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かぐやSFコンテスト最終十一作品の感想

かぐやSFコンテストの最終候補十一作品を読んでの感想です。
うしろから読んでます。
ネタバレなどは気にせず書いているのでお気を付けください。
あくまで感想です。きっといろいろ的外れです。
基本的にポジティブに読みます。物足りなかったらごめんなさい。

「いつかあの夏へ」

ポストアポカリプス系の作品はそのジャンル自体が嗜好に刺さるので気を付けないと手放しで「素敵……」しか言えなくなってしまう。いや、でも、素敵……
前半ではグループ学習を通してキーとなる「トウキョウボタル」絶滅の真相を追う。後半では次第に、主人公たちのいる「未来」の全貌が明かされていく。本作においてホタルはビジュアルの補強や、後半の展開を隠すにあたって主人公たちそのものの関係性から目をそらすアイテムとして使用されるが、その一方で(これは図ってのことだろうか)「興味を持ったなにかにこだわり続け、その過程が主人公たちにとっての代え難い経験として美化・蓄積されていく」という青春小説のテンプレートをしっかりと踏んでいる。その点で本作は「SFのテンプレートで青春小説を書いた」というよりも、「青春小説の構造をもって、時間軸をSFと呼んでそん色ないレベルまで引き延ばした」という印象が強い。

ところでこの「何かにこだわったひと時」へのノスタルジーは、現行社会で”大人”になるにしたがってそういった経験が乏しくなっていくことと、密接であるような気もする。一方本作ではアカデミックな視点や取り組み、興味関心に一貫して肯定的であり、質の良いアカデミズムが形成され得た未来ととることができる。でははたして、数百年の未来にあっても、教育の形が今と全然変わっていても、学校と言う場で年齢という枠をも取り払われたとしても、前述したようなノスタルジーを感じることは可能なのだろうか。本作で描かれる登場人物の他にはどんな考え方の人たちがいるのだろうか。興味が尽きない。

もう一つ気になるのは「情報層階」の存在。本作では多様性が確保され、学ぶことが推奨され、学究の人間が一読すればある種の理想郷のようなものが築かれている様にも見えなくない。ただその中にあって知る権利だけが厳密に制限されており、そこには(それが人なのか意志なのか仕組みなのかは分からないが)より”上位の存在”を感じざるを得ない。また本作の世界観は一言も「平和」であるとは言及されず、ただ一度「安定した生命の楽園」と記されるのみである。この「安定」という言葉にも、何者かの手が加わる様なニュアンスが感じ取れる。作者さんがこの楽園を文字通りのユートピアとして見るのか、そうでないのかは気になるところです。

「よーほるの」

テーマが「未来の学校」に決まっているのだから、その枠の中で書かれる作品に必ずしも「未来」が明確に示される必要はないんだな、と言うことを改めて確認した。短い字数制限の中、必要とされる説明はなるべく外部(賞のカラーそのものや読者の読み)に委託して、その分風景描写をのびのびと出来るこの作者は手練れだなと思った。テーマのある公募の作品を自分の得意なフィールドに引きずり込む術は勉強になるところが多い。
また、(最初に読んだ「いつか~」が未来と現在の間に断絶を意識しているとすれば)本作では物理的な教室の存在、先生という役割、よく知られた部活動の存在、級友との会話などがほとんど現代の学校と同様で、それゆえに後半の展開が活きるのは当然として、「別に”現代と違う学校”を書かなくたっていいんだ」勢が最終選考まで残ったことがなんだかうれしい。
さて衝撃の展開だけれど、僕は前述のこともあり、SFというよりは幻想小説やファンタジーに近いものとして受け取った。本作で生徒たちが「溶けて」しまうことについて、厳密な裏設定を作者が考え伏せているという匂いがないのも手伝った。この「溶けて個体としての形を喪失する」展開を、もし自他境界の問題だとか同調の問題だとかに還元してしまうと、それは割かし使い古されたネタのような気もして、本作の魅力を十分に掬い取れない気がする。それよりむしろ「学校」という集団生活環境の内外において、外側のあれこれがよく見えなくなってしまうことへのくすぐったさというか不思議さを中心に読むと、どこか共感できるところもあるし、溶けないにせよ近い感覚を覚えた経験も思い出される。思えば学校に通っていた頃は学校が(家を除いた)社会や世界のすべてであるような感覚だったし、教室でしか会わない友人や先生が、その外でも教室で見るような形を保っているのか、そもそも存在しているのか、一切が不定と言う感覚もあった。人によって経験はまちまちかもしれないけれど、この感覚は割と共通なのではないか。人が自分の見ていない所でも独立しているということが、身体の底から分かるようになるのは、もっとずっと後のことだったように思う。

