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生(死)の諸課題はその人のもの。親(子)といえどもそれを奪ってはならない。

7月24日から25日にかけての未明の時間、神戸は激しい雨と雷が鳴っていました。夜中に聞く激しい雨音と雷は、じっとりとした湿気も手伝って子供の頃同じような夜に目が覚めたとき、言いようのない恐れに囚われたときの感覚を呼び起こします。
子供の頃から「死」を想い、怖くてたまらなかった。今も怖いですが、なぜあれほど怖かったのだろうかと思います。未知のものだから、わからないことだから、それでだったのかなと思いますが、それだけだったのでしょうか。

25日は朝方までよく降っていましたが、昼頃にはねずみ色の雲は厚いものの降っても小雨程度になってくれました。
お陰様で夜無事にたもとの会を行うことができました。
7人集まって本を読みました。
竹之内裕文著(死とともに生きることを学ぶ――死すべきものたちの哲学)6章  森と湖の国の「福祉」――他者と共に生きるためのレッスン 
今回も先月と同じように6章をほぼ1節ずつ読みすすめるスタイルをとりました。

1.新しいレッスンー子どもを「他者」として受け止める
この節の前、6章の冒頭にある詩にご自身の子どもさんとの関係を思い、子どもを他者として受け止めるということの困難さを感じている参加者の方がいらっしゃいました。ここでは著者がダウン症の息子を授かり、そして共に生きる過程で周囲の反応に傷つく一方で自分自身がダウン症の息子を特別視していることに気づかれます。
この節では、こういった特別視や、肉親を「他者」として受け止める難しさについて自身の経験を話し合いました。このnoteのタイトルにある文言はこの節に書かれていました。
わたしは「他者」である子どもの生と死を引き受けることは不可能、その諸課題を奪ってはいけないというくだりに、生を奪う、死を奪うとはどういうことなのだろうかと考えこみました。

2.森と共にある暮らしースウェーデン社会を根底で支えるもの
スウェーデンは夏が短い厳しい自然環境です。お日様の恩恵が少ないのですね。最近の雨続きのお天気のあとの晴天のあの気持の良さは、誰とでもほとんど同じ気分を共有できる数少ないものではないでしょうか。
わたしは神仏を様付けで言ってもあまり心が込められませんが、お日様、お月様は、なんだか普通に様をつけて呼びたくなる対象のような気がします(笑)
そんな地域性を持つスウェーデンでは、子どものころから当たり前に森や湖とともにある暮らしがあります。その暮らしという体験は心身の五感を研ぎ澄まし、全ての生き物が自然に依拠していることを自然に理解できていくのでしょう。「センスオブワンダー」と表現されるー神秘や不思議に目を見張る感性ーを培うと書かれています。
医療サービスの供給も抑制的であり、「延命措置」はほとんどなく、胃ろうなどの経管栄養や補液の措置もとられないのもそういった自然観が影響しての「自然な看取り」なのか。
普段経管栄養の利用者をケアしているという参加者のひとりが、「自然な看取り」という言葉に対し、家族の思いなどを考えると「自然な看取り」そのものが一体どういうものを指して言うのか。では今の自分のケアはなになのかとの戸惑いを話してくれる場面もありました。

3.他者と共に生きる社会ー子どもと女性をめぐって
4.スウェーデンにおける障害者の生活ーパーソナルアシスタントを雇用する

この2つの節ではスウェーデン社会の特徴として子どもの教育、女性の活躍福祉施策(特にパーソナルアシスタント〉について、その歴史についてもおさえつつ、実際にスウェーデンで暮らしたからこその、内側から見えたスウェーデンの状況を書いてくださっていて、関わりのあった人とのエピソードも交えての説明は具体的で理解しやすい内容です。
わかりやすいのですが、わたしも含め参加者のほとんどがあまりの日本と違いに、その状況をおそらく実感的に把握できなかったのではないでしょうか。どうすればこのようなことが実現できていくのかということが話題になりました。そしてパーソナルアシスタントについては、サポートとか支援などと、アシスタントとは随分意味合いがちがうというような意見がかわされました。ケアを行う上で相手を理解すること、相手の呼びかけに聞き従うこと、と口で言うのは簡単ですが、参加者はそれぞれの経験から難しく感じることについて思いを交わし合いました。
書かれていることの中で重く響いたのは
「手助けするこということは、さしあたって正しくはないし、また他人が理解しているものを理解しないという汚名に甘んじる自発性なのだ。(キルケゴール)」←難しいです。介助の営みは相手を理解すること、理解するために相手の呼びかけに聞き従うことから始まる。いろんな対象の方がいらっしゃり、理解がとても難しい。でも失敗を重ねながら何度も向き合う、それをしなければいくら手を尽くそうが、「何の助け」にもならないとまで著者は言います。現場では本当に「何の助け」にもならないケアがおそらく溢れている。それを変えていくのに前述のキルケゴールさんのお言葉、「他人を理解しているものを理解しないという汚名に甘んじる自発性」→「不理解」という汚名→全然わかってないやん!わたし!という自覚。
しんどい話です。結局自分に向き合う話です。

