見出し画像

回流海月

行方不明に憧れる女の子達の話です。2012年の作品。


『回流海月』


襟裳岬1

――海月って、どうやって死ぬのか、知ってる
 遠くの貨物船を眺めながら、文紀はそんなことを言っていた。
 私が北の地を去る前の日曜日の出来事である。
――海月はね、溶けて一生を終えるんだ。水になって
 私は目を細めている。
「悲しいわ。彼らは死んでも痕跡を残せないんだ」
 文紀は、まるで世界中の何もかもを知ってるような笑顔を返す。
――違う。彼女らは、みんな海に帰るんだ。水から生まれて水に戻る。蒸発して、分散して、拡散して。雲になって、雨になって、地上にやってくるの。人間にはできないでしょう
 人は、死んでしまえば骨が残る。肉が腐る。灰が残る。そういう、人間だったものは、残された人たちに悲しみと虚無を与えるだけだと、そう彼女は続ける。
――僕はね、海月に生まれたかった。でも
 亜麻色の髪とワンピースの影が、調子を合わせてなびく。
 私が彼女のワンピース姿を見たのは、あの一度きりだった。あの日が彼女にとって特別な日だったのか、ただ日常の延長だったのかはもはや知れない。ただ、飽きずに繰り返される不可思議の告白と、海原を翔ける雨風だけが、私と文紀のあの一日を、ぼんやりと浮き立たせていた。
 私は砂浜を指して、次にこう言うのだ。
「じゃあ、この海月は?」 
 文紀はとてもとても悲しい目をして、まぶしい白浜に打ち上げられた海月を見据える。
――彼女は、不幸だ。こうして僕たちに見つかってしまったのは、とっても不幸なことなんだ
 彼女は海月をそっと手ですくう。驚く私の目の前で。
 それからゆっくりと波に近づき、すくった海月を海に流して見せる。海月は波に戻されながらも、徐々に浜から遠ざかっていく。
 彼女はいつまでも沖の方を見つめている。
 泥だらけの制服。
 私の方を振り返った彼女は一言。
――僕たち、ずっと一緒だよね
 確かにそういったのだ。私は強く頷いた。

 そうして文紀は姿をくらました。
 二十日もたつというのに。
 どこに行ったの?
 文紀。

足摺岬1

 涼しい夏だ。と、端島は似つかわしくない独り言を口にする。肌で寒さは感じないのだが、東北は冷夏だと聞くから、やはり涼しい夏なのだろう。
 四国、高知県は足摺岬。単身ここを訪れるのは、放浪を繰り返していた学生時代以来だろうか。
 涼しさの原因は、この荒涼たる景色にもあるのではないか、そう思える岩浜。これではあの娘も苦労しているのではないか。
 考え事をしていると、渦中の子が視界の隅にいるのに気付く。声をかけようか迷っていると、その子の方から振り向いて一言「ここでは海月が来られませんね」と言った。