「リモート」

すっごいな。ぞくぞくした。この展開は全く思いつけなかったし予想できなかった。渋いな。燻し銀だ。すごい。こんな上手な書き手が世に潜んでいるなんて……
気を取り直して、ここまで読んだ三作品では共通して「後半に真相が明かされる」展開をとっているけれど、その点に限って言えば本作が最も巧みであるように思う。巧、と言うのは作品の良し悪しや強度の話と言うよりも、その展開を採用するにあたって作者がどれだけ自覚的であったかという話に近い。本作では後半に明かされる展開によって読者の見ていた世界観がだだ一変するだけではなく、その作品そのものについて「読者が予測した仮のテーマ性」まで覆してしまう。
まずタイトルがいい。候補作一覧の中に「リモート」という単純な言葉を見つけて「ああ、未来ね、リモートね」と勝手に高をくくった読者は多いはずだし、その展開に作者はある程度自覚的だったのではないかと思ってしまう。そこで一度読みを変えられた読者は、二度はないだろうと警戒心を少し解いてしまう。
作中に展開される「障がい者や登校困難者のためのアバター授業」というのは現時点で注目されている技術でありるからイメージしやすいし、それについての議論を読者は半ば肯定的に受け取ることになる。「障がい者の社会参加と差別問題」と一度思ってしまえばそこから読みを外すことはなかなか難しい。なぜならそれは「いかにも小説のテーマとして扱われそうな話題」だからだ。対して存在の問題はちょっと扱いが難しいので、一読目にはその問題を「そういう議論もあるよね」と流して、無意識的に作品解釈から外してしまう(僕が馬鹿なだけなのかもしれない)。
父親の行動原理についてはある程度の誘導がなされているが(行方不明のくだり)、そこを感傷でもって長引かせず、ボタンを押す描写でしめるラストにはしびれた。「父親はこういう気持ちだったのかな」と議論することは野暮だと思わされる。手紙と言う形式も相まって、主人公が自分を「僕」と称するのはラストの二回だけで、その二回が「これは僕の物語なんだから」と語り掛けてくるようでもある。

「次の教室まで何マイル?」

「そろそろこういうのが読みたい」と思ったところで「こういうの」が来た。めっちゃ面白い! 端から端まで。この「焼けくそ」感はたまらない。癖になる。想像だけれど、書いていてめちゃくちゃ楽しかっただろうな。こっちも読んでいて楽しくなった。
モチーフの使い方を心得ておられる。「ゾウ、凶暴化したアライグマ、ポスドク、野良センセイ、壊れたヨウムイン」とこの並びを読むだけでもうワクワクする。こと、説明や修飾語なしに、ただ現れる「ポスドク」がいい味出してますね。ポスドクが出てくるだけでちょっと面白いことを知っておられる方だ。イメージとしては筒井康隆『虚構船団』を連想したが僕は筒井康隆の熱心な読者とは言えないのであまり突っ込んだことは言えない。
あとキノコの展開も好き。何でキノコの種類ちょっと詳しく書いてるんだ。ところで「壊れた用務員」は別作品のタイトルに入っているがまさかの二作通過なんだろうか。
終末以降ものだと「いつか~」のようなしんみりするものが(僕の中では)第一に想像され、次に丁寧な筆致の日常物が思いつく。のだけれど、本作くらいはっちゃけてもいいんだな。想像力は無限だな。広い。
翻ってうがった読みかたをするならば、真面目な作品が多く応募されたと思われる本大会において、テーマ性だの切実さだのといった細かいことに執心せず、自由な発想の一点で殴り押し通すような作品を出すのは相当勇気のいることだろうと思うし、それにしてもSF的な(僕はSFをあまり知らないけれど)要素はしっかりと抑えられているので、元々SFを中心に書いてらした方なのではないかとも思う。変な気おくれや自信の無さがと無縁だからこそののびのび感も感じる。だとするならば、もう一発、もう一発殴って欲しかった感じもする。欲しがりなので。まあこれでSFをあまり書かれたことのない方だったらそれはまたすごいことだけれど。

