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ブンゲイファイトクラブ2 かんそう

ブンゲイファイトクラブ2の本選作品について、ふわふわの感想を書きます。これは普段六枚道場の感想を書くときと同じですが、以下の三点に留意して閲覧いただけますと幸いです。

・あくまで感想だよ。批評ではないよ
・感想の長さは作品評価に比例しないよ
・基本いいところを好意的に読むよ。でも思ってもない御世辞は言わないよ

グループA


「青紙」竹花一乃さん

 程よい毒ですね。しびれます。当方、マイナンバーカードをいまだ申請できていないチキンです。「管理=ディストピア」のイメージが自然と出てくるのは、そういう歴史が長かったからなのでしょうかね、それとももっと根本的に人は管理されることに思う所があるんですかね。
 未来もしくは別の世界というより、今のことを書かれているんですかね。カプセルホテル形式の病床などは、形式が映えるぶんリアリティからは遠ざかるように思いますが、寓話的に読むなら誇張された描写があるのも納得です。
 国家みたいな大きいところにしてやられているのに、そういう部分は見えなくて、しまいに男女の駆け引きになっちゃうあたりの滑稽さと言うか、笑いそうになるけど笑ってもいられない愚かさにヒュッとします。こういう世界を見せられて、現代もそう変わりないのだと思うと次は、誰にも手渡していない自分の情報とは何だろう、と想像が広がります。
 一つだけ、一つだけわがままを言うなら、身内に貧乏公務員が多い身としては、「特権的公務員」みたいなネタを強化してほしくはなかったなという感じはします。しかしまあ事実、そういう人や事情というのもあるのだろうなとは思います。

「浅田と下田」阿部2さん

 四ページ目で「おおぅん?」ってなりましたね。みんななるでしょうね。他の方の感想が楽しみです。
 銭湯は好きでよくいきます。それほど広くないのに天井は高くて、バスロマンと変わらないのに何だか特別な気分になれる薬湯や、数人しか入れないサウナやがあって、何より一人になったことがない場所です。遅すぎなければ必ず誰かいる。一方的に持病の話をしてくるおじいちゃんや、背中の仏さん見せて「かっこええやろ」と言ってくるおっちゃんもいる。たまに知り合いもいる。湯気でくもって霞む視界と反響する声の中で、正常な空気の下では起こらないような会話が沢山観測されます。だから、本作みたいなことも、「銭湯ならまあ、起こるのかもしれない」って思えちゃうのが素敵です。
 後半、「蒸発」してからの時間の伸びが素敵ですね。また下田くんの、これからの時間の長さにすこしぞくっとするものがあります。長い時間に対する、切っ掛けの小ささが光ります。もし今後、下田くんが人に戻れるようなことがあるとして、その切っ掛けが今度は浅田さんと全然関係なかったりしたらまた面白いなとも思います。

「新しい生活」十波一さん

 すべてにコメントするのは大変ですが、素敵な歌がたくさんあります。
 一首目「新しい生活様式」で新しくなったのはおばあちゃんなのか、花壇なのか水やりなのか……図ってのことかは分かりませんが、ここで心つかまれました。二首目は記憶を探れば「あの日のことだ……」みたいなのが(誰しも)出て来そうです。
 15首目「得るものは~」、どんな映画だろうと様々想像します。乙です。27首目「経済的に~」今年の夏もよくやったなと思い出します。35首目「夢みれば~」この感覚が(夢をどういう意味に解釈したとしても)非常に深く突き刺さって抜けません。
 以前好きな歌人の方が「あるあるを詠むのも、みずみずしい日常感覚を”再発見”するのもハマらない」的なこと(意訳)(うろ覚え)を仰っていて、確かにそうだなと思ったのですが、本作ではそのあたりのバランスが絶妙だと思いました。「こう見せてやろう」みたいな下心を滅却したのか巧妙に隠したのかは作者に聞かないと分かりませんが、そういう表現欲みたいなものを感じさせない歌だとおもいました。表明しようと意識しないところにも生活というのはあって、それを切り出して歌にするのは、強い感情を歌にするのよりずっと難しいことだなとも、思い直しました。

「兄を守る」峯岸可弥さん

 美しい二人称小説ですね。二人称だから美しくなる部分もちょっぴりはあるでしょうがそれを御せるのはまた才能と思います。人称を工夫した小説だと、トリッキーなことも出来たハズなのですが、その効果を没入感に全ぶりしているあたり、強さと矜持を感じます。幻想と臨死が結びつくのはベタと言えばベタですが、それも情景の立ち上げ方でカバーしている印象です。
 お話には何か元ネタがあるのでしょうか。浅学故存じ上げませんが、戦いを一つとっても見栄えのする情景の連続で、絵本にして読むのも乙だな、など思うところです。ケルベロスといえば冥府の番犬ですが、ケルベロスに食べられた「あなた」が目を覚まし、アラセリスと共に飛び上がった兄が逝ってしまうのはどういう展開でしょうか。生死の決まる戦いではなく、死後の行き先を左右する戦いだったのでしょうか。正直読み切れていないところもあると思うので他の方の感想なりを待ちたいと思います。
 ともあれ、全体を通してさほど陰鬱ではなく、どこか抜けたようなところがあって、ハラハラよりワクワクが勝つ感じが読んでいて心地よかったです。体調がいい時に見る夢のようでした。