 端島は先の事件からずっと彼女――遠石里李(といしさとり)を気にかけていた。
 捜査は既に行き詰っている。一警官として、私見で行動するのはまずいのかもしれない。重々承知していたはずだったが、端島祐介には、その私見が外れた経験がなかった。
 二十日ほど前の今月三日、北海道は襟裳岬で、奇妙な失踪事件が起こった。
 被害にあったのは櫨文紀(はぜふみき)という十五歳の女の子で、失踪時は下校途中。状況から、何らかのトラブルに巻き込まれたとみて、捜査が始まった。
 状況、と言っても、現場はほぼ最悪の事態を推して間違いなかった。開いたままの傘も、徐々に流される大量の血痕も、文紀のものだと一応の判定が下され、少女の生存は絶望視された。また近隣住民の話によると、不審な男がたびたび目撃されており、情報を辿るうち、岡村栄一という無職の男が捜査線上に浮かびあがってきた。岡村は行方が分からなくなっていた。
 確定は時間の問題。岡村の供述から、遺体の場所も聞き出せよう。そう端島も思っていたのだが、事件は急展開を迎える。
 翌四日の午後、北海道警は失踪現場から二キロ離れた浜辺に、溺死体が打ち上げられているのを発見した。ただ、それは文紀のものでなく、岡村その人であったのだ。さらに岡村の遺体からは、文紀死亡と岡村による犯行を断定せざるを得ない物的証拠の数々が、近くの崖からは、遺書の打ち込まれた岡村の携帯電話が発見された。
 岡村の遺体発見時、おおよその見解として、何らかのトラブルの後、文紀を殺害、遺棄した岡村が、その後投身自殺を図ったものとみられていた。しかし事件は終わらなかった。
 一同の見解を覆す情報が、捜査本部に飛び込んできた。
 メールが入ったのだ。文紀本人から。
 文紀の母親である櫨沙織と、同級生である遠石里李に、である。
 メールの内容はどちらも、「私は生きている」「今は事情で会えない」「またいつかどこかで」と言ったもので、この一件から沙織は失踪宣告を取消し、里李は端島に相談を持ちかけた。
 署内の意見は二分した。一方は、文紀は生きており、正当防衛から誤って岡村を殺害、その後逃亡をしたとする説。この場合血痕は岡村のものだ。もう一方は、文紀はやはり殺されており、その後の岡村の自殺と、直接のかかわりはないとする説である。端島はそのどちらも、しっくり来ないと感じている。謎の中心は、文紀の行方不明であった。
 仮に文紀が生きていたとして、今日までの二十日間、子どもが一人で逃げ切れるとは考え難い。東京のような都会ならば、人の多い分、なんなりと方法はあるだろうが、現場は襟裳岬の端だ。それに、わざわざメールで生存を報告する意味が分からない。逃げたければ、消息不明は一番都合がいい。それを崩してまで、二人にメールをした意味はなんなのか。文面にも若干の余裕がうかがえる。この場合、第三者の関与が濃厚である。
 一方、文紀が死んでいた場合だが、これもメールの説明がつかない。文紀の携帯電話は本人とともに行方不明だし、文紀に危害を加えたことが確定している岡村は、メール発信前に、すでに遺体となって発見されている。この場合も、メールを送った第三者がいることに間違いはなさそうだ。
 端島がはじめ疑ったのは、メールの送り先、すなわち沙織と里李である。ただ、沙織は嬉々として即刻失踪届を破棄していたし、里李は逆に、メールの信憑性を疑っていた。双方とも、届いてもいないメールが届いたなどと、偽りの申告をしているようには思えない。そもそも、メールが実際に文紀の携帯電話から送信されていることは確認済みだった。
 沙織は娘の生存を信じて疑わず、新たな情報を話すことはなかった。聞けば夫に先立たれてから、娘の成長だけが楽しみだったという。不憫な話ではあるが、沙織の手許に情報がないのなら、もう一人の証言者を当てにするほかない。端島はその後何度か、里李と話す機会を得た。はじめは情報源として接していたが、まあ、平たく言うと情が移ったのだ。
 父親の転勤に伴う里李の引っ越しは、事件の前からすでに決まっていた。ただ、彼女を追って、職場放棄もいいところ、単身で四国まで来ることになろうとは、端島は考えてもいなかった。
 里李はスカートの裾を絞って、ゆっくりと岩を降りてくる。
「刑事さん、こんなところにまで」
「こっちの好きでやってることだ……その後調子は」
「ええ、ええ。あまり良くはないです。まだ、まだ信じられない」
「そうそう忘れられるものじゃない……今日はね、文紀ちゃんがどんな子だったのか、確認するつもりで来たんだ」
「また……それだけのために」
「それだけ。それだけでも大事なことだから」
「解決? 文紀は、やっぱり殺されたんですか。死んでいるんですか。行方不明になったんじゃあ、ないんですか」
 端島は一瞬ひるんだ。善良な警察官なら、ここで真実を言うことを憚るだろうか。とはいえ、その選択肢は端島の中には存在しない。それはこの十四歳の娘とて十分理解しているはずであるし、文紀の行先については、里李が誰より詳しい。そう踏んでいる。
「残念だけど。とても残念だけど。無理なんだ。あの出血で生きてはいないんだよ」
 端島は自分の推測を半ば確信に変えつつある。
 メールの主は、やはり目前の少女ではあるまいか。親友の失踪を受け入れられず、文紀が生きていると思い込むために、文紀の携帯電話を用いてメールを送っているのではないか。
 いや。
 まだ何かが足りない。
 携帯電話を手に入れたとしたら、どこだ。
 文紀との接触があったと言うより他ない。
 死を覚悟した文紀に渡されたのか、あるいは、文紀の死体から、携帯電話を抜き取ったか……それならば、文紀の「本体」はどこへ行ったのだろうか。
 
