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かんたんにネ、「共に生きる」なんてネ、言いますけどそれ、むずかしくないですか?


あらたまって言うのもアレなんですが・・・。
「たもとの会」って、コミュニティでも何かの会合でもないんですけど、たまたま今はリアル「たもとの会」を月イチでやっていて、そこで今は本を読んでますが、「たもとの会」は読書会というつもりでもなくて、色々思いつきでやっています。まぁ敢えて言うなら「たもとの会」はなんでもない、ただこのnotoのタイトルというくらいのものです。(←なんとなく言っておきたくなった)ということで、先般6月27日土曜日にリアル「たもとの会」ありました。
竹之内裕文著(死とともに生きることを学ぶ――死すべきものたちの哲学)5章 限界づけられた生の希望――共に生きること、本当に生きるこ
を読みました。

レポートを書こうと思っておりましたら、参加者AZさんから「つかれた」というタイトルのメールが・・・。何に疲れたの?大変なの?とドキドキしながらメールを読むと、長文のレポートが!!
ありがとうございます。みなさんにシェアさせていただきたいと思います。

たもとの会6月まかない

6月たもとの会のレポートbyAZ

こんにちわ。たもとの会参加者のAZです。
6/27(土)に第6回読書会が開かれました。今回は5名の少人数でした。
少人数だしじっくりやれそうだね、ということで、これまでは章をすべて読み終わってからお話をする時間をとっていましたが、今回は節ごとに区切りながら、少しずつお話の時間をとることになりました。5章には5つの節がありました。順番に、思い返していければと思います。

1.「生きる喜び」と「生命の尊さ」-阿部恭嗣からの問いかけ

この節では、阿部恭嗣さんがありのまま舎を退去し国立西多賀病院に移った経緯、それにより「溌剌とした自立生活の面影はなく」なってしまった彼と出会った著者が、「共に生きる」ことと「本当に生きる」ことの関係を思考し、「限界づけられた生の希望」に迫っていく投げかけがなされた。
参加者5名のうち2名は阿部さんの映像を見たり背景を知っていたりしたので、それによって思うことが変わるのではないか、という意見がでた。1章で書かれたありのまま舎での彼の生活は、自立生活に向けてさまざまな障壁にぶつかりながらも、なんとか生きてきた前向きなもの(のように私には見えた)であった。困難→葛藤→克服というストーリーに見えた。そんな彼が、周囲との軋轢によりありのまま舎を出ていかざるおえなくなり、自立生活をあきらめなくてはならなくなった。このことを眼前につきつけられた私たちは、導入部であったこともあり「なぜ?」「どうして?」というようなモヤがかかった状態だった。

2.共に生きる-その試行の足跡

阿部さんの過去が語られる。自身に病気が発症し、父の急逝により母は勤めに出ざるをえず彼の世話ができなくなったため、国立療養所西多賀病院に入院することになった。病院の近くのベッドスクールで、様々な病気・障害をもつ級友たちと過ごした彼は、その生活を「どこかの寮のようであり、みな和気藹々に過ごしていた」と感じながらも、「社会から隔絶されているという共通認識」に基づく共同体であったとも感じていた。『いわば「閉ざされた共生」』であったと著者は言う。
その後筋ジストロフィー症専門病棟に移った阿部さんは、仲間たちが次々と死んでいき、そしてその「死」が隠蔽される恐ろしい状況に身を置くことになる。こうした状況から、自身の生と死の意味を問い続けるなか、「自立生活」へと踏み出していく。

悲惨な状況を目にしたとき、人は、無意識に自分と遠ざけて考える傾向にある、と思う。自分と切り離して考えることで「しょうがない」とあきらめたり、過度に攻撃して近づけないようにする。自分を守るためだ。この病院のエピソードは、読者にそうした反応を促すのに十分であったように思えた。だから私は、この「悲惨さ」に焦点をあてた話はしたくなかった。この節において考えるべきは節末に書かれた『「共に生きる」とは、「障害」の有無を'度外視'してふれあうということを意味しない。「障害」という事実が無視されるところでは、「ありのまま」の姿で生きるという可能性が奪われてしまう。むしろ障害という厳然たる「垣根」を'見すえ'ながら、しかもその違いを'越えて'、いのちを響き合わせるとき、そこに初めて「互いにいのちを認め尊重し合う」生き方が披かれる。』(''表記は傍点の代替)という部分であると強く思えたからだ。'度外視''見すえ''越えて'となぜわざわざ傍点がふってあるのか、著者が本当に伝えたいことはなんなのか、参加者の中にもそうした探究心が芽生えているように感じた。

