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「僕はまだ、サッカーを続けています。」4年 持田温紀

僕はまだ、サッカーを続けています。
4年 法学部 持田温紀

高校生の頃、僕のサッカー人生は終わりを告げた。もう二度とサッカーに関わることはないと思った。そんな僕はまだサッカーをしている。こんな素敵なサッカー人生、なんて幸せなんだ。そんな気持ちに導いてくれた中央大学サッカー部との歩みを記していきたい。

サッカーができなくなった僕が中大サッカー部に入部した

高校生の頃の事故で脊髄損傷となり車椅子生活になった。
11年間サッカーを続けてきた僕にとって、サッカーどころか自慢の脚が言うことが聞かなくなったことに無力な気持ちになった。
サッカーが大好きだったから「深く」落ち込んだ。
でもそこから「前を向く」きっかけになったのもサッカーだった。
かつてのチームメイトが千羽鶴を持ってきてくれて、
週末にベッド上のテレビで見るサッカー中継が励みになって、
入院中に外出するきっかけになったのもスタジアムに行くことだった。
サッカーができなくなったはずなのに、サッカーへの愛は深まるばかりだった。
やる気が起きなくて、孤独を選んだ時期もあって、高校は1年留年したけど、受験生の頃に指導いただいた先輩に憧れて中央大学に入った。
でも入学した時はコロナ禍が真っ只中だった。
そんな時、後期の授業としてJリーグのフロントスタッフの方々が講義を行うJリーグビジネス論が開講された。
他学部の授業であったがどうしても受講したいと渡辺岳夫先生にメールを送った。先生は僕のサッカーへの思いを感じ取ってくださり、「私は中央大学の血が流れている男だ。君がやりたいことがあるのなら、君のためにいくらでも力を尽くす。」と言ってくださった。先生は、コロナ禍を通してサッカーを通して影響力を与えることのできるチームになっていこうと歩み始めた頃であったサッカー部を紹介してくださった。

そうして出会ったサッカー部の当時のコーチである、としろうさんと大我さん。中大サッカー部というプラットホームのビジョン「Dreamer and Doer(夢追うものであり、実現するものであれ。)」に大きな感銘を受けた。「持田くんにとっての夢は、僕らチームにとっての夢にもなる」
その一言が安心できて嬉しくて力になった。
皆が挑戦する環境に身を置きたいとサッカー部への入部を決めた。
当時の中大サッカー部は
それまで基本的に選手・マネージャー以外は部員として認められていなかったが、コーチの方々の尽力で部則を変更してもらって入部できた。
信じてくれる人たちのもとで頑張りたいと思った。
暗闇に光が差すように楽しく思えてきた。
ボールを蹴ることができない自分がどうやったらチームの力になれるのか。
中央大学サッカー部のみんなが優しいから僕は入部することができた。
でも外から中央大学サッカー部は優しいから車椅子の子を入部させてあげたと見られるのは嫌だった。実力があるから歴史ある中大サッカー部の一員なんだと思われるような部員にならなきゃいけないと思った。信じてくれたみんなに感謝を返したくて、ボールを蹴れなくてもチームのエースになれる方法を探した。
入部当時聞いた事は、中大サッカー部が資金面の改善の必要が急務であること、所属する関東1部リーグの中で中大だけがスポンサーがないこと。
そして、コロナ禍の社会の中での人々の顔色が、入院中に落ち込んでいたときの自分と似ていることを感じた。
自分がするべきところはここかなと感じた。
パートナーとなるスポンサーと結び応援してくださる方々を増やすこと。
自分がサッカーで勇気をもらったように、次は自分がサッカーを通して人々に感動を共有できるようにと。
2年生の時の最終節。
引き分け以上で入れ替え戦プレーオフ出場が決まる一戦。残り1分で同点に追いついた。決まったと思った。でも、ラストプレーで失点した。
もしも余裕のある差で負けていたとしたら、何も感じていなかったかもしれない。でも本当にあと僅かな差だったから、自分がもっと努力していれば結果は変わったかもしれないと悔しさが込み上げた。
そこからたくさん動くようになった。
地域でのサッカー教室で逆に元気をもらった子どもたちにお礼を伝えたいと思って、駄菓子屋さんとコラボしてつくったプレゼント。それをきっかけとした繋がりから、初めてユニフォームにスポンサーをつけることができた。
最初は先輩と合間を縫って放課後や昼休みの時間に向かった学校や児童館の訪問。今では授業を担うようになりたくさんの選手が率先してくれる。
小学校に行った時、1年前に部で主催したサッカー大会でプレゼントしたTシャツを着て出迎えてくれたり、1年後にランドセルの内側にずっとサインを入れ続けてたんだよと子どもたちが見せてくれた時は満たされた気持ちになった。
最初の頃は伝え方がうまくいかず選手に協力してもらえることも少なかったけど、サッカー教室への参加をきっかけに魅力に気づいてくれた選手が、その後も来てくれたり一緒に地域誌に載ったり、J内定記者会見で保育園や小学校訪問などサッカー外での活動もできたことが中大サッカー部に入ってよかったことと話してくれた時はすごく嬉しかった。
今は熱い思いを抱く後輩もたくさん入ってくれて、今シーズンの中大開催のホームゲームには500名近い観客が集まった。
新スタッフ陣も加わり、中大に集う力が大きくなった昨シーズン。
優勝を目指すと掲げた中で開幕3戦勝ちなし。
1戦目の前日の練習でチームに
「みんなとサッカーができたらどんなに楽しいんだろうと夢に見る。
どんな相手にもボールを繋いでゴールを奪って勝つ。そんな中大スタイルが好きで、そのスタイルで勝つところを信じてる」と話をした。
翌日6得点で快勝した時は本当に嬉しかった。
終盤は一戦も落とせない状況から1連勝。最終節で優勝と昇格を決めて1部復帰を決めた。