「孵るの子」笛宮ヱリ子さん

 人によって解釈が分かれると思いますが、救いのない話と受け取りました。「自分の気持ちとは別なところで進んでいく身体の変化」みたいなテーマは頻繁に使われるものではありますが、子を失うという感情への気付きが身体の成長に先行する話は初めて読みました。
 しかし物語はただ辛く哀しいだけでなく、たとえば悲しみを外転させ、負担を軽減する装置のような形で「お墓」が作られます。「死んでいく子ら」を悼むことで、なかば依存的にあわれみを交感する展開は、ある意味で非常に背徳的にも感じます。
 生から死までを疑似的に自己完結させ、そこに満足してしまった主人公が今後、どのように他者と関わっていくのかがとても気になります。この主人公の、死んでいく子らへの感傷が一過性のものとして想定されているのか、時間を越えて通じるものなのかによってもまた、読み方が変わってくるように思います。


勝ち抜けは「孵るの子」と予想します。僕は「浅田と下田」が好きです。

グループB

「今すぐ食べられたい」仲原佳さん

 いいですね、こういう話好きです。またこの一作によって僕の中に、作者(作品)のキャラクタ性みたいなものが出来上がっていて、さらにこの一作だけでは他にどんなものを書かれるのか予想できないので、自然と次作にどんな変化や展開が待っているのか見てみたくなっちゃいます。初めて出会う方が多く、作品を介してしかつながりのない場だからこそのわくわくです。
 ふと冷静になれば「自分を食べてほしい」なんてえげつない話をしているのに、何だかコミカルで、そう大層なことではないように感じるのは私たち(と言うと語弊があるかもしれないが、少なくともさっきハンバーガーを食べた私)が牛を食べることに慣れているからでしょうか。淡々としつつもやさしい文体も、悠然とした雰囲気に一役買っているような気がします。
 また牛本人(本牛)が切実に悩んでいるところもいじらしく、いとおしいです。コメディというのは本人たちが必死であるところにおかしさが生まれるものなのだ、とはどこかで聞きかじった話ですが、至言だと思います。
 ところで牛はどうして自らの食べごろ知識や美味しく食べるコツ(「低温でじっくり」など)を知っているのでしょうか。どこかで聞いたor読んだのでしょうか。それとも食うー食われるを超越し、世界の行く末からおいしい食べ方まで、すべて理解ってしまったが為に奉仕の心に目覚めたのでしょうか。そのあたりが(いい意味で)気になります。

「液体金属の背景 Chapter1」六〇五さん

 作中で「ループ」と言ってくれるなんて、なんて親切なループなんだと思いました。一般的に想像する同じ場面の繰り返しではない、主客が交互に入れ替わりながらループする様は見ている分には美しく(入りたくない)、見ほれてしまいました。
 しかし面白いのはこのループの度に犠牲を強いられる第三者(交通事故の被害者)の存在ですね。単に閉じられて完結した二者の回転ではない、一回転ごとに犠牲者が生まれている。なんだかライフゲームにおける繁殖型パターンみたいですよね。この犠牲者ですが、フェーズが切り替わるごとになかったことにされているのでしょうか、それともループの度に負荷が蓄積されているのでしょうか。後半に存在を匂わせる高次の存在が、前半に描かれたループを解消しようとする動機に、この犠牲者は関わっているのでしょうか。
 後半「繰り返される対立と~放浪することとした」などは、現代社会批判にも重なるところがあって背筋が伸びる思いです。この最後の難しいあたりがもし世相のことを言っているのならば、現代において神となった者はいったい何なのか、想像するとゾクゾクしてきます。

「えっちゃんの言う通り」首都大学留一さん

 とても私的な角度から見ると、電車がない国の民である僕にとって、山手線の駅は難問です。本作は「山手線が駅順に停まってくれない」というのを主軸にしていて、当然山手線の駅順がある程度頭の中に存在することが前提となります。生まれてこの方、東京に四回しか行ったことのない僕と、東京に慣れ親しんだ読者の間には、この作品から受ける印象に違いが生じるのでしょうか……というのは素朴な疑問ですが、本作の瑕疵ではないですね。じっさい駅順を知らなくったって「駅を飛ばしている」状況は分かるし、そこに面白さも感じます。それに、訳も分からないまま知っちゃかめっちゃになっていく話はそれだけで大好物でもあります(この感じ、乗金顕斗さんの「みゅーじーあむ」など思い出しましたが、なんと同グループにおられるのですね!!)。
 えっちゃん、いいキャラしてますね。えっちゃんのファンになれそうです。「おかちまち」がどこにあるのか存じ上げませんが、言葉の響きがよくって、再登場するたびに面白い、ベストのチョイスだと思います。
 通勤時間帯の電車は地獄だと聞き及んでいるのですが、本作中では車内の人々にほのかな連帯が生まれていてたいへんにほほえましいです。裏を返せば地獄を地獄たらしめているのは「出社」ということになりますね。世知辛いですね。六枚を超してこの事態が続くと、残り続ける人、事情を説明、案内する人、降りる人、また戻ってくる人……と役割が増えていくのでしょうか。コルタサル「南部高速道路」の日本社会版みたいだなと思いました。