3.本当に生きる-かけがえのない自立生活

「本当に生きる」とはどういうことなのか。どういうことなんでしょうか...本当に。
著者は、阿部さんの介助に携わっていた当時、『介助を常に必要とするということは』『ある意味で屈辱的なことであり、かりに選択の余地があったとしたら、阿部自身、介助を要しない生活を選択するのではないか』『「強いられた共生」ではないのか』といった疑問を禁じえなかったという。私は、この本のこういう部分がとても好きです。正直だから。なんとなく感じる違和感、けれども口にするのははばかられるような違和感を具体的に思考し、そうした思考をした自分とも向き合い、その過ちともまた向き合う、この本はこうした作業の繰り返しをしていて、この著者の態度が、読む側にも、「あ、こんなこと思っていいんだ」という気持ちを抱かせている、と思います。もちろんこのように書けるのは、阿部さんとの信頼関係があってのことはもちろんですが。
話を戻して。著者は、「阿部が自立生活を営む原動力を十分に理解していなかった。」と言います。『阿部にとって自立生活は、仲間たちの遺志を遂げる場』であり、『それは「強いられた共生」であるどころか、「宿願の共生」』であり、『それ自体が「本当に生きる」という試みにほかならない』であると考える。
その見地から、「本当に生きる」について、3章で出てきた「よく生きる」という課題との対比を試みる。参加者の間でも、この「よく生きる」ということについての話が活発に交わされた。『生きているかぎり、人は経験を重ね、新たな知見を獲得する。経験や知見が蓄積され、関心や目標も変わっていくだろう。それとともに「よく生きる」ことの理解は変化する。』部分について、経験を重ねると、見えなくなるものも出てくるなぁ、慣れてくると大事なものがわからなくなるなぁ、というこの読書会において頻出している感想が出てきた。この本は、人のその部分を刺激し続けている。ただいつもと少し違ったのは、ここから4節に向けて「自」ではなく「他」の視点という要素が出てきたことだろうか。著者は、『「生きる」ことの根底にあるもの、それはもうひとつには、他なるもの「生」である』と、阿部さんが多くの仲間たちの「死」を受けとめてきたことから読み取る。ここに、今この瞬間自らの「生」、この本を読む私の「生」を引き寄せるヒントがあるように、私は感じた。

4.視点の転換-障害を恵みに変えて

ここでも、参加者の感情を刺激する文面が登場した。『じっさいわたしたちは、生の制約を受け入れるどころか、それを踏み越えるための奮闘を続けている。』『出産に際しては、高い知能と麗しい容姿を備えた子どもを望み、老いてなお永遠の若さを願い、アンチエイジングに追い立てられる。』『障害を抱える子や老いた自分とむき合い、そのありのままの存在を肯定することができず、自他の存在をコントロールしようとする。』

本当にそうなのよねー! みたいな感じになりました。

3章で阿部さんが洗礼を受けていることが明かされたが、私も含めキリスト教に対する理解が乏しいものにとっては、彼と「神さま」との関係がどのようであったかは正確に理解することは難しい。「障害を恵みに変える」という言葉も、単に今の状況をポジティブに受け止める、といった姿勢よりもはるかに深い意味があるのだろうと想像できる。阿部さんが、仲間たちの「死」、そして自分自身の「死」と向き合い。それを「極限的状況」と表現していることから、著者は『「極限」からしか見えないもの、捉えられないことがある』と言う。『生の制約は「本当に生きる」ための必要条件である』とまで断ずる。上記の『正体不明の「望ましさ」』を求める自分に強く嫌悪感を感じながらもこの本を読む私たちにとって、「極限状況」とはいったいなんなのか?そして阿部さんにとっての「他者」であった「神」のような、私たちにとっての「他者」は存在するのか?
「限界づけられた生」の「限界」を、単に寿命や疾病による命の時間的限界という捉え方でよいのか?4節にして多数の疑問がわいたが、残りはあと1節、おそらく解決はしないだろうな、と感じながらも、最後の節へとみんなで飛び込んだ。

5.光を嗣ぐものと共に生きる-「限界づけられた生」の希望

『障害をもつ人間と「共に生きる」ことについては、阿部との長年のかかわりを通して学んできたつもりだった。にもかかわらず、当の「障害」をもつ者が自分の子であるという事実を、自分は無条件に受け入れることができない。それはどうしてなのか。』

『もしこの子が生まれてくる力が秘められていて、この世界に生を享けることができたならば、心から歓迎して家族に迎え入れよう』

こうした言葉は、大学教授であり哲学者である前に、この著者がひとりの、「死とともに生きることを学ぶ死すべきもの」であることを強く、そしてあたたかく感じさせてくれました。本当はこの言葉が生まれる経緯も書き上げたいのですが、そこは実際の読書体験に譲ります。

『「共に生きる」ことを離れて、「本当に生きる」ことは成立しない。また逆に、「共に生きる」ためには、「本当に生きる」姿勢が欠かせない』のであれば、私たちは「何と」共に生きているのか?と疑問を持った方もいました。職場の人たちとは「共に生きて」いるのか?家族とは「共に生きて」いるのか?友人とは「共に生きて」いるのか?そうしなければ「本当に生きる」ことはできないのか?この節で何度も何度も出てきた「本当に生きる」という言葉がさながら鐘の音のようになんども参加者の胸をうっていて。
大きな問いが残ったまま終わった、そんな会になりました。
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AZさん、スバラシイまとめありがとうございます!!!
参加した人はこれを読むといろいろ頷くことたくさんあるのではないでしょうか。今回は参加申し込みも多かったのですが、直前になり都合が悪くなる人が重なり結果的に少ない人数になりましたが、これはこれでとっても良かったです。ありがとうございました。
「共に生きる」という言葉、割とよく見かけるというか、そのせいか重みもないというか、読む前は「本当に生きる」ということにむしろ関心があったように思うのですが、読んでみると「共に生きる」という生きとし生けるもののお約束のような問題に突き当たってしまうのでした。惑いました、ほんとに。
そして、ねちこくねちこく読む会はこれからもしばらく続きます。とは言えもう後半戦ですね。
しんどいねんな。でも考えたいのな。なんなんかな。

はい、次回のお知らせです。
7月25日(土)19時からデイサービスぐらんどにて、たもとの会第7回をやります。
竹之内裕文著(死とともに生きることを学ぶ――死すべきものたちの哲学)6章  森と湖の国の「福祉」――他者と共に生きるためのレッスン 
を読みます。
参加費 本を持っている人500円 初めてで持っていない人 本代込2000円 です。 軽食つきです。
お問い合わせ、ご参加のご希望は メールでお知らせください。
ますいよしえ:g3u@outlook.jp まで。

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