UNIVAS(大学スポーツ協会)の年間表彰式、UNIVAS AWRDS 2022-2023にて。僕のこれまでの取り組みを評価していただき、「サポーティング・スタッフ・オブ・ザ・イヤー」にて最優秀賞を頂いた。
運動部を支える学生スタッフに送られるこの賞ではあるが、
実際のところは僕自身が中央大学サッカー部のみんなに支えられていたと感じる。
表彰式の壇上で最優秀賞を伝えられた時、これまでの苦労と感謝思い浮かんで涙をこぼすことを止めることでいっぱいだった。
何より、車椅子になった僕が車椅子に関係なく、サッカー、スポーツの世界で評価されたことが嬉しかった。

全国大会を決めた筑波戦にあった秘話

今シーズンはとても苦しかった。
開幕8戦勝ちなし。リーグ15節終了時まで勝ち点わずか8。
それでも、終盤の追い上げで残留できた。
なかでも、中大にとって10年ぶりの夏の全国大会となる総理大臣杯への出場を決めたアミノバイタル杯筑波大学戦は忘れることがない。
当時リーグ11位の中大と首位快走の筑波。
勝った方が全国、負けた方は敗退となる一戦。秘話がいつまでも隠されたままだともったいないのでこの機会に明かしておきたい。
終始相手ペースの試合ながらもしぶとく戦い110分の激闘で決着がつかず迎えたPK戦。
中大は前の試合で、勝利目前も後半アディショナルタイムに失点し、その後PK戦で敗北して、苦い思いを抱えたその週の試合だった。
この日のPK戦は中大の応援サイドで行われることとなった。
僕は応援席でその日、応援の中心を担っていた兼三(4年・影山兼三)と直樹(4年・加納直樹)の近くにいた。

PKの守備時のときは、応援団は相手のキッカーの集中を妨げるために通常はブーイングをする。
でも、彼ら二人の会話で、この日はキャプテンのキーパー猪越(4年・猪越優惟)を集中させようと、あえて沈黙を作ることになった。
中大、筑波それぞれが決めあって迎えた3人目。
先攻の中大で健(4年・牛澤健)が豪快に決めて全力で吠えた。
盛り上がる中大応援席。

「そろそろ猪いっとく?」「いこうか」
そんな彼らの会話を経て、ここで「漢、猪越」の応援歌。
「さあ、見せるのさ、その力」
何がなんでも全国に行きたい。この日、最も最高潮の応援。守備側であるはずの中大に雰囲気がきた。
このPKを猪越が止めた。
そして中大は決め続けて、最後決まれば全国大会となる5人目の
僕は緊張で見ることができず目を閉じていたが、みんなの喜びの歓声で勝利だと気づいた。
これまでトップチームの力となりながらも怪我で出場が叶わなかった二人の会話から生まれ、中大全員の全力応援で流れを変え、キャプテンが応える。
ワンプレーで昇格を逃した経験はあれど、ベンチ外も含めてチーム全員の力が必要とは言っても、結局試合が始まればサッカーはピッチ上の11人で決まるものだと思ってた。でも、本当に、最後までチーム全員の力がサッカーには大事なんだと知った。
素敵なチームで気づいた最高の瞬間を一生忘れることがないと思う。
一戦も落とせない状況からの終盤の7連勝での優勝・昇格。
全国を決めた筑波戦。負ければ残留がほぼ消滅するアウェー国士舘戦。勝つしかない最終節。最後の試合となった入れ替え戦プレーオフ。
勝てない時期も続いたけれど、こうして本当に本当に大事な試合には勝つことができてきたのは、LOVE中央に代表されるようにチームへの愛がチームとして強かったからだと感じる。

