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サッカー人生の総括

法学部4年 法政大学第二高校出身 曽根崎亮

今回で部員ブログは3回目になります。1回目は、2年生の時に「感謝」について書きました。当時、新型コロナによる長い自粛期間があった際に、普段の環境が当たり前ではないことを実感したため、その想いを綴りました。2回目は、3年生になってすぐに「本気」と言う言葉について書きました。チーム作りに向けて学年で話し合っていた中で、私自身が重要だと思っていた事を言葉にまとめました。
過去2回では、当時私自身が考え感じていたことを書きましたが、今回はそのようなものがあまりありません。また、引退が近づいてきており、20年近くにわたって続けてきたサッカー人生もそろそろ終了します。そのため今回は、私のサッカー人生を振り返ろうと思います。字数制限は設けられなかったので、おそらく長くなります。全て読んでいただけたら、非常に嬉しいです。

サッカーを始めたのは2歳の頃。だそうです。物心がついた時にはすでにサッカーをやっていました。ただ、当時からサッカー中心の生活だったわけではありません。小学生の時には、水泳や公文など他の習い事にも通っていたし、特別何が好きだというものもありませんでした。転機は3年生の頃の区の大会です。準決勝で、右SBとして出場していた私は、たまたまバウンドしてきたボールを蹴っ飛ばしたら、ゴールに入りました。その一点が決勝点となり、決勝戦に進出する事ができました。それまでにも試合で点を取ったことはあったと思いますが、公式戦でチームを勝利に導く得点は初めてでした。その初めての経験に自分自身も驚き喜びましたが、その後の決勝戦では1-5で敗れました。短い時間で喜びと悔しさの両方を味わい、初めてサッカーで心を動かされました。これを機に、サッカーへの意識が変わり、地元のフットサルやサッカースクールに通うようにもなりました。
しかし、それからもあまり試合に出られないまま、AチームとBチームを行ったり来たりしていました。そんな中、5年生の夏合宿でGKになりました。理由は、たまたまGKが一人も合宿に参加できておらず、紅白戦で一回やった時に良いプレーができたからです。ポジションを変えたことで、最初は試合に出られそうでした。しかし、結局は元々からGKをやっていた選手がスタメンとなり、6年生になっても試合には出られていませんでした。ここで試合に出られずじまいでは、全然違う人生になっていたと思います。この後、私はFWとして試合に出られるようになります。当時私は、急激に身長が伸びていました。卒業時には170cm弱あり、当時の区内のチームでは恐らく上から5番目以内には背が高かったと思います。この背の高さを活かしてポストプレーを武器にしたFWに転身しました。自分でいうのもなんですが、大活躍できました。多くの試合に出場し、たくさん得点を取り、チームの勝利に貢献しました。この経験で生まれた自信から、私はサッカーを人生の中心に置こうと決めました。
中学では、地元のクラブチームに入団しました。GKでセレクションを受け、GKとしてこのクラブに入りました。FWは小学生の半年間限定でした。このセレクションを受ける事を決断できたのは上記の自信からでした。それまで選抜やトレセンに入ったこともなかった私にとっては、半ば記念受験ともいえるものでしたが、結果的には合格し、本格的にサッカー中心の生活が始まりました。もしこのセレクションに落ちていたら、この中央大学サッカー部にはいなかったでしょう。サッカーで高校を選んだのも、周りがそのようにする環境だったからです。学校の部活でサッカーをしていた場合は、学業で進路を決めていたと思います。話を戻します。こうして入団したクラブで、1年生の時にトレセンに選ばれ、2年生になる前後の頃には一個上の試合に出させてもらえました。想像以上に順風満帆なサッカー生活でした。しかし、2年生の夏前に初めて膝の怪我をしました。数か月に及ぶリハビリの後、復帰するもスタメンから外されました。それでも腐らずにやるべきことをやり続けました。そうした甲斐もあり、3年生になるころにはスタメンを取り返し、キャプテンにもなりました。しかし、3年生のシーズンはチームとして良い結果を全く残せず、キャプテンという役割の難しさを実感しました。
以上のように、小3で自分の中でサッカーに対する意識が変わり、小6の後半~中1の前半の1年間で、サッカーを人生の中心にすることを決めました。自身が試合に出られるようになり、自信を持つことができた一方で、中学ではチームとして試合に勝つことの難しさを実感しました。そのため、高校ではチームとして勝てるようになりたいと思いました。
高校は、文武両立の可能な大学の附属校を選びました。家から自転車で20分、最終下校時刻まで学校にいても、何の支障もなく過ごせました。ここでは少し、学業についても触れたいと思います。大学サッカーでプレーする皆さんは同じかと思いますが、当然のように試験前も普段通りの練習がありました。強いて言うなら、公式戦等が近くなければ練習時間が1時間ほどに短縮される程度でした。その中で、しっかりと良い成績を取りながらサッカーも本気でできたのは、附属校や家から近いといった特徴のおかげだったと思います。大学の進学は、指定校推薦だったため、良い評定でなければこれもまた中大サッカー部にはいなかったでしょう。話をサッカーに戻します。私は高校で初めて骨折を経験しました。1年生の夏休みの試合で、鎖骨を折りました。全治4ヵ月で、そのシーズンは終了になりました。とはいえ、1年生チームでは試合に出る事ができており、翌年にはAチームに入れそうでした。しかし、復帰後はなかなか良いパフォーマンスができず、一瞬Aチームにいたものの、すぐにBチームに落ちてしまいました。そしてそのあとすぐ、今度は小指を骨折しました。全治3ヵ月。それまで、これだけ長い間プレーできない時間が続いたことは無かったので、とても悔しかったのを覚えています。それでも私は、チームのためになる事や自分にプラスになる事に目を向けて、ひたすら取り組みました。