 顔をゆっくりと上げ、里李の表情を見る。
 里李は、覚悟はしていました、と、頷いた。それから大粒の涙をぽろぽろと落とした。

襟裳岬2

 家の裏手からいつもの浜に降り、先客がいたことに驚いた。岬の先端にある海蝕岩。その手前に一人の男が立っている。男は振り返って、ニコリと微笑んだ。
「君が、遠石里李ちゃんかな」
 男は端島と名乗った。刑事であると言った。そして、今は仕事中ではないとも言った。
「その、なんだ。今日はね、文紀ちゃんがどんな子だったのかを、知りたくてね、今から君の所に聞きに行こうと思っていたんだ……最後に会ったのは」
「文紀がいなくなる、前の日です」
 あの日。
「私は引っ越しのお別れを言ったんです。この場所で」
 珍しくワンピースを着て。
「この場所でねえ。ここにはよく来てたのかい」
 髪から滴る水。
「はい」
「なんだ、その文紀ちゃんだが、ちょっと変わった子だったって聞いたけど」
「はい」
「どういう風に変わってたのかな」
 あの日もそうだった。あのお別れの日も、彼女は私に夢を語って。
 私は端島さんの顔色をうかがう。彼女の一切を語る覚悟は、まだないけれども。
「文紀は、失踪願望があった。行方不明に憧れていたんです」