「靴下とコスモス」馳平啓樹さん

 なんか涙が出てしまいました。終わり方の良さでしょうか。終わり方最高ですよね。このリズムはぜひとも習得したい。物語も、起こったことは小さいのに、ねえ、すごいですね。
 こういう小さい執着ってありますよね。きっと主人公は、喪失が怖いんじゃなくて、喪失の手触りを確かめるのに時間をかけるタイプなのでしょう。かつて車の店で靴下をなくした時には、靴下を失ったことよりも、そこに心の準備がなかったことに動揺した。だから今回は心の準備というものがはたして出来るのかを試している。というふうに読みました。
 こういう喪失感を人間に当てはめるならば、親しい人の突然の死や、余命宣告、死に支度などといった言葉が浮かびます。けれども失うものが人であるとき、その事の大きさ、尊大さに負けて、喪失そのものの手触りが確かめにくい気はします。しかしあまりに個人的で小さなものだと共感しにくいところであって、その点、肌に触れ、単体で存在できるのに有用性には欠けてしまう靴下というのが絶妙な塩梅のモチーフだなと思いました。
 ところでなぜ下の階の住人が靴下を(おそらく気付いていながら)放置していたのか、なぜわざわざ43日と明記されるのかについては想像の及ばない所でもありましたが、いみずさんの感想を読むともうその解釈にしか思えなくなってしまいました。

「カナメくんは死ぬ」乗金顕斗

 六枚というスケールの内では「主に事実だけを書く」という手まで使えてしまうのか、という大きな驚きがありました。書かれているのは事実なので、「カナメくんが何故死ぬのか」というタイトルの回収はもう完了しているし、彼が誰かを考えるのも野暮中の野暮で、さらに作中に言及されていることはそれこそ誰もが一度は考えることで、考察もへったくれもないので、絞り出すように出てくる感想が「そうだね」だけになる。こんな遊び方があったのか。
 内容から離れてみると、とくに音読していて楽しい作品でした。こんなにカナメくんを連呼しているのに、同じ言葉を繰り返しているのに、ことさら読みにくいという事もなく頭にちゃんと入ってくる文章力の高さに敬服いたします。さらに同様の結論に何度も着地しつつも、全体を見るとちゃんと盛り上がりの山とオチの予感がちゃんと作られていて、リズムって大事だなとしみじみ感じました。

勝ち抜け予想が難しいですが、僕が推すとすれば「靴下とコスモス」です。

グループC

「おつきみ」和泉眞弓さん

 「あなた」が印象的な作品ですね。Aグループ「兄を守る」における「あなた」のやじるしはこちらを向いていましたが本作ではむこうを向いていますね。二人称には作中の時間をより親密に過ごさせる効果でもあるのでしょうか、何だか離れがたく、閉じがたい物語に多い印象です。
 また、「後半に何かある」作品にも多い形式な気もします。不穏にほのめかしつつ多くは語らず、それでいて破たんの少ない語りが出来るからでしょうか。かまえて読んだという程でもないですが、後半の展開に(そっか……)と、驚きながらもどこか心の準備の出来ていた自分がいます。きっと「過去形で語り掛け続けること」が何を意味するのか、これまでの人生のどこかで知ってしまったからだと思います。過去を語るのは、どうにもできない感情を、ぼんやりとした綺麗な思い出に変えおくためなんだなというのが、この物語を読むとよくわかります。
 作中印象的な言い回しや言葉は沢山出て来ますが、「一日の半分以上を眠っているあなたと二人きりでいると、昼さがりの時が止まったようで」のあたりの一文が特に愛おしく感じました。『A.I.』(2001.スピルバーグ)や『シックス・センス』(1999.シャマラン)などの印象的なワンシーンを思い出しますが、「片方が眠っている」時間の代えがたさというのは、子どもや親や恋人や、大事な人と過ごした方の多くには納得いただけるのではないかと思います。ありゃいったい何なんでしょうね、あの尊さは。 
 余談ですが、一読目で「ちょっと伏線が欲しい」と思っちゃったのはミステリ好きの本当に悪い癖なので、ここに捨て置いておきます。

「神様」北野勇作さん

 飄々としていて、面白く読める作品でした。なるべく作者を意識せずに読むのですが、読めば誰が書いたかすぐ分かっちゃう文章です。それだけ、文体が確立されていて、作者が自身の呼吸リズムに納得いっているということでしょうか。声に出して読みやすい作品です。
 神様という存在がいることについて「おるもんはおる」くらいの勢いで押し通す感じがいいですね。句点の連続で継ぎ足していくような言葉はいっけん作中行動主体の生の思考をそのまま描き出したようにも思えましたが、冷静になって見ると誰に語り掛けているのでしょう。「わたし」を示す言葉が見当たらないのでナレーションのようです。僕は科学館とかにあるビデオ案内を連想しました。社会科見学とかで見せられるやつです。
 作中では、創られた神様が物理的な質量を持った存在としてつまり実際に見ることができるわけですけれど、この神様の姿がいかようにも想像できるのが素敵ですね。機械なのか、有機的なのか、幻影じみているのか分かりませんが、アニメ化したり漫画や絵にしたりすると、途端に霊性が失われるような、そういう匂いがします。文字の強さを感じます。
 あと、機械と神様というのがあまりにベタなので(作中でもそう言及されている)隠れていますが、視野がとても広いのがこの作品の魅力だと思いました。僕うちのベランダから見える景色には、この八年で五本のマンションが増えましたが、それが自然でないかと言われると、まあ、自然なんですよね、それも。そういう感覚をたぶん作者は持っていて、開発のありようや神様の歴史や、そういうものに「バカだなぁ」と思いつつも、かわっていく景色そのものには愛おしそうなまなざしを向けているのが素敵だなと思いました。設定に割いた文字数が多いので仕方ないですが、そこら辺をもう一口二口、いただきたいなとわがままにも思いました。