それでも3年生になって最初の頃は試合に出られませんでした。Aチームの控えにまでは上り詰めましたが、同期のスタメンだったGKは私よりセービングやキック力などで勝っていました。しかし、チームの結果が出ていないことが理由で、私にチャンスが回ってきました。もともと、技術だけでは勝てないと感じていたため、チームを鼓舞する事や自身のメンタルを安定させる事、プレーの安定感を持たせる事などを考えながら練習してきていました。このことが功を奏し、私が正GKになってからは、勝てる試合が増えました。必ずしもビッグセーブや素晴らしいキックなどは持ち合わせていませんでしたが、才能あるフィールドの選手たちのハイパフォーマンスを引き出す事ができたのだと思います。結果的に、県リーグで5位の成績を残す事ができ、中学時代に失敗した「チームとして勝つ」という高校サッカーでの目標を成し遂げる事ができました。「5位で勝ちなの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、技術や体力からすれば、そうした実力以上の順位だったと思うので、勝ちとさせてください。
このように、中学まででは個人として、高校ではチームとして、充実したサッカー人生を歩んできました。さて、私は高校に入った時も、大学の体育会でサッカーを続けられるとは思っていませんでした。レベルが高いことを知っていたからです。これまで書いてきたように、チームで圧倒的な存在だったわけではないので、自分の力では入部すらできないと思っていました。そのため、本気のサッカーは高校までだと考えていた高校3年の夏ごろ、コーチから声をかけられました。
「大学サッカーに挑戦してみたらどうか」
その言葉を聞いた時、最初は驚きました。通用するものなのかと。コーチと話しているうちに、必ずしも全員がプロになる世界じゃないし、普通に就職する人もたくさんいる。また、私自身の性格柄、体育会の組織は向いていると思う、という話をされました。附属の大学のサッカー部はセレクションが終わっていたため、指定校推薦の貼り紙を見に行きました。サッカーが強く、学業も申し分ないと言えるような学校は中央大学しかありませんでした。中央大学の話をそのコーチにしたら、総監督と知り合いだから聞いてみる、と言ってくれました。その後、GKはスポーツ推薦が一人しかいないから、もう一人確保したいとのことでした。その後、練習参加を経て入部を認めていただきました。
ここまでかなり長く書いてきましたが、大学に入るまでのサッカー人生はこの通りです。チームの中でAチームとBチームを行ったり来たりするような選手で、目立った能力・技術があるわけではない。そんな事を認識した状態で大学サッカーへの挑戦を決めました。だからこそ、「4年間1試合も出られないかもしれない」という覚悟を持って入部しました。
大学に入ってからは、やはりサッカーのプレー面については、数段レベルが上がっており、なかなか試合に出られませんでした。1年生の時は、Bチームで毎回試合会場までサブGKとして同行するも、1試合も出られずに終わりました。2年生の時は、コロナの影響もあり、試合数が少なかったですが、Bチームで6試合あった中、5試合に出場できました。3年生になってからは、オフが明けてすぐに、アキレス腱の怪我をしました。4~5月頃には復帰できましたが、8月下旬に足の甲の靭帯を損傷し、シーズン終了までリハビリでした。今年に入り、アキレス腱も足の甲も特に問題は無くスタートできましたが、今度は右足首の内側を伸ばしました。癖になりやすい捻挫です。昨年プレー時間が短かった分、最後の年はできるだけ長くプレーしようと思っていた矢先でした。結局、Iリーグ開幕に間に合わず、現在もう後期に入っていて、残すところあと6試合(執筆時)となってしまいました。
試合には出られたので、大学に入るときに持った覚悟ほどの状態にはなりませんでしたが、それでも苦しい4年間でした。コロナで大学生活がかなり潰されたとは思いますが、その分経験できたこともあったので、差し引きゼロです。コロナがあってもなくても、苦しかったのだと思います。特に、後半の2年間は辛かった。プレーしたいのにできないという個人の面ももちろん、上級生になる過程でチーム作りをする中でも、自身が選手として相応しいのか悩む時期がありました。ネガティブ思考な部分もあるので、プレーできない私が幹部を務めるのはダメなんじゃないか、と思うこともありました。というか、ここは今もみんながどう思っているかは分かりません。ただ、大学サッカー生活でやってきたことに後悔はありません。選手としてうまくいかない中でも、チームに貢献できるようにスポンサーや会計の仕事もしました。評価は別にどうでもよく、自分自身の身になったと思えているので、その点については満足しています。また、最近声出し応援も再開され、特にここ数試合ではホームで逆転勝利が連発し、盛り上がりました。サッカー好きだな、と改めて思えました。最後、引退まで頑張ろうと思います。
さて、ここまで長々と書いてきましたが、私のサッカー人生は幸せなモノでした。運が良かったです。小学校の3年生大会で得点できた事。6年生の頃にFWに転身し、活躍できた事。中学でキャプテンを務めた事。高校でスタメンを取り返したこと。また、コーチから大学サッカーを薦められたこと。こうした一つ一つの出来事が、現在の私を形作っています。社会に出る直前の大学まで、ずっとサッカーをすることができ、とても幸せです。これまで私を支えてくださった、全ての人に感謝を申し上げます。特に、サッカーを始めるきっかけを与えてくれ、長い間にわたって支えてくれた両親には、感謝してもしきれません。ありがとうございました。
引退後ですが、しばらくサッカーからは離れようと思います。だからこそ、あと1ヵ月のサッカー人生、本気でやりきる所存です。なんとか怪我をしないように、気を付けたいと思います。
改めて、この20年間私と関わり支えてくださった方々、本当にありがとうございました。

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