――風船おじさんって知ってる?
 私が浜で夕日を眺めていると、後ろから不意に声をかけられた。  
 ひどく現実味に乏しい、宙に浮いたような声である。
 振り返ると同じクラスの女の子が立っていて、ぺこりと丁寧なお辞儀をされた。
――ハゼ、フミキです。ねぇ里李、知ってる? 風船おじさん。
 私が知らないというと、文紀と名乗った女の子は、まあそうだろうねと言って、おぼつかない説明をしてくれた。
 曰く、風船おじさんとは「ヘリウム風船をつけたゴンドラに乗って太平洋を横断する」という挑戦に出た挙句、そのまま行方知らずとなった人のことを言うらしい。それは、そのまま海に落ちちゃったんじゃないの。
 私がそういうと、文紀は即座に否定する。
「違うよ! 彼は死んでいない」
 彼女の声が現実に聞こえた。私の記憶ははっきりする。
「え? 生きてるの? 今どこにいるの?」
「あ、え、そりゃぁ……生きてはないだろうけど……」
「不思議ね。死んでないって言ったり、生きてないって言ったり」
「それはね」
 文紀は視線を水平線へと移動する。
「考えちゃいけないんだ。完結なんだよ」
「完結?」
 私は文紀と同じ方を眺める。青い海と青い空。でも境界線ははっきりしている。
「水平線の向こうと同じさ」
「水平線と?」
「そ。あの、海の境目の場所まで行ったら、行っても、その向こうにはやっぱり海が続いている。でも僕らはあそこまで行くことはできない。だから、僕らにとっての海は、あの境界線までがすべてなんだ」
「じゃあ、その水平線より向こうの出来事は、どうすればいいの」
「そんなもの、ないって思うんだ。向こうで何があっても、それがハッピーエンドだったとしても」
「それは、どういう……」
 少し気になって横顔を覗く。文紀は視線を揺らさない。
「考えてもみなよ。『羅生門の下人は結局野垂れ死にました』『虎になった李徴は人間に戻って出世しました』『タイムトラベラーは五年後に戻ってきました』……こんな結末のどこに意味があるというの」
 私はどの話も詳しくは知らなかったが、文紀の言いたいことはなんとなく伝わった。気がした。文紀は続ける。
「その後が分からないってことはね、僕たちが自由に想像できるってこと。でも、決して真実を教えてはくれないし、分かりやすい結論を見せてはくれない。僕らは想像の義務を課せられる。水平線は、決して足元には来ないの」
 猫のような少女だと思った。猫は死ぬことより、いなくなることの方が多い。でも実際は弱った己の姿を他に晒すまいとする防衛本能がそうさせるのであり、要は逃げていると言ってもよい。
 狂おしいまでの現実逃避。私は少し、反感を覚えた。
「そう。それじゃああなた、あなたの物語が終わらないよ。私はあなたの美学に賛成できない。あなたは、あなたの物語から、人生から逃げる方法を常に考えている、そう、見える、けど。結論を出すことは、あなたの物語に決着をつけるということでしょう。結論を出せなかったら、あなたはきっと後悔する」
 文紀は一瞬だけ、ひどく不愉快な顔をした。でもそれは私に対する反発というよりは、むしろ分かっていて逃げている自身に対する嫌悪のようであった。
 その後文紀は諭すように、私の言葉を否定する。
「里李の言いたいことはよくわかるわ。でもね、僕は別に逃げている訳じゃない……ねぇ聞いてよ。僕はね、死ぬときは行方不明って、そう決めてるんだ。まあ、うーんと先の事だろうし、自分の死に方なんて、自殺じゃなきゃ、決められないんだろうけれど」
「あなた、一人で生きてきたの」
 私は純粋に疑問をぶつける。当時の私は気遣いなど到底できなかった。今にしてみれば、よくもまああんな無遠慮なことをずけずけと尋ねられたものだと思える。
「不遇な環境で育ったの? 家族は? 友達は? あなたの事を好きな人が、いるでしょう。いないの?」
「……母さんは、僕の事、すごく大切にしてくれる。あるときから、とてもとても……」
「ならば、そんなこと言っちゃダメ。あなたの事を大切に思っている人がいるのなら、あなたはその人たちに悲しみを残してはダメ」
 そのとき、文紀は初めて、地についた声を出して、「ああ」と、ため息をついた。
 その表情は硬く、含む侮蔑の意味は、さっきのそれとは性質を異にしていた。私は彼女の明らかな嫌悪感に、思わず身震いした。これは先よりの、ふわふわとした少女ではない。
「ごめん。そんな、怒らせるつもりじゃなくってね。その」
「いいんだよ」
 次の刹那には、彼女の声は、先ほどのように霞がかっていく。
「僕はそれでも。いいんだ。そりゃあ僕が消えたら母さんは悲しむさ。でもね」
 そこで文紀は両手を広げ、次の瞬間には、私を抱きしめていた。その声は、今度はとても寂しそうで。
 彼女の豹変は、見る者の情緒まで不安定にさせるような魔力をもっていた。
「僕の母さんはさ、僕がどこかに行っちゃうのと――」
 背中に回った手の感触が強くなる。
「――目の前で死んでいる僕を見るのと、どちらがいいかな」
 まるで、母親より先に死ぬことを前提とした言い方。
 この、常軌を逸した死への恐怖はどこだろう。
 持病か、特別な事情があるのか……さすがの私も、何か踏み入ってはいけない彼女の領域に気づき、それより先を聞くことをしなかった。ただ、守ってやらないといけないと、そう感じたのは確かである。私もいつの間にか、幻想の瘴気にすっかりやられていて、彼女を離すまいとしていた。
 これが私と文紀のファーストコンタクトであった。

「それをきっかけに仲良くなって、よく一緒に、この海岸でおしゃべりしました」
 刑事は私の話に、終始微笑みながら相槌を打っていた。
「ほう。どんな話をしていたの」
「たいていは、私は文紀の話を聞くだけでした」
 思い出す。彼女は数多の人物の話を、情緒たっぷりに語った。
 入ったら二度と出られない、今も侵入が禁忌とされている、八幡の藪知らずの話や、バミューダの三角地帯。世に聞く神隠しの数々。世界初の女性パイロットのアメリア・イアハートや、星の王子様で知られるサンテグジュペリの最期……
 どの話も彼女の理想が混じっていて、甘美な印象を受けた。失うものの美しさ。遠くへ行ってしまう思い出の儚さ。でもそれは実際に、死体を前にしたとき、そのインパクトや惨さに簡単に負けてしまう、とても繊細なものなのだそうだ。
 彼女は言った。
――だから、行方不明者は見つかったらいけないんだ。永遠に、百年経っても千年経ってもどこかを彷徨っている幻想を、世界に植え付けなくちゃいけないんだ。
 考えればえらく子供じみた考え方である。実際、遭難や失踪がそんなに美しいものであるはずがない。私なら死ぬ間際の孤独に、助けを呼びたくてもそれさえ叶わない状況に、耐えることはできない。
 そう考えていたのだが。私は文紀の夢に傾倒していくことになる。
「それで、端島さん」
 文紀が行方不明になってから、私はずいぶん人恋しくなっていた。
 話し相手がほしかったのだ。
「端島さんは、いつまでここにいるんですか」
 この事件が終わるまでだね、と、端島は答えた。
 ならば。
「また、お話ししても」
 彼は無言で頷いた。