「空華の日」今村空車さん

 さてどう読みましょう。よわよわの読者なので、ちょっとむずかしいと思考が止まってしまいます。前半にはリアリティがあってサスペンスチックで、わくわくしながら読み進めました。しかしゴリラから先、とつぜん現実認識が頼りなくなって、情景を巻き込んですべてが崩れていきます。
 なんで? 
 なるほどそういう仕掛けだ、とか、ほう実に面白い試みだとかそういう分かった人しぐさを即座にかましたかったのにできなかったです。なんで? につきます。そんで、このなんでのまま最後まで突っ切って、これからってところで、一番気になるところで終わられたら、もう、なんというか、一周まわって唸ってしまいます。終わるところ完ぺきじゃないですか? これ以上書き過ぎてもなんかモヤっとするし、例えば観音様が出て来たあたりで切ると今度は不足感があるしで、よくこんないい塩梅のところを終点に定められるなと感心しました。思い切って話を終わらせるタイミングが吉田知子先生の作品っぽいです。「ここ」って瞬間の終わらせ方にはなにかコツがあるのでしょうか。習得したいです。

「叫び声」倉数茂

 冒頭行が最終行に回収されている意味を考えています。
 作中の主人公と女性、断末魔の叫び声を通して交流を始めたというシチュエーションの鮮烈さに比して、その心の通わせ方は陽だまりをなでるように暖かく柔らかく、いっけん毒のないように描かれているのが、ぞくぞくっとするポイントですね。というのもすべては断末魔の叫び声を起点に狂っていて、二人とも、意識的に事件から遠ざかってはいるものの、少なくとも彼の方は、ずっと「相手が”ちゃんと”叫び声にとらわれているか」を気にしている。じっさい、彼女の去り際に彼は「胸騒ぎ」をしています。そこにあった感情は、単純にほのかな恋心ではない、もっと後ろめたいものだったんじゃないかなと読みました。
 彼の方は叫び声をきっかけに、本来歩んだかもしれない人生の軸を大きく違えています。ラストに思わぬ形で再開した彼女が、引っ越し以降も彼と同様に叫び声にとらわれて生きていたのだと知ったとき、彼の考えたことは何でしょうか。個人的に、笑っただろうなと思います。安心したと思います。人生を狂わされたのが自分だけではなかったんだという、仄暗い共犯的な心地よさが、本作の、読後の爽快さの中には潜んでいるような気がします。

「聡子の帰国」小林かをる

 やめて! 学歴の話やめて! しあわせにならないよ……だれもしあわせに……という気分で読みました。しかしこの作品を読み通してふつふつとわいてくるムカつき感情にもまたそれはそれで澱んだものがあると気づかされます。ポンと飛び出す一千万円とか、学閥の面倒くささとか、意図的に短大に言い直される短大とか、フルネームで書かれる男性陣とか、地方の見下し、そういう各所に仕掛けられた不快感は、物語を経るうちに「賢い人へのいけ好かなさ」へと誘導され扇動されているように思えました。このいけ好かなさというのはある意味では確信を突いていると僕は思います。じっさいこういう会話は周りにたくさんあって、にこにこと相槌をうちつつも気が滅入る思いです。恵まれて、恵まれたことに無自覚の人に、ある種の共通の仕草のようなものが感じ取れることもあります。
 しかし、束の間スカッとしたいがために、様々な面で恵まれた立場の者を「特権的」とひとくくりにして悪と断じる方に流されると、これはこれでまた危うい。そこらへんが難しいところです。正されるべきは行動なのか構造なのか人なのか、そもそも本作を通して手放しに感じてしまう「正しく無さ」とは一体何なのか、正しい状態というのは自然な状態なのか、いろいろなことについて考えさせられる作品でした。毒タイプですね。
 

Cは個人的に「おつきみ」「叫び声」で迷いましたが、前者を推します。


グループD

「字虫」樋口恭介さん

 月並みでベタな感想だけれど、存在しないものを存在するかのように語れる才能本当にうらやましくて、どうしたら身に付くんでしょうね。樋口さんの腕喰ったら力手に入るんですかね。冗談です。しってます。もっと勉強して読書すればいいんですよね。がんばります。
 「眼の中に住む小人たちが~」とか、あるあるそういう言い回しのやつある、という感じです。また学術的なアプローチをしているのに可読性が高くてびっくりですね。本物の学術本にも見習ってほしいですね。
 ただ伝聞調のエッセイ的な形式で始まったのに、後半「前掲の」みたいな掲載論文チックな言い回しが出てくるのが、はじめ不思議でした。まあ事実記述されている物語なのだから間違いではないのだけれど、ということはこの物語は何らかの目的をもって「記された」文章とも解釈できるわけですね。とすると、主人公が「ほんの先日」字虫のことを知ってから、これだけの文章を記すに至った経緯とは一体どんなものだろうと妄想が膨らみます。祖父が何故本棚を埋めたのか、主人公はなぜ最終文で人の生死を言い含めているのか……そこに『文字禍』が引用されることで、エルバ博士の悲劇的ラストと重なって、字虫と深く関わりすぎると、六枚中に語られなかったもっと重大な影響と言うものがあるのかな、などと予感させられました。