「壊れた用務員はシリコン野郎が爆発する夢を見る」

壊れた用務員が流行っているのだろうか。SF界隈にとって用務員は壊れるものなのだろうか。それとも同じ作者さんだろうか。モチーフの作り方には共通がある一方で文体は、ですます調を除いても少し違う感じがするし、物語展開の作り方も少し差があって、判断が難しいですね……
創造主がいなくなった後にも機械が動き続けるというモチーフの作品はきっとずいぶんたくさんあって、それゆえに扱いが難しい気がする。本作が使い古されたテーマにどっぷりつからなかったのは、十枚以内という短さのせいなのか、作者が意識されたのか、そこが気になるところ。
吾輩口調の教師の傲慢さと用務員と言う立場との力関係はややステレオタイプだがその分とっつきやすいのかもしれない。用務員差別みたいなものは現在もあるのだろうか。僕の経験で言えばそういうシーンに出会わなかったので、本作における用務員と言う立場故の心の動きや、そのモチーフを選択した過程にはピンと来ない部分もあった。逆に、非正規雇用の臨時職員がみなしで正規の仕事をやらされ、待遇も少しずつ改善されていく中、双方に別な不満がたまっているという話は周囲からちらほら聞くので、用務員が教師を作るという展開は皮肉っぽくて面白いなと思う。役割は相補的に全体を為して、それゆえ個々には必ず押さえられているところがあるものだが、本作では人が滅んだ後においても、人類の残した役割必須の価値観に縛られ続け、それを溶かしてしまおうともがく者たちが描かれる。主人公の用務員は教師になりたいと様々に画策するが、その反面、声を出さないもの達を生徒役に絡めてしまうことには最後まで無頓着だ。彼がもし学校を出る日が来るのならば、そうした役割意識に根差した価値観や夢はどのように変質するのだろうか。軽い筆致の中になんだか悲しさの滲む一作だった。

「祖父に乗り込む」

遠未来が長く続いた後の近未来、楽しい。
一貫して人間関係のあれこれに敏感な一方で、表面ではリアリティについても字数を割いているのは、主軸が遠隔の授業より祖父の喪失に寄っているからだと読んだ。
中盤あたり「祖父が学校で一言も話さないのは私のためだ。」という台詞から明確に祖父の存在感そのものが消滅していく。主人公が今祖父に乗り込んでいるんだという認識を、読者はだんだん忘れていく。対して同級生のタマキの存在感は増していく。祖父がどうして孫に強靭な肉体を与えたかったかと言えばもちろん学校へ行かせるためかもしれないが、その先に見すえた目的は決して「みんなと同じ」経験をさせることではない。本作では主人公の内面描写で「リアル=普通」が相対化され、対立することなく溶かされていく。その展開自体が、そこ(リアルーバーチャル、正常ー異常の二項対立)に本質は存在しないと語るようだ。
学校での経験を一通り終えた主人公は、逆説的に「祖父とずっと一緒に入られない」ことに気付いて行く。そこに同級生のタマキがいることがとても心強い。対して祖父の人格の存在は思い出語りのように遠のいて、(文章上では)消失していく。祖父が自らの身体を狂気に染めてまで目指したかった展開はこれではないかと思う。この主人公ならきっと、いつか真に祖父の喪失を経験したとしても、そこに必要以上の絶望を感じることはないだろう。本作はそういう、橋渡しみたいな物語だったのではと思う。

