は海外での仕事経験もあり慣れていたけれど、子どもたちはほぼ英語が話せないのにいきなりインターナショナルスクールに通わせたので、相当大変でした。とどこおりなく日常生活を送りながら、時々楽しいイベントや、美味しい食事で、家族が前向きに過ごせるようにするのが、一番のお役目でした。
慣れてくると、余裕も出てきて、日本からくる教育関係者にエルサレムやパレスチナ自治区を案内したり、将来のために学んでてきたマッサージを日本人向けにしたりしていました。また、オンラインで日本の講座を受けたり、在住日本人向けにこの地域に関する勉強会を主宰したりしていました。

日本に帰ってからの仕事は?

2020年3月に、コロナのため荷物を現地に残したまま、父子のみで急きょ一時帰国となりした。帰って自宅隔離からそのまま緊急事態宣言と続き、身動きが取れない状況が続き、まずは子どもとの日本での生活が第一優先でした。そして、そのまま現地に戻れなくなり本帰国になりました。
子どもの受験もあり、仕事は焦らずに、でも何かやらないと、という状況でした。定年を気にせず長く働くために組織を辞めたので、今後はどこかに所属するのでなく、フリーの立場で自分がやりたいことをいくつかしながら稼いでいく理想像は持っていました。
まず、以前からやりたかったマッサージを、エルサレムでの経験も踏まえ正式に自宅サロンとして開業しました。その後、友人から声をかけてもらい、大学からの受託事業を一緒にやることになり、あわせて非常勤講師の仕事もすることになりました。他には、現地で書いていたブログをもとにした電子書籍を出版しました。これは、kindleで300円にて発売中ですので、良かったらぜひ読んでみてください。(試し読みでも結構読めます。)
電子書籍「仕事をやめてエルサレムで主夫してきた」のURLはコチラ

また、イスラエルとパレスチナについての話を頼まれることも多く、ボランタリーに引き受けています。さらに、イスラエルとパレスチナの理解と交流を行うNPOの理事も頼まれて始めました。

駐夫は日本社会の新しい生き方

駐夫は日本社会のこれまでの価値観に縛られない、新しい生き方です。そこには、男はこうあるべき、女はこうあるべき、という社会の慣習や同調圧力を越え、夫婦の間で、これは自分がやったほうがいい、家族にとってこうするのがいい、という独自の判断でやるものです。
キャリアについても、価値観も大きく変わる時代に、異質な経験をすることはプラスにできるし、自分自身の考え方も変わります。女性の視点がますます重要になる時代に、主夫を経験することは得ることも多く、自由な立場で海外で過ごせることも貴重です。僕自身、子どもと濃密に過ごしたかけがいのない時間と、第2の人生を一旦リセットしつつ、焦ることなく次の準備ができたことは、とても有意義でした。ジョンレノンだって、音楽活動を休んで子育てをしていたし、世界で最も有名な日本人女性の一人、緒方貞子さんも、主婦をしていました。長い人生の間での特殊な経験は、活かし方次第だと思います。
特に働き盛りの方々は悩みも大きいとは思いますが、ぜひ自分や家族にとって最も望ましいあり方を考え、社会の価値基準に負けずに、家族で楽しく有益に過ごすことを考え、それを信じて過ごしてほしいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?