足摺岬2

 目を真っ赤に腫らした里李は、次には端島をキッとねめつけた。
「文紀は、行方不明です。文紀は死んでいません」
「あ、あのな、でも、現場にはね」
「本当に文紀の血なんですか」
「いや、血液型が」
「DNA型は? 端島さん警察なんでしょ」
「……鑑定中だよ。でも、現場には文紀ちゃんの傘が落ちていたわけで」
 端島は奇妙な違和感を覚える。
「仮に文紀の血だとしましょう。でもその血だって、雨に洗われちゃったんですから、実際の出血が致死量なのかも分からないでしょう」
「いや」
 言いかけて一瞬だけひるむ。
「すぐに大きな病院で手当てしないと危ないレベルだったと聞く。でもどの病院にも運ばれていない」
「でも! そのあと、メールが」
「それは、僕は、君じゃないかって……」
 少女は目を見開いて後ずさった。あと五歩も下がれば、崖から海に落ちていたところだ。もとより高い声はさらにオクターブほど上がり、先ほどの眼光は何かを懇願するような色をにじませた。
 ポツリポツリと、雨が降り出す。
「それは、違う。違います」
「違うのか」
「そう、そうです」
「……どっちだ」
「だから、私が、いえ。メールが届いたのは事実で」
 端島はしばらく黙っていたが、ゆっくりと姿勢を下げて、少女と視線を合わせる。
「ごめんな。俺も長いこと、この仕事やってんだ。君の反応を見ていればわかるよ。大事なこと隠してるの、分かってるんだ。でももし事件に直接関係ないのなら」
 こんなところまで追いかけてきて、つくづく無礼な人間だな。と、端島は自分にまじないをかける。
「黙っておくことは出来るんだけれど……」
「だめ。だめなの。それじゃあ……」
「なあ里李ちゃん。最後の日の話。もう一度、よく思い出して。君が最後に文紀ちゃんと別れた時の事」
 心の奥底にしまっておこうとしていた疑問。科学捜査に任せておけば、気に留めなくてもいい疑問。でも、やはり明かさずにはいられない。
「文紀との最後のお別れ……何度も話して……もう、もう思い出したく――」
「違うんだ。違うだろ」
 彼女は泣き顔のまま固まった。端島は再確認する。彼女の顔を見れば、彼女自身が気づいていないであろうことも、想像に難くない。
「まずは文紀ちゃんの話から。なぜ文紀ちゃんがそんなに行方不明に憧れたのか」
「それは……」
「君の言うように、現実逃避だ」
「そんなこと!」
 里李はもう、文紀の言葉を、子供じみた空想だとは思っていない。影響されたとも感化されたとも、あるいは毒されたともいえる。
「君が最初に思っていた通りだよ。彼女は具体的な死から目を背けたかった。死体になるのが嫌だったんだ」
「なんでそんな」
「文紀ちゃんが五歳の時、彼女のお父さんは自宅で首を括った」
「え……」
「文紀ちゃんと沙織さん――文紀ちゃんのお母さんだね。その二人が第一発見者になった」
「そんな」
「言ったまんまだ。死体がトラウマだったんだよ。でも彼女が怖れたのは単純な死よりもむしろ、その後だった」
「その後?」
「そう。その後の、沙織さんの豹変だよ」
 里李は複雑な顔をした。
「母さんは僕の事大切にしてくれる――って言ったんだよね。でも、彼女は突然娘を溺愛し始めた母親を怖れていた。死体を見た人間が豹変するのが怖かったんだよ」
「でも、でも。それでも。いや、それならなお、文紀は行方不明に」
「ごめん、ごめん。一つだけでいいんだ。一つだけ確認させてくれ」
 端島はもう結論を出している。少女は自分の記憶が整理整頓されるのを恐れるかのように、もう二歩だけ退く。
「あの日。君が文紀ちゃんと最後に会った日」
 ざぁっと、現実の音があたりに充満した。
「君はどうして雨に降られたんだ」
 冷たい雨が端島と里李を濡らした。