「あれは真珠というものかしら」

伊勢物語、高校の古典の授業で扱ったな、懐かしい。
そこから拾い上げたタイトルがことのほか美しいので、候補作のタイトル一覧の中ではよく目立っていた。
本作を読んだ時点で、まだ半分くらいしか候補作を読んでいないけれど、後半にどんでん返し的な種明かしを持ってくる作者さんが意外と多い。SFというジャンルの特性なのか、4000字という短文の中で物語を立ち上がらせるための工夫なのか、その両方かもしれないけれど、あんまり多いものだからここに来て慣れてしまって、構えている分ちょっとびっくり感が薄れてしまったのが申し訳ない(僕の読み方の問題なので)。
けれどもだからといって魅力が半減するという事もなく、本作で言えば展開の妙よりも語りの上手さ、キャラクタのバランスのとり方、モチーフの扱い方がひとつひとつ丁寧なので、読んでも読み返しても心地よく好ましい。
タイトルでも言及される『伊勢物語』の「芥川」との関連で言えば、別れを告げることなく去ってしまった主人公を、残された二人がどう心に落とし込んでいくのだろうと想像するが、主眼が残された側ではなく先に旅立ってしまう側にあって、そのうえで気楽にもう一度会えることを想像する展開がおもしろいし、やさしい。
やさしいと言えば本作ではネガティブな事情がほとんど出てこないのも特徴的だと思う。かつての動物の利用こそマイナス面を匂わせるが、それも議論と必要性低下の上に廃止されており、それを廃止させ得るだけの力と善性が作中世界にまだ存在していることを思わせる。知能のあがった登場人物たちについても、そこに生まれたかもしれない葛藤や自己否定はなく、泰然として現状を受け入れている。それが良い事かどうかの判断はできない(判断材料がとても少ないので)。SFの賞の、未来というテーマ縛りの中で、こういった善性に基づいた作品が書かれることも評価されることも、それ自体が一つの希望のように思う。

「子守唄が終わったら」

一転してガチガチハードな小説だ……!
どう読めばいいんだろう。「冷戦時代のディストピアSF」のテンプレートをこてこてに使うことで現代社会を批判した小説、と取っていいのかな。ちょっと違うか。ちょっと違うな。とにもかくにも良い意味で、自分の中にある「SF的なもの」にもっとも近い作品だった。
氷河期の言葉遊びも、世相に合ったネタも香ばしくて、ああこういう作品が一つは欲しかったとちょっと嬉しくなった。ここまで読んできた中で初めて、明確に「(悪い意味で)人間は変わらない」と言い切っている。書くにあたっていろいろ考えを巡らせてしまう人が多い(と思われる)中で、本作はとても潔い。
主人公の人生は百年以上の単位で引き延ばされており、そうなると主人公の人生観は未来に希望を見出すような現代人の感覚とはいささか異なるのではないかと推測される。主人公にとって数百年は到達可能の未来であり、目を覚ますたびに現れる、これまではなかった技術なり文化は、実現のわくわくを失って、ただ早急に対処しなければならない目前のタスクへと矮小化される。本作に登場する「精神感応」なりの技術を、僕らは遠い未来のこととして想像の中で楽しむが、主人公にはそれが出来ない。また未来の概念が現実と違っている作中世界において「安定した仕事を見つけ、できれば家族を作って朽ち果てたい。」という主人公の願望も、現実で時たま耳にする「小さく幸せに死にたい」系の願望と同列で語ることができない。この断絶がなんだかとても痛い。

「Moon Face」

物語として綺麗にまとまっている。登場人物たちの役割がそれぞれにはっきりしていて展開を追いやすい。テーマもはっきりしていてかつ普遍的。突飛な発想が多い候補作(そしてきっと落選作も)の中にあって、発想の飛躍よりも小説そのものの上手さでここに立っているような印象を受けた。
ここ数十年の人類はわりかし、見栄と競争のために月を利用してきた節があるから、月にロケットで向かうという展開自体かなり利己的なイメージと合致する。月は夜光るが反射光なのでそれ自体が光っているわけではないし、そこに向かうまなざしがいつも一方通行だと感じるのも共感できる。
翻って、最終的に自らが月(のようなもの)になった主人公に、相手の「恥の気持ち」が手に取るようにわかるという展開は難しくも興味深い。初め、月男(ツキオトコ? ツキオ?)の実際には明確な意思などなく、ただ関わる人の願望なり自意識を反射して見せているだけの、鏡のような存在かと予想して読んだのだけれど、どうもそうではないらしい。作者さんはこの月男をどういう存在として描いたのだろうか。まだ読み切れないところがあってもどかしい。他の方の感想なども聞きたいところ。
また「学校」を中心に据えずのびのびと書かれているのもいいですね。主人公は後半、月の学校で教える立場になるが、自身は月男や祖母や浮浪者や、学校の外の関りから学んでいるところが(遅すぎたにしろ)多い。作中での学校は一貫してシステマティックに無機質なものとして、それもあっという間に消し飛んでしまう。意識をして書かれたのかは分からないけれど、そこら辺の展開が皮肉っぽくて好きだった。

