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年明けつれづれ

近年になく平穏な年明けと思っていたのですが10日以上経ったあたりから、「やっぱりね♪ そうだろね♪」な感じで、そうは問屋が的なことがあったりします。(なぜか、自分にとって好ましくない状況が訪れたときこのフレーズが脳内に流れる仕様になっています。ワタシ)
自分が厳しい状況に置かれているときに自分を立ち直らせるのは、自分の内側からなのでしょうか。外側からなのでしょうか。
去年の秋に買って少しずつ読んでいた「掃除婦のための手引き書という短編集に図らずも助けられています。著者のルシア・ベルリンさんは傍目から見聞きする限り、壮絶というか辛苦に満ちたというか、大変な人生を送られたようです。だれかのレビューにあったけど、人生経験がちりばめられた小説には、すごく剥き出しで表現しづらい迫力があります。どこかさばさばとしていて達観とはまた違う泥水の水たまりだらけの道をぴょんぴょんと少々の泥はねなどはものともせず通っていくようなカッコよさもあって「じっとり落ち込んでなんていられないよな…」という気にさせられます。
生きていくってそんなもん!そうそう。
ところでこの本の中に「喪の仕事」というお話があります。
掃除婦の主人公が亡くなった人の家の片づけと掃除をするお話です。

引用
「最近は、住人が死んだ家の片付けをしている。家を掃除し、引き取るものとグッドウィルに寄付するものを遺族がより分ける手伝いをする。
中略
どちらにしても悲しいのは、あっという間にすべてが済んでしまうことだ。だって考えてもみて。仮にあなたが死んだとして、あなたの持ち物を全部片づけるのに、わたしならものの二時間とかからないのだ。」

ぐっときませんか?

わたしの経験です。
わたしは若いころ半自給自足的な暮らしをしていたことがあります。田舎に住処を探して、廃村のような場所に行って廃屋を見せてもらうというようなことをよくしていました。20年とか、もっとそれ以上空き家になっているような家の中は空虚な空気に満ちていて、でもここには確かに家族が暮らしていた生活の物音が遠くに聞こえるあの感じ。その中に全く縁もゆかりもない私がいる何とも言えないあの感じ。
田舎の町でヘルパーをしていたとき。
広い家の中に夫に先立たれたおばあさんが一人暮らしていました。子供たちもたくさんいましたが、みんな遠くに暮らしていて、家の中は広い部屋のいつも座っている一角と介護ベッドと台所の一部とトイレだけしか使っていませんでした。ここでも、かつてにぎやかに家族が動き回っていた物音がどこかで聞こえる気がしました。そのおばあさんはここにいるのはさみしいのだと、特にどこが悪いということはなかったのですが、不定愁訴で長期入院しました。病院は良い環境には見えませんでしたが、おばあさんは家に帰りたくないのだと言っていました。わたしは誰もいないあの家の中を想像していました。いつも湯のみ一個とガラスのコップ一個だけ布巾の上に伏せておく、あの台所を。
今いる神戸では、震災後に建った復興集合住宅に一人住まいのおばあさんの家を思い出します。元気な人でしたが、大腸がんが見つかりました。自分ががんと知り、元気だったおばあさんはすこしずつ弱りました。最後までこの家でいると言っていましたが、最後はホスピス病棟のある病院に入院しました。どうしてものお願いで「家に置いてきた物をとってきてほしい」と頼まれました。持ち物の片づけ方や置き場所にいろんなルールのある家の中でした。説明してもらった通りの場所に頼まれた物がちゃんとありました。西日の差込む、むっとした室内は外の往来の音はしているのにシンと静かでした。
おばあさんがその家に帰ることはもうありませんでした。
身寄りのないおばあさんの部屋は葬儀の数日後にケアマネさんと懇意にしていた近所の人によって一日でバタバタと片づけられました。片付けの途中に覗きに行って、あれほどこだわって仕舞われていた物たちは雑然と広げられて、「これどうする?もう処分しかないよねぇ」「もしよかったら要りませんか?」などと次々と処理されていき、わたしは、延長コードとわたしが代わりに買った体操用のゴムボールを貰ってもいいか聞きました。
「どうぞ、どうぞ!どうせ捨てるだけだから!」とケアマネさんは笑って言ってくれ、私も笑って「ありがとうございます」と言ったのでした。
たもとの会1回目は1月30日ですが読む本はこの本ではありません(笑)
ご参加くださる方はこちらで↓
https://kokucheese.com/event/index/588228/
本の準備があります。飛込み参加は難しいのでよろしくお願いします。

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