襟裳岬3

 亜麻色の髪とワンピースの影が、調子を合わせてなびく。
 私が彼女のワンピース姿を見たのは、あの一度きりだった。あの日が彼女にとって特別な日だったのか、ただ日常の延長だったのかはもはや知れない。ただ、突然繰り出された不可思議の告白と、海原を翔ける雨風だけが、私と文紀のあの一日を、ぼんやりと――
――雨風?
 雨の中、ワンピースがなびくだろうか。

 文紀はとてもとても悲しい目をして、まぶしい白浜に打ち上げられた海月を――
――まぶしい白浜
 やはり晴れている。

 彼女はいつまでも沖の方を見つめている。
 泥だらけの制服。
 私の方を振り返った彼女は――
――泥だらけの制服?
 あの日は日曜日だったはずだ。なら。
 誰の?
 なんで?
 いや
 それは本当に泥だった?

足摺岬3

「きっと」
 端島は私を現実の丘に引き戻す。私を、文紀のいる海から遠ざけようとする。
「君は文紀ちゃんが襲われるところを見たんだ」
「そんな」
「でも君は前日の記憶と混同しているようだった。今日まで、ずっと。血は雨で流された。現場には傘が開いて落ちていたんだ。雨が降っていたのは、文紀ちゃんの失踪当日――月曜日だろう」
「そんな……そんな馬鹿な」
「ゆっくりでいいんだ。教えてほしい。僕だってまだ信じたくないんだ。本当に君が殺したのか……」
「待って! 私が殺した? 文紀を?」
 怒りがこみ上げてくる。
「ふざけないで! 私がなんで文紀を殺さなくちゃならないの? 殺したのは私じゃなくて――」
 刑事は冷たく言い放つ。
「殺したのは私じゃなくて、か。ほら、きちんと死んでるって分かってるじゃないか」
 私は、たぶん呆然としている。
 私が殺したんじゃなくって。
 ならば。
「覚えてはいたけど、否定し続けていたんだろう。僕がこんなにしつこいのはね、その否定のために君のしたことが許されないからだ。君が殺したのは文紀ちゃんじゃなくて岡村栄一だ」
 私はこの現実を受け止められない。
 端島は続ける。
「俺はね、里李ちゃん。メールの送り主は君じゃないかとは、ぼんやり思っていたんだ。でもそれは、親友の文紀ちゃんを失いたくないあまりの行為だとばかり思っていた。だから見て見ぬふりをつづけたし、誰にも言わなかった。いいかい、どんなに甘美な空想だって、現実に勝てない。やがてその矛盾に耐えられなくなって、君も、沙織さんも、文紀ちゃんに起こったことを理解できるようになると思ったんだ。でも」
 雨が私を責める。私の相手が変わりつつある。彼がどれだけ私を引き揚げようと奮闘しても、陸は私の存在を突き放していく。
「でも、実際はちょっとずれていた」
 いや、私が逃げているのは、陸からじゃない。現実からじゃない。私は雨から逃げているんだ。さっきまで、雨は私から余計なものを流してくれる存在だと信じ切っていた。しかし今は違う。今の雨は私にべっとりとへばりつき、憑りつこうとしている。
 そうだ。雨は文紀だ。
 海の水になって、蒸発して雲になって。
 私を濡らすのは、私が海月にした彼女本人?
 ならば、これは贖いなのか、もしくは、私の後悔だ。
 私は文紀が死んだという現実から逃げようとした。そして次には、文紀を行方不明にしたことへの後悔から逃げている。
「君は、君の最終目的は、文紀ちゃんの行方不明だったんだろう」
 端島は逃げるなと言ってくれている。
「君が行方不明を強調したのは、文紀ちゃんが死んでいる可能性から逃れるためだろうか……きっと、違うよね。文紀ちゃんが死亡認定されることによって、行方不明ではなくなる心配があったからだ」
 私はもう何が何だか分からなくなって
 こくりと頷いた。
「文紀は岡村に殺されました」
「文紀を流したのは私です」

