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「十円」あれこれ

付き合いのわりと長い相方とは、遠距離になった後もしょっちゅうラインをしている。ある日「なにしてんの?」と何気なく送ると「十円玉みがき」と帰ってきた。なぜ? なにしてんの? 彼女はその後「ふふふ」と言葉を添えて、ピッカピカになった昭和の十円玉の写真を送ってきた。ヘッダーの画像がそれである。

電話で十円玉みがきの詳しい話を聞いた。研磨剤にもいろいろ種類があってとか、ドリルの先に着けるタイプの研磨機が優秀だとか、そんな話をしているうち、「十円も鏡面磨きすればそれは銅鏡だよね」という言葉が出た。相方は弥生人が釣りに使う浮と重り(石錘という)について研究していた考古の学芸員なので、この時代の解像度が高かった。とにかくこの発想が今作の切っ掛け、種になった。

十円玉から、なんとか「日本円として十円と言う価値づけが(なぜか)なされているもの」という認識をはく奪したかった。普段違和感なく信託している価値や構造に疑問を持った時、何が起こるのかを見てみたかったからだ。そこで全国の小学生が死ぬほど見てきたであろう、夏休みの自由研究を題材に取った。あの実験は、酸化した銅の板であればなんでもいいのに、手に入らないはずがないほど流通している十円玉が選ばれる。十円玉は本来の意味を越えていく。自由研究の成果として並んだ十円玉を一目見て「これでガムが一個買えたのでは?」と思う子はたぶん少ないだろう。そこにあるのはただ色が変わったり変わらなかったりする銅の円盤でしかない。

十円玉を必死で磨く様子の面白さは相方の熱弁を参考にした。相方は出来上がった作品を呼んで「これ私やん!!」と叫んだ。「外国人が何かを磨く動画」も相方によくおススメされる。沼で拾った泥だらけの時計や携帯電話を分解して汚れを落とし、新品と見分けがつかないぐらい綺麗にしていく動画だ。

さて作品に戻って、ピカピカの十円玉(=十円の価値ではない)を手に入れた子らが何をしでかすかを想像する。ここは自分の小学生のころの経験を参考にした。牛乳瓶のふた、遊戯王のレアカード、ビールの王冠、切手、教室の床の板の目に詰まっているビーズ、いいにおいのする消しゴム、BB弾、綺麗な石、香り玉。彼らの中には何でも拾ってコレクションをしていくやつがいる(私がそうだった)。でも、それだけでは終わらない。コレクションが流行ると、必ず「誰がどんなものを持っているか」でヒエラルキーが発生した。ここで見えてきたのは、「権力と言うのは我々が安易に遠巻きに見られないほどに、原始的かつ根源的なものなのではないか」という発見だった。思えば、銅鏡の流通によって権力と神聖と影響の繋がりを示した古代人の行為も、様相は変わっていても、根本のところでは今と大差ないのではないか。ここで銅鏡の代わりとして磨いた十円玉を石棺に埋葬するラストの景が浮かんだ。父親を主人公とする場合「男って権力好きよね」という遠巻きの読みを誘発しないかと怖れて母親を主人公にした。「いつのまにか服従していて、それに気が付けない」展開が欲しく、創始者である娘ではなく、モブのリカちゃんを頂点に置いた。

当初、正月のシーンが存在した。娘に作法を教え、自分の小銭入れからお賽銭を娘に手渡すシーン。ラストの古墳の前の葬送の段階で、娘から母に十円が手渡されることで、この反転を描きたかったが、どうやっても六枚に収まらなかったので泣く泣く削った。結果十円手渡しシーンはすこし浮いた描写になったかと危惧したが、それでもこの「反転」に思いを馳せてくれるスーパー読者様が存在したので救われた。

造墓のシーンはわきあいあいとした地域の行事、例えば自治体の草刈りなんかを念頭に書いた。例えばエジプトのピラミッドは奴隷や市民を労働力として建設されたが、現場の雰囲気は意外にもゆるく、「二日酔いなので休みます」などの欠勤資料も見つかっている。日本における古墳の建造がどのようであったかは資料に乏しく想像が難しいが、監督者にムチ打たれて働かされる様子より、うっすらと嫌な人もいるけれどなんとなく服従してしまっているほうが訴えかけるものがあると感じた。

懸念があるとすれば時事の問題だった。昨今、世間をにぎわせてきたオリンピック、国葬、宗教問題とはなるべく距離を取りたかった。誰の心にも潜むかもしれない根源的なものを書くにあたって、それに固有の名前を付してしまうと一気に読みが遠のいてしまうためだ。しかしこの読みを切り離すことは(自分の力量不足もあり)できなかった。そもそも結局これらの問題の根底にも同じように流れていることを扱っているのだから当然かもしれない。でもだからこそ、ジャッジには具体的な時事に言及するのであれば「でもしかし、他人事だと言えるだろうか」という添筆が欲しかった。

ラストで得られた「安寧」について明確な答えは示していない。あえて一読者としてのひとつの読み方をするならば、それは権威に服従することで得られる責任からの解放と、自身の立ち位置の安定かもしれない。娘のことを案じているが故の親心かもしれない。「家族」を飛び出した「共同体」への、うっすらとした希求かもしれない。

読み返して、吉田知子の影響が強いことを想った。氏の作品のうち「お供え」は私が気づかないうちに神様に仕立て上げられる傑作で、「迷蕨」は山菜取りに行って、もうすこしと深入りをしていくうちに、謎の祭祀の当事者として頭数に数えられてしまう話だ。著者は自身も相当の方向音痴らしく、講談社文芸文庫『お供え』のあとがきで、「迷うというのも一つの能だ。特技だ。まぎれもなく私の個性だ」と言う。「十円」にて、もし主人公も気が付かないうちに遠い所へ連れ置かれる様相が効果的に描けていたとすれば、それは吉田知子の作品を読んでいたからに違いない。みんな読もう。迷おう。おもしろいよ。

さいごに、読んで感想をくださった読者の方々には最大の感謝を。またの点数を決め、それぞれ苦戦しつつ評を書いてくださったジャッジの方にも最大の感謝を。次回作もよろしくお願いいたします。

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