「世界で最後の公衆電話」原口陽一さん

 やられました。こういうのを僕はやりたかったんです。という感じの小説です。負け犬の遠吠えです。ゆるして。
 気を取り直して。こういう、人工物への偏執、たまらないですよね。この世界の中に居たら僕も同じことをしそうな気がします。被造物へのノスタルジーってどこから来るんでしょうかね。
 思えば公衆電話も見かけなくなった……というとこれは嘘で、じつはけっこう普通にあちこちにあって、でもスマホに慣れた僕の目に入らなくなってるんですよね。実物に先行して存在が薄くなるなんて、なんて悲しい存在だろうと思いますが、ふとディティールを思い出してみれば愛おしい。重めの受話器とか、やたらかちゃかちゃ言うステンレスのボタンとか、おそらく多くの人が一度も推したことのない緊急用の赤いボタンとか、電話帳かけるスペースとか、天井のクモの巣とか、車いす用の広いやつとか、ね。
 なんか小説じゃなくて公衆電話を語ってしまいました。こういう、ちょっとノスタルジックで、お役所的な手続きにリアリティがこもっていて、さらに「そこにある」という感触を大事にしている感じがたまらないですね。

「蕎麦屋で」飯野文彦さん

 冒頭二文字で作者が割れるめずらしいタイプの作家さんですね。
 普段グローカル研究に触れる機会が多いので、「世界文学」的なものを志す流れの中にいて、地面に紐づいた作品を出されるとしびれます。普遍性と地域性が共存している。素敵なことです。
 僕は残念ながら甲府に行ったことがないのですが、風景というか、記憶というか、情景はありありと浮かびます。それは僕が日本の地方の都市に暮らしているからで、同規模の都市にはなんだか共通があって、意外と代替可能な部分が多いのでしょうかね。それとも東京やロンドンや上海に住んでいたとしても、同様に得られる感覚が存在するのでしょうかね。
 考えはじめると何だか不思議です。僕がこの小説の抒情を受け取る過程で、町は僕の地元に置換されるのに、作中の主人公や作者にとっては、甲府という舞台が代えがたいものなんですよね。いずれ、甲府に行く機会があったら、その前後で受け取り方が変わるのか、試してみたいと思います。
 物語はストレートにめちゃくちゃいい話だと思いました。マジックリアリズム的な手法を人情噺に使えるのは強いなと思います。

「タイピング、タイピング」蜂本みささん

 この、つめたいまま優しい感じの文章、久しぶりだなと思って読みました(朗読だと印象がちょっとあったかくなるから不思議)。蜂本さんの文体は、かたい、つめたい、やさしいが共存できているところが素敵だなと思います。作中、起こっていることや、登場人物たちが感じていることは鋭いんだけれど、語るまなざしがそれをベールに包んでしまって、こちらと線引きをしてくれるから安心して読める。かといって安直に暖かくなんかしてくれない。そんな所が好きです。抽象的な言い方しかできなかった……もっとうまく言語化できる人を待ちます。
 ユーモア感覚もピカイチだなと思います。「義理の兄だ。これからよろしく。」の下りが素敵ですね。「子指」の突き放したような響きもおおしろいです。ところで僕の地域では小指は「あかちゃん指」だったのですが地域によって違うのでしょうか。
 感想を書きながら指を眺めていると、なんか変な感じになってきました。どうして手にこんな細長いやつ付いとるん? 「中指動け」って念じても動かないのに、中指動かそうと思ったら普通に動くのなんで? こういう、細部への感覚と作品がいつのまにかリンクして、最後の痛々しさにつながるんですかね。「あなた」との関係も、もともと決して悪くはなかったっぽいのが寂しいですね。

「元弊社、花筏かな?」短歌よむ千住さん

 花の連歌ですね。シンプルに、シンプルにうつくしいですね。まず好きな歌の話をしますね。順不同。

   しろたえの職務経歴
   ぬばたまの御社
   グレーなままの外食

 枕詞にこんな使い方あったんですね。白黒の色の対比も完璧ですね。今後の人生で「好きな短歌は?」と聞かれた時のために懐に入れて持ち歩きたい一首です。

   どこまでも照るように澄む朝焼けが
   することのない明日を呼び出す

 これもブラックですね。朝焼けが今日をまたいで明日を呼ぶ感じが、昼夜逆転勢の身体に沁みますね。

   四つ葉なら毎年同じ場所に出る
   生まれ育ちに刻まれたもの

しろつめぐさの四つ葉って、遺伝要因じゃなくって、産まれてから傷ついたかどうかで決まるんですよね。詠み人がそのことを知ってか知らずか分かりませんが、決まったこと、変えられないことなんだと諦めてしまっていることの中にも、実は環境要因のものがあったりするんですよね。

生きてると金がなくなる
咲かずとも一輪挿しを飲み干すダチュラ

いま最高に刺さる一首ですね(生活するためのおかねがない)。そう、娯楽をたしなまなくても、健康と文化的を捨てても、生きるのにお金がかかるんですよね。目の前にポンってなったパパイヤとかもいで食べて生きていきたいですね。

東京の三途の川は黄色くて
スーツがないと地獄におちる

えっ東京怖い。怖いです。住める気がしない。住める人はすごいなと思います。疲れても死ななくていいんだよ。地方においで。地方は別に理想郷ではないけれど、都会に比べて劣った場所でもないよ。ただの人がそこそこいる場所だから。

