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小説

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その場で読めるショートショート作品の集積所です。
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記事一覧

プラヌラ

 それははじめ天啓にも似た、けれども自分の内から小さく沸き起こるような衝動だった。  僕はその日、ボーレ・ビルの理髪店前に傾いているガムボールマシンに一セント硬貨を込め、今度こそオレンジ色のガムが出てくるのを待ち望んでいるところだった。銀色のつまみを時計回りに回すと、硬貨が詰まったのか、四時のあたりでゴツッと音がして止まった。まじかよとため息をつき、理髪店の親父にばれないように、マシンを掴んで左右に揺すった。赤、青、黄色、黒、いろんな色のガムが球形のガラス瓶の中で飛び跳ね、そ

ライク・ア・タンブルウィード

 浜辺で歩くマインは、歩いているのか転がっているのかもわからなかった。  海は穏やかで、漣が音を立て、けれどもアサキの皮膚には刺激が強すぎるので、泳ぐことはかなわなかった。マインが風まかせに方々を歩く間、アサキは行きがけに拾った木の棒で素振りのまねごとを始める。海は地球の海と似て、潮風が強いので、浜辺に散らばる流木は一様に白く、すべすべとしていた。これでは手が滑ってしまう。グリップが欲しいな。思いながら目を瞑ると緑の芝のコートが浮かび上がる。遠方に背の高い対戦相手。まっすぐと

グローカライズ

 この町の人間はまどろんでいると、アキは言う。  まどろんでいる。よく言えばのんびりしている。みんなどことなく朗らかで、潮が満ちると逆流する汽水の川のように、ゆるゆると、所在なさげでもある。集合時間を十分過ぎても許される「阿波時間」なんて言葉もあるくらいだ。  年に一度、大きなお祭りがあって、その日の朝、町ははっきり目を覚ます。それから祭りが終わると、またゆっくりと、眠りにつくように静かになる。そんな話をしながら、アキは東京観光のパンフレットに折り目を付けていた。修学旅行

書類に恋した男

 探偵団の朝は早い。  眠たくてすぐに落っこちてくる目を無理やりに開けながら、私、矢原草江は今、駅のホームでふらふらとしている。  この時間ホームで安全確認をしている駅員の水谷さんは、はじめこそふらふら歩く私を気にかけて、今にもホームに落っこちるんじゃないかと目を光らせていたのだけれど、今では呆れ顔を向けて一言「今日も部活かいな」と馴れ馴れしい挨拶を交わすばかりであった。乗客のたくさんいる都会の駅とは違って、退屈な田舎の駅ではたまにこういうことが起きる。煩わしいなんて思わ

手帳

 「過度に華美でない靴下」とは「紺を基調とした、ワンポイント以上の柄のついていない膝下丈の靴下」のことを言うのだと知ったのは、並木の花も落ちきって、坂の麓から学堂までの一本道をすっかり枯茶色に染めてしまった頃のことで、四月の幼い雨に汚れた地面に立ってなお凜と穢れを知らないそぶりで笑っていたその人が都美子先輩でした。  都美子先輩は、当時まだお転婆な一年生だった私の、はねっ返りの泥の乾いた足元をちらと見ると、先生方のように無粋な指摘をするわけでもなく、かといって他の先輩たちの

わたしたちの道徳

 私たちは平等に二十点のノルマを課された。期限は一週間だという。  手元のタブレットにデータが配られた。募金運動のしくみやたいせつさは、先生ではなく、動画のお姉さんが教えてくれた。正直、動画を見たって細かいしくみは理解できなかった。ただ私たちがマークを集めて提出すれば、世の中に、なにかよいことが起こるらしい。今はそれで十分だと先生が言った。先生が言うのだから、たぶんきっとそうなのだろう。私は考えるのを止めて一覧表を眺める。何の商品に何点のマークがついているかの一覧だ。  マ

まいちゃんのまいご

 ふと目を離したすきにパパもママも消えてしまったんだけど、ふと目を離したり、意識を手放して建物の外にまで飛ばしたりするようなことは、まいちゃんの日頃の癖だったし、そうしてても困るようなことはあんまし起きなかったので、これはまいちゃんと言うよりもパパとママの落ち度なの。  いつもと違って人がいっぱいいるから注意しなさいよって言われて、だからちゃんと手を離さなかったし、おもちゃコーナーとかガチャポンとか見たくっても、勝手に走っていかなかったし、それなのに、ちょっと待っててって言