 そうだ。あの日――ワンピースの文紀とお別れをした、その次の月曜日。私は偶然、文紀が男に襲われるのを見つけたんだ。私は親友を殺した目前の男に怒りをぶつけるより、予期せず死体になってしまった親友の「失踪方法」に思案を巡らせた。
 男は行きずりの犯行で、文紀の出血を見てひどく狼狽した様子だった。私はそこにつけいった。
 私は男に、死体の処分を提案した。犯行現場が見られている岡村は、最初は難色を示したものの、結局私は彼に協力した。いや、私が協力させたのか。
 曇天が世界から色彩を奪い、打ち付ける雨で視界は霞み、私は文紀の制服は泥だらけなのだと、そう記憶した。瀕死の彼女を二人がかりで持ち上げる。青年男性と女子中学生ではバランスがとれず、何度も転びかけた。文紀は何も言わなかった。
 一度砂浜に文紀を下ろすと、彼女は海の方を確かに見た。そしてそっと唇を動かした。涙する私の下で。
――僕たち、ずっと一緒だよね。
 確かにそういったのだ。私は強く頷いた。
 通り魔に襲われたとはとても思えない、安らかな顔で、文紀は真に現実を離れた。私は彼女を看取って、それからそっと身体を抱き上げ、海に。
 岡村は怪訝そうな顔をしながらも、文句ひとつ言わずにじっと見つめていた。
 その後、問題が生じた。途中で岡村が怖気づき、自首をすると言い出したのだ。自首をされては困る。彼が文紀の死を証言すれば、文紀は生死不明の失踪者ではなくなってしまうし、死体が見つかれば血だらけの醜い死体を、母親に晒すことになる。こんなこと、文紀は万に一つも望んでいない。
 私は岡村に、携帯電話で謝罪文を打たせ、隙を見て海に突き落とした。これで櫨文紀失踪の真相を知る人間は私一人になった。
 次にやるべきことは、文紀の死をなるべくうやむやにすることだった。あの出血の量から考えて、警察は間違いなく死亡の判断を下すだろうし、岡村の遺書には、殺したとは書かれていないものの、ある程度の真実が描かれていたから。
 私は文紀の荷物から携帯電話をとりだし、一通は私宛に、もう一通は彼女の母親あてにメールを送った。私を選んだのは警察の意表を突くため、文紀の母親を選んだのは、娘を溺愛している母親ならば、確実に文紀が生きていると信じるだろうと判断したためである。こうしておけば、少なくても彼女が死ぬまでは、死亡認定がされないのではないか。いや、絶対にされないだろう。
 目立ったミスというものもなかった。あえて言うならば岡村が打ち上げられたことは想定外だったが、海が文紀を受け入れて岡村を拒んだと考えれば、心がすっと軽くなった。
 これが、私のやったこと。
 そして端島が推理したそのままであった。
 でも、やはり私は現実を受け入れられない。
 端島はいい人だ。だが、やはり警察官は職務を全うするべきだ。
 私は岡村殺害の件で事情聴取を受け、結局文紀の死亡が確定してしまう。

――それじゃあね

「それは、だめ」
 私は海と雨に向かって抵抗する。
 すべてを聞いた端島が、ゆっくりと首を横に振る。
「悪いけれど、そういうわけにはいかないんだ。俺だって苦しいよ。でもね、俺は警察官だから」
 違う。端島に言ったんじゃあない。雨に言ったのだ。
 文紀が私を呼ぶ。
――ならば、やることはひとつ
――里李が行方不明になるんだ
 私の涙は恐怖のそれに代わっている。それさえも、雨に混じってうやむやにされてしまう。
 水は全身にまとわりつき、滴り、私から生を、判断力を奪っていく。
「そっか……逃げちゃえばいいんだ……さよならすれば……」
――おいで、里李
 地上のすべてにさようなら。
 一歩。
 二歩。
 三歩目で、私はふわりと、空を踏んだ。
 えらくスローモーションに見える。
 脳裏には襟裳の懐かしい海岸。
 
 私は甘かった。
 端島の叫び声で、私ははっと目を開けてしまった。
 飛び込んでくる現実。酔いどれの見る美麗な幻覚は消えてしまった。そこにあるのは、思い出の砂浜ではなかった。ごつごつとした岩に砕かれ砕く高い波。空も海もどこまでも灰色で、私の混じることを許してくれそうになかった。
 思い出す。誰だか詩人のエッセイに、自殺の話があって――