 という具合に、感覚が分かり易くて好きになれる歌が沢山あります。後半の数首については、直接的すぎて調子も弱いかなぁ(「自殺」「遺影」の登場や、ミッドサマーのネタ的な使い方、花占いの六音など)、とも思ったりしたのですが、しかし都会のサラリーマンの中に在るリアルや、切羽詰まった余裕のなさが表れていると読むと、途端に趣を増したような気がします。
 最後の歌「少しでも光の当たる場所へ行け」が素敵な締めですね。これは上に挙げたダチュラの歌と対応しますね。本来生物というのは、とどまっているだけでは死に向かう。少しでも生存可能性の高い方へ、移動していくことというのは生命の本質なんですね。なんだか前向きになれました。来年度から働く当てがありませんが強く生きていけそうです。

Dグループは全部好きですね。ホントどうしよう。次に進むことを考えると「字虫」が有力ですかね。僕はもう一作おかわりできるとしたら、原口さんの作品が読んでみたいと思います。

グループE

「いろんなて」  大田陵史さん

 よいですね。まず遊園地を舞台にするところが個人的に握手したいポイントですね。しかもただの遊園地ではなくて閉業した遊園地ですからね。大田さんは前回ジャンクション小説を書かれてましたよね。握手ですね。
 ディズニーと揉めた遊園地廃墟と言えばドリームランド系列ですね。ディズニーランドに感動した昭和の名興行師・松尾國三が日本に再現しようとした夢の国がそれです。経営ノウハウなどに関しては本家のウォルト・ディズニーも協力をしますが、喧嘩別れに終わります。ディズニーがあくまで「遊園地を作る」ことをしてほしかったのに対して、日本人は「ディズニーランド」を欲したわけですね。このすれ違いと言うか悲恋と言うか、当時の日本人が「夢の国」を見るまなざしはあまりにも遠く、だからこそ日本の遊園地には、憧憬や郷愁を発生させる地場のようなものが備わっているように思います。
 本作ではかつての遊園地を、ラジオトークの形にすることでより遠くへと置いていて、だからかしら、エピソード全体にはボンヤリ靄がかった、でも不快ではない夢のような、そういう雰囲気が漂います。その中にいて、無数の手につかまれるアトラクションのおぞましさは軽減されて、どこかコミカルで楽しい思い出のように感じられます。
 2ページ目「あまりにも不憫に感じられて~離したくなくなるんです」ってところがとても好きです。ラストのオチはあまりに「オチ」という感じですが、それもラジオ投稿なので当然という感じです。むしろ、こういうキャッチ―な起承転結が語られ続けることによって伝説というのは生まれていくもので、作中で語られる無数の手のアトラクションも、こういった思い出語りがその存在を強くしていくんだなぁ、としみじみ感じ入りました。
 ところで「目がいいんですよ」と言ったリスナーさん、いったい何者なんですかね……

「地球最後の日にだって僕らは謎を解いている」 東風さん

 「地球最後の日」に謎を解いていることを冷静に見つめると、しんみりと寂しくなっていくお話ですね。SF的な整合性はガン無視して読みました。
 作中でも触れられているとおり「警察はもう、ここには来ない」し、語り部の僕は「ロジックに夢中になる辺り、ここの人達はどうかしていると思う」などと振り返る。彼らがどうして最後の時まで謎を解き続けているのだろう。「いかなる時でも謎が好き」みたいなマニア礼賛エンドや、「そんな場合じゃないだろう」のツッコミ待ちや、いろんな受け取り方があるのでしょうが、僕は「様々な法則や日常が損なわれる中、登場人物たちは最も手になじむやり方で”論理性の確からしさ”に触れていたかった」のだと読みました。謎が提示される。それを解く。選択肢を狭めて低い可能性を除外して、その営みの先に真実を見つけることが「この期に及んでも」可能であると、きっとみんな、確かめたかったのだと思います。読み過ぎでしょうかね。
 あと、シーンとしてクライマックスの、空を見下ろしてそこから落ちていくところがまあ何とも美しいですね。大好きです。
 余談ですが、ミステリの難しさは、ミステリ読者の要求度の高さにあって、約束事が多いぶん「これはミステリだ/ミステリじゃない」とか、「これはフェアだ/アンフェアだ」という議論が巻き起こることを(無視するにしても)ある程度意識しないといけないところにあると思います。なので、例えば僕だったら六枚上限のBFCに「ミステリチックな」ものは書けても「ミステリ」を出す勇気はなかなか出ない思うんですよね。「ミステリ」「SF」の、いちゃもん付きやすい二大巨頭みたいなところを使って本戦まで進んでいるのがもうすごいです。

「地層」  白川小六さん

 ぼくは地理地学が好きなのですが、ガッツリはまったきっかけは幼稚園の頃テレビで見た、ストロマトライトの特集です。ストロマトライトは藍藻類の死骸と泥が折り重なりつつ、年に数ミリ単位で成長し、長い時をかけてドーム状になるものです。本作で描かれる泥の上での生活、人々の営みの礎と、自然の泥が交互に折り重なりつつ層をなしていく様子はまさにこのストロマトライトの形成過程そのものです。(欲を言えばタイトルを「地層」とするより「化石」としてくれた方がもっと萌えた気が……)。
 作中ラスト付近では近未来の技術が示唆され、そこに描かれる生活も一見未来の事のように思えます。しかし自然に押し流される前提で物が作られ、流され沈んでも、また生活を立てなければならない。時に移動し、時にとどまり、また忘れた頃に戻ってきて……というスタイルは昔や今とそう違いありません。さらに言えばそこには、鯉や、カラスとの共通も見つけることができます。思えば人の本質は移動することと留まる事との駆け引きにあって、その間の揺れ動きこそが人を生物や自然現象と等価のものたらしめているんですよね。そういう、当たり前すぎてちょっと忘れかけているようなことを思い出させてくれる一作でした。