バス停山

 ガタンとも言わずに車体は揺れた。運転席のちょうど背中にある〈急停車に注意〉の表示が点灯した。ブーとブザー音が鳴って、前側の扉が開く。一番後ろの席がいいとはしゃいだ悠も、今は目を瞑って窓にもたれかかっている。窓の、悠の頭の当たった所だけが、うっすらと白く曇る。運転手が後ろを向く。 「降りる人おられませんね。いいんですね」  声にいら立ちが混じっていた。三回目ともなると仕方がない。駅前行きのバスは先ほどから、降りる客もいないのに降車ボタンを押され、その都度律儀に停まり続けて

十円

●2022年BFC(ブンゲイファイトクラブ)4 一回戦の出場作品です。

袖を引く石

 波に生える煙突を見に岬を訪れた。何でも海没した炭鉱施設の遺構らしい。煙突と言うには短く、寸胴の筒といった印象を受ける。筒は大きいのと小さいのの二つがあって、所在なく揺れる波の中で一寸も動かず立ち続けている。  岬は名を黒崎と言って、なるほど岩や砂の所々が深く黒ずんでいた。触れようと指を寄せると、砂は自ずと這い寄ってくる。驚いて目を凝らすが、砂は砂のままである。 「ここらのもんじゃないな」  声がしたので顔を上げると、老人が一人立っている。かなりの高齢だが背は高く体格も

 早朝の教室にはありさ一人がいて、ちょうど花瓶の水を換えているところだった。私はそれを気に留めず、一言「おはよう」と声をかけた。ありさは「今日は早いんね。朝練?」と涼やかに笑って自分の席についた。それきり二人の会話は途切れてしまった。窓はひとつだけ開いていて、ちいさい風がちょっと吹く。百合の甘い香りが教室を通り過ぎていく。それが一通り吹き去ってしまうのを待ってから、教室を飛び出した。朝練の準備を始めるにはまだ早い時間だ。でも、そのまま教室に居座っていても、手持ち無沙汰があるだ

ぽんぽこあわもち

「名物の『ぽんぽこあわもち』です」  大きな一枚板の座卓の真ん中に、小皿が置かれていた。 「まあ、食べてみんさい」  小皿には包装紙に包まれた餅だか饅頭だかが二つだけ乗っている。私はその一つ、紅と白があるうちの紅色の方を手に取って開く。中から黄金色の、潰れた形の餅が顔を出す。 「これ、去年出来たばっかりの新名物なんです。新名物って言っても、文献を調査してね、古い名物を再現したんですわ。芋の一種を餡に使って、それを厩肥で包んで焼くんです。狸の伝説があったらしいんで、ぽんぽこあわ

ある日の笑点

 山田君、小遊三さんの一枚持って行っちゃって。それでは次のお題に、山田君。山田君? どうしたんですか。こら、山田君。こら、何やってん……こら、山田君。やめなさい。やめなさいったら。山田君! こら、放送、放送中、どうしたの、ちょ、まって、なんですかこれ、どうしたの山田君。ちょ。みなさん。なにか聞いてる? これ。ちょ。なんですか。また、こら、やめなさいったら。なんだこれ、どうなってんだ。えー、みなさん。お客さん、ね、どういう事ですかね。ちょ、もう、やめなさいって、山田、山田君、こ

 広場の中央にそびえる時計台が十八時の鐘を鳴らし始めたその瞬間、男は礼服を翻してカフェのテラスに降り立った。そのたたずまいや、病的なまでに白い肌は死神のそれを思わせた。彼は込み合ったテラスの喧騒からただ一人、私だけを鋳抜いて真っすぐに歩み寄った。 「斎藤様でいらっしゃいますか」  突然名前を呼ばれたものだから驚いて、持っていた雑誌を落としてしまった。 「どちらさんですか」 「三年と十一か月前にご登録いただいておりました、斎藤様でいらっしゃいますね」  死神はもう一度私の名前を