ワールドカップのピッチにたどり着いた

中大サッカー部での経験を通してサッカー愛がさらに溢れるようになった僕は、ワールドカップを現地観戦するため、昨年ひとりプライベートでカタールへとと飛び立った。
ワールドカップでの日々は本当に楽しかった。
到着早々宿が無かったりと大変だったけど、人種、国籍、宗教を超えて人々が笑い合う。世界で最も愛されるスポーツとしてのサッカーの魅力を感じた。僕はワールドカップが創り出す平和な世界の虜になった。
ご存じの人も多いかもしれない、僕はワールドカップのピッチにたどり着いた。
車椅子生活が続くようになったちょうど5年後の日、僕はスタジアムに到着後FIFAを名乗る方に突然声をかけられてコスタリカ戦でワールドカップのピッチを目の前にした。
そして続くスペイン戦の際もFIFAの方に声をかけられて、この日はピッチに入場した。 最初は選手から少し離れたところにいたが、いざ君が代が流れる瞬間、奇跡が訪れた。キャプテンの吉田麻也選手が一緒に歌おうと声をかけて車椅子を引いてくださり、僕は日本代表選手と並び方を肩を組んで国歌斉唱をした。幼き頃に夢に見たワールドカップのピッチは夢よりも輝く場所だった。このことの詳細はぜひ僕のnoteでも読んでいただきたい。
https://note.com/motchy_soccer/n/nfee91c276f80
中大サッカー部に入ってなかったら僕はワールドカップに行っていないだろう。
みんなとの出会いから、どんどん自分に自信を持てるようになって、もっともっと前向きに挑戦したいと思ってカタールへと飛んだ。そしたらあの瞬間に繋がったんだ。
もし中大サッカー部に入っていなくてもカタールに行っていたとしても、
ワールドカップのピッチの瞬間があんなにも心に残るものになったのは、
中大サッカー部で過ごせた時間があるからなんだ。
だから、みんなに溢れるほどの感謝を伝えたい。

たどり着いた8年ぶりのピッチ

もう一度サッカーをする。
これはサッカー部入部を決めた1年生の時に掲げていたことでもあった。
500日の入院も、何千時間にも及ぶリハビリも、たくさん努力してきたけど、今の僕は車椅子だ。
ただ、ピッチに立つことは僅かながらに常に目標にあった。
大学でサッカー部に入っている中で、みんなと少しだけでもサッカーをしたいという思いがあって、今年は関西に通い、ピッチに立つことを掲げてリハビリに取り組んできた。
中筑定期戦を迎える週、関西でのリハビリの調子が良かった。
少しピッチに立てるかもと思った。
とは言っても、多くのみんなにとっても引退試合である試合の時間を邪魔したくないなという気持ちがあった。
ただ、みんなに相談すると、「一緒に出ようよ!一緒に引退しようよ!」と返してくれた。
みんなのおかげで、サッカーをプレイしていたころにつけていた背番号18を背負ってメンバー入りした。

試合当日、僕が出場することを伝え聞いた、筑波大学の2軍キャプテンとマネージャーの方々から「今日ゴールを決めませんか」と提案があった。
僕自身、ベンチ前で少しピッチに入るだけでも十分と感じていたが、みんなに促されてゴール前でピッチに入ることになった。
8年ぶりのピッチ。
出場前に目を閉じると辛かったことも嬉しかったこともたくさんのことが蘇った。
そしてピッチに入って、ゴール前へ。
緊張してあまり動けず上手く蹴れなかったけど、8年ぶりのゴールになった。