「ヨーソロー」  猫森夏希さん

 美しい幻想譚ですね。「ヨーソロー」好きな言葉です。今大会では「おかちまち~」に並ぶパワーワードですね。
 とにかく言葉と描写にこだわりのある作者さんだなと思いました。特に、小舟の浮く「ゆわん」からの、盗人の雪駄が弧を描く様は端正でリアル、小舟の波を起こす音まで聞こえて来そうです。
 ヨーソローは号令なので、当然かける相手が居なくてはおかしいはずなのですが、(瘤を数えなければ)作中には盗人しか出て来ません。靄がかった湖の静謐さとこの掛け声とのずれがはなから面白く、名前の読み違えという展開にも愛おしさがにじみます。
 ところでこの「瘤」は何なのかという野暮なことを考え出した時、ふと昨年BFCには「穴」を扱った作品があったなあと思い出しました。思えば「穴」が出てくる作品は結構あると思うのですが、「瘤」の出てくる作品は聞いたことがありません。しかしそういえば、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』に登場するワームホールは球の形をして描かれていた気がします(それっぽい説明付きで)。とすれば、本作の「瘤」も視覚的に瘤の形をしているだけで穴と見做すことが可能でしょうか。
 しかし生き物チックに書かれてますし、生き物として読むか、もしくは生き物のような振る舞いをする現象として読むかした方が、おちつきがいいですね。

「虹のむこうに」  谷脇栗太さん

 あ、好きです。
 ナヌとイヌについての遺稿のところ最高です。ありがとうございます。イヌとサルの言葉遊びも、虹のむこうが何であるかも面白い。冒頭の油絵の”幻獣”が”よく知っている”ものに変わった瞬間の感動がすごかったです。言語相対性も多元宇宙の先であれば否定されずに確からしいのかもしれない。ナヌ族が絶えてしまうのが心から悲しい。多肉に画才のあったことの奇跡が愛おしい。これはロマンですよ。谷脇さんはいつも気張らずにロマンのど真ん中を捉えてくる。素敵です。
 言葉の使い方、選び方も良いですよね。名前の付け方とか特徴的で、多分意味があるのだろうけれどちょっと想像できなかった。でも慈雨とか、なんて綺麗な名前だろうと思います。イヌと相対するナヌという言葉のやわらかさや、手記に突然出てくる目玉焼きの喩えのやさしさがクセになります。

このグループは全作に僕の好きなモチーフが入っていてウハウハでした。中でも一人選んで推すなら「虹のむこうに」です。


グループF

※ここからは進出者決定後の感想になります。二回戦を早く読みたい気持ちで書き急いでいるところがあったら殺してください。

「馬に似た愛」由々平秕さん

 語り手の、辞書の謎を追っていくアプローチが好きでした。この手掛かりの無さはこの手の文系研究のリアルと感じました。超リアル。こう、ソリッドな検証と裏付けを繰り返すイメージの理系研究と違って、なけなしの手がかりから想像の掛け算をしていく感じ。思いがけず繋がって嬉しくなって、でも言い切れる根拠が見つからずにもどかしくて、みんなそれを知っているから、すこしばかり曖昧さを残したまま議論を進めていく感じ。文系研究すばらしい。たとえ「何の役に立つか分からない」と後ろ指刺されようとも。この作品にほんの少しでもワクワクを感じたら、それは何かを知ろうとするなかで最も大事な部分に触れているんだと思います。なんだかずっと触れて撫でていたい作品です。
 あと内容への触れ方に気を付けないと、うっかり「詩人はどうして……」とか、作中の語り手が疑問点を引き継いで読むと、そのまま研究の続きをさせられてしまうのもグッドポイントだと思いました。

「どうぞ好きなだけ」今井みどりさん

 金槌というチョイスが絶妙と思いました。負のアフォーダンスですね。
 金槌って形がシンプルで、作中でも言及されたとおり「握っただけで、次の動作が自然に分か」る度合い、道具のなかでもかなり上位ですよね。振り下ろせばその先に強い力が加わる。動きもシンプルです。シンプルだからこそ、握れば理性じゃないところに語り掛けてくる。頭で使い方をおさらいするワンクッションがないから、自然と思考は用途に向く。
 例えば登場したのが包丁やバールだったら、当たり前かもしれませんが、この話の結末は違っただろうと想像します。包丁だと、それが台所以外のところにあると途端に違和感ですし、バールのようなものはあまりにいかつく、本来の用途をぱっと思い描けないので、もし仮に「加害」みたいなものと紐づけた時、本来の用途に比して、加害する側に想像が傾き過ぎるんですよね。だから理性が働いて行動を止めてしまう。その点金槌の平たい頭には直接の殺意が秘されていて、握った人は握った時点ではその暴力性に気付かない。本作における、ちょっと気の抜けた感じの物語進行は、金槌の形態の妙と上手くマッチしているなぁと思いながら読みました。
 金槌が人を動かしていく様子が魅力的、と思って読んだんですが、ジャッジ評を読むとむしろ営繕さんの方に力点があって、金槌はあくまで道具のようでした。読み違いだったかもしれません。

