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十四億の人の力、スパイスの国で生き抜け



「うんち踏んだ」
友人の足元を見ると牛の糞を踏んでいる。大きい。サンダルからはみ出ている。湯気が立っている。気にしている暇はない。
「早く渡って!」
大声で叫ぶ。鳴りやまないクラクション。車、バス、リキシャ、人力車、牛が行き交う。信号はない。轢かれる前に渡りきる、初日を生き残るためのミッションだ。

バックパッカーに憧れた大学生二人。宿は予約していない。自由気ままにその日暮らしで寝床を決める。クールな旅人を演じたかった。

「地球の歩き方」を握りしめ、本に載っている宿に向かう。道順を尋ねると皆、親切に教えてくれる。言われた通り、いくら歩いてもたどり着かない。明らかに場所が違う。全員に嘘をつかれた。

後になって、この国では、「知らない」と答えるのが恥なので、自を持って適当に言うと分かった。

我に返ると、日は暮れはじめている。希望の宿とは違うが、大通りに面した安全そうな宿に決める。宿泊代は二人で六百円。言われた部屋に向かうと既に人がいた。
「どっか行け」
と言っている。スタッフに伝えると、「お前が出て行け」
と言えばいいそうだ。スタッフは、「当たり前のことを聞くな」のオーラを全身から出している。
そんな雰囲気にムカついたが、スタッフに「お前がやれよ」
とは言い返せなかった。部屋に戻るとさっきの男はいない。今だ!部屋に入り、雄人形の調度品のような鍵をかけた。男はすぐ戻ってきてドアをどんどん叩く。
「俺の部屋だ」
と叫んでいる。おしゃれ用に持ってきた麻の紐のベルトでドアノブと柱を結ぶ。鍵穴からのぞかれないよう、穴に鈴筆を突っ込んだ。相手は負けを認めて去った。ほっとしてトイレに行くと「おみやげ」が残っている。大きい。友人と無言で泣く。

海外旅行は初めてだった。三週間の滞在予定で東南アジアなら三万円で足りると思っていた。
宮殿のような墓や聖なる川を観光する予定だった。

現地で、日本人らしい快適な旅をするには全く足りない額だと思い知る。ゴキブリだらけの寝台車や、降りるときに突き落とされる地元民のバスに乗る。

何日かすれば、何でも笑えた。
笑顔の多い国民性ではないし、すぐ嘘をつくが、困っているときには優しかった。砂ぼこりが入り目をこすっていると、顔を洗っていないと思われ水をくれた。寝台列車の中で何も食べずにお腹を空かせていると、豆の袋をくれた。友人が「鳩じゃねーんだよ」
とぶつぶつ言いながら、一粒残さず食べた。

あらゆる場所で見る民族衣装は美しかった。列車で恥じらいもなく横になる女性は、高齢だが華やかな衣装に身を包み、鼻ピアスを付けている。横たわる姿は湿梨像そのものだ。観光地への行き先を尋ねたが、そんなことを考えていて何も聴いていなかった。どうせ嘘の情報と心の底でわかっていた。

食事だけはどこで食べても美味しい。スパイスが効いている。辛くて汗が出た。いらない脂肪どころかいらない感情も流れていく。食後にはチャイを飲む。

町で小さなこどもが店を手伝っていた。澄みきった瞳と笑顔で飲み物を配っている。どこで飲むチャイも繊細な味で美味しかったが、そのチャイは格別においしかった。奥で親らしき人が愛おしそうにこどもを見ている。愛情が飲み物から伝わった。この感覚は流さず大切にしよう。

握りしめていた「地球の歩き方』だが、帰国して再度目を通すと取材データに「あらゆる情報は変更されます。できる限り現地で確認してください」と書いてある。この本もほとんど嘘だ。

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