これまでのリハビリの努力が報われたように感じて嬉しかった。
そして何より、喜んでくれるみんながいるという状況が本当に幸せだった。
車椅子になってサッカーが遠のいて、孤独を選んだ時もあった自分にとって、今の状況が当たり前ではなくてどれほどかけがえのないものかを知っている。
こんな素敵なチームのみんなの中にいることが心に沁みるほど嬉しかった。
僕は、この日、この瞬間が、人生で最も幸せな時間だった。
もう一度サッカーをしたい。それは中大サッカー部とだから叶えることができた。
一人で見る夢はただの夢でしかない。でもみんなと一緒ならその夢は現実になる。そんな言葉も思い出す。

この瞬間を創ってくださった全ての皆様に、溢れる感謝をお伝えさせていただきたい。

サッカー部への思いを込めたダンスでの世界挑戦

みんなの熱いプレーを見て、僕も選手として挑戦してみたいな。そう思った僕は今年ダンスを始めた。
でも僕はダンス歴もなければ音楽センスもなかった。
だからものすごく上手くいかなくて苦しんだ。
国際大会への選考会を控える中、楽曲選考の過程の中で様々な曲を候補に挙げた。好きな曲、リズムに乗りやすい曲、人気のある曲。

様々迷ったけれど、最終的に一番思いの溢れる形で戦おうと決まった。
思いの溢れる形ーこれまでの出会いと支えへの感謝をダンスに込める。
そう思って選んだのがSUPER BEAVERの「ひとりで生きていたならば」という楽曲だった。
「ひとりで生きていたならばこんな気持ちになれなかった。
 予想をはるかに超えていく嬉しさを知っているのさ」
この歌詞を聞く時、僕はサッカー部のことを思い出す。
苦しい時期はあっても、みんなで掴んだ優勝、全国大会。
8年ぶりのピッチのことも。
中大サッカー部に入ったから見える景色があった。
そしてその景色はみんなと一緒だから見ることができた。
それは、美しくて爽快で涙が出るほど嬉しいものばかりなんだ。
代々木第一体育館で行われた国際大会。当日ミスで途中からアドリブになるハプニングも、熱さが溢れて体が自然と動いて、海外の選手と渡り歩きまさかの入賞に繋がった。
そしてその結果を通して、今年4年ぶりの開催となったパラダンススポーツ世界最高峰の舞台、World Championshipsの日本代表に選出され、今年イタリアでも戦った。
競技は違えど、ワールドカップの出来事から1年後、ワールドチャンピオンシップの舞台にたどり着いた。
今僕は「世界で最も笑顔と感情を溢れ出すパラダンスアスリート」を掲げて戦っています。

サッカー少年の頃の夢であった、
ワールドカップのピッチに立つ、海外で選手としてプレーする。
この二つの夢をサッカー部に入った先で叶えることができた。
きっとダンスもサッカー部に入っていなかったら始めてなかった。
サッカー部のおかげで予想もつかない景色を見ることができました。

僕はまだサッカーを続けています。

サッカー部への思いを語ったらあと24時間は余裕で話せそうです。
車椅子になってサッカーを諦めた自分。
でもボールを蹴れない自分でも受け入れてくれたサッカー部のみんながいた。おかげで今の僕はたくさんの夢を描くことができている。

中大サッカー部への入部。
昇格。優勝。残留。全国大会ベスト8。
サッカー部を通した活動の先々。
学生スタッフでの大学スポーツ界最優秀賞。
夢だったワールドカップのピッチ。
戻ると誓った8年ぶりのピッチ。
選手として戦った世界最高峰の舞台。
第二のサッカー人生。
まさかこんなに広がるとは思わなかったサッカー人生。
本当に予想を遥か超えていく嬉しさを知っている。
ああ、なんて幸せなんだろう。
たしかに、今の僕は大好きな緑のピッチでは自由にサッカーができない。
でも今の僕は、
素敵な出会いとたくさんの方に支えられてパスをもらって、
時に自分で努力してドリブルして進んで、
結局は「人生」というフィールドで
僕はまだ、サッカーを続けているんです。
さぁ、次のゴールを決めに行こう。

自分らしく生きなきゃな。そう感じた僕は4月からの予定を全くの白紙にしました。今の僕はまたハングリーです。
オーLOVE中央。
歌え中央愛するなら。
決めろ金茶の男なら。
この年に生まれた応援歌がずっと歌い継がれて中大のグランドに来たときに愛を思い出せる瞬間になることを願ってます。
同期、先輩、後輩、スタッフの皆様、中大サッカー部に関わる全ての方々に大きな感謝を込めて。みんなみたいに寄り添える人に僕もなっていけるように。LOVE中央。

◇持田温紀(もちだはるき)◇
学年:4年
役職:事業本部
出身校:桐蔭学園高校


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