「人魚姫の耳」こい瀬 伊音さん

 一つの語り手が、各側面について語るときに最も適切な顔を選んで語り掛けてくる、と言った印象を持ちました。語り手は一人なのに、その顔が気付けば変わっている感じというか、匿名の男女のパート、おとぎ話のパート、ねねのパートごとに別な人が同じ声で語っていると言うか、なんだか不思議な気持ちになりました。だからかしら、最後の行空け以降はスペシャルエディション扱いになっていて、戦国時代の、遠いところを書いているにもかかわらず、ふっと現実に戻される感じがします。このパートがあった方がいいか無かった方がいいかは迷うところです。この前後の、文体変化から来る息苦しさの緩和はちょうど、音の鈍く響く水中から顔を出した時の解放感にも似ていて、でも寧々の耳は逆に水底へと行ってしまっていて、そこの逆転が上手い事、僕を寧々から引きはがしてくれたような気がします。ラストがこうでなければしばらく引きずっただろうな。助かりました。
 ところでこれは本当に素朴な感想なんですが、銛で突かれるのと、耳落とすの、はちゃめちゃに痛そうです。書いている時、痛くなかったですか? ちょっと思い立って当該箇所を書いてみたんですが、指先からすっと血の気が引いていきました。

「ボウイシュ」 一色胴元さん

 あー、あー、これも好きなやつです。あと遠野さんの評が素敵です。思ったこと全部明快に補完されてしまった。くやしい。
 そうですよね。「あなたたちはなぜ、同じ話をさせたがる」いいですよね。しかしところで、冒頭の「パッパッパッ」が取材のフラッシュだとして、どういう取材なんですかね。なんでカメラが(おそらく数台)入る様な大掛かりな取材が行われているんでしょう。冒頭、語り手は「日本人のジャーナリストが村を訪れて」いる所から話を始めているので、氏族や民族の中の閉じた取材ではなさそうです。最終段落で語りの相手を「あなたたち」と読んでいることからも、この取材を行っているのがコミュニティの外から来た人間(おそらく日本人?)であるというのは同意なのですが、じゃあ取材する側はなぜ取材をしているのか。「同じ話」というくらいだから、複数の取材人が複数回にわたって、この村で起きたことを「私」に語らせている。背後に何かセンセーショナルな出来事の存在を予感させます。もちろん、作中に描かれる村の戦闘は大変なことではありますが、ぼくの感覚からして、「日本人が何度も取材をするのは日本人に何かあった時だろう」という気はしています。また学術的な調査にしては取材が大掛かりです。
 それをふまえるとちょっと読み方が変わってきて、これは単に文化侵略による喪失の話にとどまらず、そこを起点として「その後何かがあった」ことが隠された物語としても読めそうです。そう読むとラスト「私は見た」以降の繰り返される言葉も、どこか弁明じみて聞こえてきます。

「墓標」  渋皮ヨロイさん

 寄生動物は自らを生き永らえさせ、種を存続し遠くへと運ぶため、宿主を殺さないよう、共生関係を結ぶことが一応の原則となります。これを国民と国家の関係に無理やり当てはめるとするならば、国家を宿主として、それを維持しつつ利益を享受するのが国民という図式になります。本作ではそうした国民-国家の力関係が逆転しているところに面白みがあると読みました。
 本作は強い雨風という環境要因の提示から始まります。次に某国の首相が何の脈絡もなく庭に倒れているという衝撃の展開で、一見サスペンス、ミステリ、またはシュール系の物語かと思わせますが、死体の埋められたところから旗が芽吹く様子などは、鳥の糞が運んできた種が芽を出すような感覚とよく似ています。あるいは寄生虫が宿主を自らの適な環境に移動させるように、首相自身も「国家」に操られる形で庭までやって来たのかもしれません。この感覚から、首相が最終宿主となり、「国」と平時形容されるような「何かしら」を庭に運んできたのだと思いました。
 一方テレビの中にはまだ首相が居て、でも語り手のわたしにはそれが以前とはまるで違うように感じられます。政治に興味があり以前からしっかり覚えていたのかどうかが定かではないので、この語り手の確信も100%信用できるものではないのですが、もし何かしら変化が生じているとすれば、陰謀論的な入れ替わりと読むよりは、国家が何かしらの因子を次世代に引き継ぐため抜き取ったのだと考えると愉快です。
 後半、バジルの葉でも摘むみたいに国旗を抜き取ってオムライスに沿える昼食風景が明るく素敵で愛おしいです。息子に少しずつ現れる変化の兆しは、彼が元々成し得たものなんでしょうか、それとも国の飛来によりもたらされた変化なのでしょうか。興味が尽きません。
 国家と生物的サイクルをフュージョンさせた物語に「暑くてたまらない」など温暖化を連想させる台詞を登場させたり、サステナビリティについて特に話し合われた首脳会談を取り上げたりといった心遣いも、とても素敵だと思いました。

このグループみんな好きでした。そうとしか言いようがないです。初読時は「墓標」勝ち抜けと予想し、「馬に似た愛」を推しました。

グループG(建設中)


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