「未来の自動車学校」

発想の勝利ですね。みんなそうか。でも特に。
教習の教習って実際にあるんですよね。教習に限らずとも、教えることと同じかそれ以上に、教え方を教えるのは難しい。自分の話になるけれど、以前学習塾講師のバイト面接のとき、先生が生徒役になって(しかもかなりすんなり勉強してくれない生徒と言う設定で)教えるという実習みたいな試験を受けさせられた。生徒(役の先生)は寝るし、ペンを持たないし、屁理屈を言って時間を伸ばそうとするしで大変で、経験の少ない当時の僕は心の中で(こんなやついるものか)とぼやいていたが、勤めてみると実際大多数がそうだったのでびっくりした。
本作でシミュレートされている数々、マンホールから人が飛び出したり、運転手がダイナマイトを持っていたり、支離滅裂にヨーグルトの話を始めたりということも、茶化してはいるけれど無いとも言い切れない範囲に収まっているのかもしれない。
ところで本作の展開も盛り上がりのバランスも、全文台詞の掛け合いも、勢いで書いてあるかと思いきりゃかなり精緻に作られていて(そりゃろうか)、ちょっと簡単には真似できない。終わり方のすっぱり感も心地いい。これいじょう長引くとだらけるし、短いと物足りない、絶妙のところで切れている。漫才とかよく見られる方なのだろうか……

「Eat Me」

じつの身体が解体されていくところがとても詩的で美しい。
何かと一つに溶け合う様な指向性を持った物語は数多あるが、毎回どうにもハマらなかったりするのは僕が個としての生に満足しているからで、そうでなければまた違った感慨が生まれたのだろうか、と思うことが多い。本作についてはハマらない、と言うことはなく、美しい文体がそうさせるのか、引き込まれるように読んだ。
本作で描かれる図書館はとても理想に寄っている。じっさい、現在の図書館では新しい書籍を入れるために古い書を手放しているし、職員やシステムの目の届かないところがしっちゃかめっちゃかになって訳が分からないままノウハウが失われたりという事もままある。予算の都合や外部からの注文、規範の押し付けなどで購入書籍を選別することも多く、結果、必然性や効率、生産性の影響を少ななりとも受ける蔵書は思いのほか恣意的だ。そのポンコツ具合とか、新陳代謝で捨てるもののあるところとかがむしろ有機的と言うか、人間臭くていいなと思う。図書館は愛すべき、完ぺきになれない集合知という感じがする。
一方本作における図書館は(AI技術の発達によって容積の際限がなくなったからだろうか)、「ありとあらゆる情報を咀嚼し、消化し、己の内へと取り込む」。それも機械的な処理のみで行われるわけではなく、ひとつの意志を持った(その癖に”完ぺき”な)総体として描かれる。逃げ込んだ者を包み込み、訪れる者を見守り、同化しようとする者を拒否せず受け入れている。それはある意味で理想的だが、同時にとても非人間的でもある。そこが本作を強くしている。自らの身体を捨ててまで図書館に同化する主人公の、その献身への抵抗感の無さの裏には、もはや個として居場所を確保するのが困難な(人たちが存在する)社会や、同化に批判無しに賛同してしまう風潮が垣間見える。
本作に描かれるような図書館を形作れる一方で、主人公を図書館との同化に至らしめる社会構造を克服し得ない世界とはいったいどういうものなのだろうか。静かな文体で守られた図書館の内側が淡々と描写されているのも相まって、この目でその外側を覗くのが怖くなってくるような一作だった。









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