5.障害者と共に生きる社会の歩みー「ノーマライゼーション」と「施設解体」
そのような日本とは違うスウェーデンの福祉の有り様はどのようにして形作られてきたのか、伝えられている歴史を踏まえつつ、現地に身をおいて知った微妙に違う内容も交えての福祉施策の変遷が説明されています。
障害者が、特別な環境である入所施設から出て、パーソナルアシスタントなどの制度を使うような自立的な生活に変わっていくには社会もですが、身近な親たちの考えも変わる必要があったようです。
「ノーマライゼーション」「自己決定」というわたしにとっては扱いづらくて敬遠しがちな文言がたくさん出てきて、こういう言葉が目につく文章はだいたい避けるのですが、この本を読む上では飛ばす事ができません。
親たちは自分が選択した子どもの施設入所の判断を問われている気持ちがして、苦しんだというようなことが書かれていました。そして地域社会に我が子を送り出す不安についてもです。当たり前の気持ちだと思いますが、その気持を理解した上でも、1節で著者の竹ノ内さんが気づかれたこと、周囲の視線がどうこうということもですが、自身が我が子を特別視していたこと。子どもを「援護」の対象とみなす発想を脱却することがスウェーデンの親たちにも必要な試練だったのがわかります。

6.人間としてよく生きることを支え合うーケアと権利の相克を超えて
7.対話を通して他者と出会うーむすびにかえて

またこの節では耳の痛い話が掘り下げられていきます。
本来障害者に限らず、人は自分自身が「自らの生活の最高の専門家」であるというのですが、これ、当たり前のようで当たり前ではないのです。
障害者が必要とする社会サービスの「専門化」の負の産物は障害者がサービスを提供する専門家たちに依存的になってしまうということ。専門職によるケアは「よりよいケア」とでもいうような「善意」らしきものを振りかざして、本人の判断や希望よりも自分たちが勝手に望ましいと考える状況を作り、本人を無力な客体に仕立ててしまうということ。
痛い・・痛すぎる。
5章で読んだ筋ジストロフィー患者である阿部恭嗣氏の願い続けた「自立生活」そして「本当に生きる」ということがどういうことなのか、また考えさせられる展開です。阿部さんのようにその権利を訴えたとき、ケアを提供する側との衝突は避けられないことのように思いますが、それを提起しながら著者は考えろとわたしたちに投げかけています。
わたしもまた今、いわゆる「介護」を生業として生活する者として、重い重い問題です。ああもう逃げ出したくなりますね。
だいたい「福祉」ということわかんないし、嫌いな言葉なんですよね。わからないから。こんな商売することになろうとは・・・トホホです。
とここで、「福祉」という言葉についても考察が進められていました。
日本では「社会福祉」が「障害福祉」「高齢福祉」「児童福祉」と分類されて専門家もそれぞれ細分化されています。専門的になることは良い面もあるのかもしれませんが、その帰結として諸実践を統合する「ケア」の理念が欠落することになるというのです。スウェーデンでは「包括的福祉」の諸政策が進められてきたようです。
とはいえ、グローバリゼーションの進展のなかでスウェーデンでも単純に理想化できない現実の課題も現れてきているとのことです。わたしには難しすぎてよくわからないのですが、完全に正しいものなどないのだとしたら当然そういうことだってあるでしょう。
でもそれでもスウェーデンはこれからも問題に対して向き合いながら解決の糸口を模索し続けるであろうと書かれています。
その背景にある文化、日本に欠けている文化が「対話する文化」です。
本当の意味での連帯ということ、「共に生きる」ために空気を読んだりすることではなく、一人ひとりが自由に発言し、互いの発言に真剣に耳を傾ける。という開かれた「討議の場」が必要なのではないかと提起されています。民主主義もわたしにとっては難しい言葉です。
最後に・・・。去年亡くなった母に対してわたしは専門職だった。それも出来損ないの、、と思いました。このnoteのタイトル
「生(死)の諸課題はその人のもの。親(子)といえどもそれを奪ってはならない。」を噛み締めます。
それにしても「対話」に魅せられ「対話」にこだわる竹之内さんに感化されてきているような気がします。うまいことこの章の最後で「対話」やで!カモーン!な感じのメッセージに乗せられそうになりました。
そしてやっぱり今回もまた体力いりました。

今回のまかないはそば米汁でした。やっぱりしんどいだけじゃね。(青いものがないのさみしいね。)

蕎麦米汁

次回のお知らせです。
8月22日(土)19時からデイサービスぐらんどにて、たもとの会第8回をやります。
竹之内裕文著(死とともに生きることを学ぶ――死すべきものたちの哲学)7章 人間の生の拠り所としての「ホーム」――ホスピス運動の源流から展望する 
を読みます。
参加費 本を持っている人500円 初めてで持っていない人 本代込2000円 です。 軽食つきです。
お問い合わせ、ご参加のご希望は メールでお知らせください。
ますいよしえ:g3u@outlook.jp まで。

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