 全身に冷たい海。どこまでも深い海。誰もいない、ずっと一人ぼっち。母も、父も、友達だって。ただ人を拒んで、これが永遠に続くの?
 やはり、文紀は間違っていたし、私のしたことも間違っていたんだ。何ともあっけない。私自身、初めは分かっていたじゃない。これはすなわち現実逃避だって。
 いやだ。帰りたい。苦しい。寂しい。助けて。手足は先から、次第に冷えて固まってゆく。息苦しさは心地よさに置き換わり、けれども底なしの、一人の感覚だけは残される。

 そうしてしばらく、ながいながい孤独と戦うことになるのだけれど……それから訪れる、心躍る出会いの話は、またいつか。
 
犬吠埼

「端島さん」
 部下の梶山が、心なしか声をひそめて言った。
「例の事件ですが」
「例の?」
「はい。ひと月前の襟裳の、少女殺人です」
 まったく嫌なことを思い出させる。端島にはその事件がトラウマだった。最終的に自殺を図った少女――遠石里李の顛末には、自分にも少なからずの責任がある。
 だが、それがどうしたと聞いた梶山の返答は、要領を得ないものだった。
「暗礁に乗り上げました。またメールが、今度は遠石里利と櫨文紀の二人の携帯電話から、それぞれの親宛に、送られてきたんです」
「……いや、いたずらだろう……沙織さんは喜ぶかもしれんが」
 嫌な予感がした。
 櫨文紀と遠石里李の二人ともが海に沈んだことを知っている人間はほとんどいない。いたずらの余地は限りなく少ないのだ。
「それが違うそうです。電話会社の協力で、発信が両者本人の携帯電話からであることが確認されたんです」
「馬鹿な。……内容は」
「それが」
 部下はいっそう声を小さくした。
 青ざめていた。おびえている? 
 そう感じさせる。
「それが、二人が、櫨文紀と遠石里李の二人が、再会したって内容なんです」
 そういって梶山は身震いをする。
 そんな馬鹿なことがあるものか。
「間違いだ。何かの間違いに決まっている。早く出所を確認」
「それが」
「どうした」
「里李の方の携帯、突然電源が入ったみたいに、位置情報が更新されまして」
「よかったじゃないか。早急に調べ……」
「ダメなんです!」
 梶井は切迫した声を上げた。様子がおかしかった。
「どう……だめなんだ?」
「さきほど、私、任されて、その、携帯電話の所在を調べたんです」
「それで」
「場所は、千葉県は犬吠埼沖二百㎞の地点で」
「島か」
「だからダメなんですって! 島も何も、ないんです」
「は?」
 この部下はいったい何を言っているのか。
 もしや。
「今年は」
 梶山は続ける。
「今年、東北太平洋側の夏は、涼しかったですよね」
「ああ。それが? それがどうした」
 確かに涼しい夏だった。
「自分は少し海洋に詳しかったので、気になって、気象庁他、各機関に問い合わせたんです。そしたら、ドンピシャでした」
「……何がだ」
「シオですよ」
 梶山の言葉は耳にまとわりついた。
 塩……違う。潮だ。
「今年は、親潮の異常南下の年なんです」
 胸騒ぎがした。
 通常東北どまりの親潮が、夏ごろまで、茨木、千葉沖まで張り出す現象。漁業に影響を与えるほか、東北地方の太平洋側に冷夏をもたらすという……
「不確かなことは言うもんじゃない……冷静になれ……」
「いいですか。これを見てください」
 部下は、端島の言葉を空に通したまま、メモ用紙に計算を始めている。
「いいですか。親潮の流速は一時間に約1.8キロメートル程度。対して黒潮の流量は多く、一時間に約7.4キロメートルほど進みます。ですから、仮に襟裳岬から流された櫨文紀が親潮に乗ったとすると、犬吠埼沖まで約千キロを、単純計算で二十三日、ひと月ほどで移動します。対して足摺岬で身を投じた遠石里李が黒潮に乗ったとすると、犬吠岬までのやはり約千キロを、約六日かけて移動することになります。つまり」
 つまり。櫨文紀の夢は達成された。
「一か月前、襟裳岬で行方不明になった櫨文紀と、一週間前、足摺岬に身を投じた遠石里李ですが」
 遠石里李の努力は報われた。
「今日あたりには会えるんです」
 少女は今も、行方不明のままである。

――了


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?