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動物を食べること

生活ができないとは、お金に困っていることです。
わたしもお金に困って不安な生活をしていた時期がありました。
ですが、本当に困ったことはないかもしれません。
今に限ったことではないと思いますが、ご時世ですね、、路上生活を余儀なくされている方のインタビュー、お財布に小銭だけしかない様子がテレビニュースで映し出されていました。わたしはお財布がもう空になってその後そのお財布にお金を入れる当てがないという経験はありません。
胸が少し詰まりますが、横目でニュースを見ながら自分はのうのうとご飯を食べています。
生活が苦しいことを「食べていけない」と表現されることがありますが、生活(生きること)を最低限の「生命の維持」と考えると「食べること」がセットです。ちょっと話が逸れますが、わたしの母は亡くなる前の1年半ほどは自力で食べ物を口に運ぶ事ができず、ずっと食事介助が必要でした。ペースト状にしたものを強引にわたしが口に入れ飲み込ませていたわけです。生命の維持ではあったかもしれませんが、生きていたのかどうか…。今もわかりません。

さて、お金に困っていた経験があるせいか、節約癖が抜けません。
まぁケチなわけですが、料理するときに食材を使い切ることにこだわりがありますし、食べ残すことも抵抗があります。お米の一粒二粒が流しに流れそうになるのも気になって拾います。
随分昔のことになりますが、バックパッカーのような人が我が家に滞在したことがありました。その人は布団を敷いても、汚すのは申し訳ないからと、自分の寝袋で寝たり、食事も準備しているのに自炊をしようとしたりするような人で、それはむしろ迷惑だからお気持ちはわかるが、どうぞうちのご飯を食べてくださいとお願いしました。まぁ作るときに手伝ってくださったりしたのですが、わたしよりも徹底していて、流しの排水溝の網に落ちた野菜くずももったいないと拾って口に入れたりして、わたしは内心「おぉっ!負けた」なんて思ったものでした。その人は床におちた食べ物もまぁ3秒ルール?ではないですが、食べていました。よくティッシュの上に食べ物を置くほうが汚い(ほんとかどうかわかりませんが)そんな事もおっしゃってましたね。

ともかく、食材を無駄にしないことはケチということも多分にあると思いますが、ちょっとエエカッコしいすると、相手に対する敬意のようなものもあったりします。(いやほんまちょっとだけですが)
植物もですが、もっとイキモノイキモノした食べ物(肉、魚)を食べるとき、それって殺して食べているということなのに、まるでそういうことがなかったかのようです。
わたしの妹は肉がいやで食べないのですが、子供の時は食べていたので「どうして?」と聞くと「You Tubeで屠殺の動画を見て気持ち悪くて食べられへんようになった」とのことでした。それがいいのか悪いのかわかりませんが、なんにしても、食べることは食べ物のいのちを取り込んでいるということは間違いないです。
高知県の過疎地域に住んでいたとき、自給自足の真似事をして、米をつくったり、畑で野菜を作ったりしましたが、本当に食べるものをつくるのは大変です。小麦を作って粉にしたことがありましたが、やってみて、スーパーに売られている小麦粉の値段は犯罪的だと思いました。
そして肉を食べることなんて本来はすごくすごくすごーく大変なこと。
よく耳にするのが肉1キロを生み出すのに必要な飼料はその10倍から30倍とか・・数字はどうでもいいですが、まぁそうですよね。また生きた動物を肉にする過程、屠殺を自分でするのだとしたら、とても食べるところまで行くかどうか。
そんな自力で調達するのは大変な食材やもうすでに食べられる状態になった調理済みの食品の数々はお金で簡単に手に入ります。
そんな生活が当たり前の今。お金がなくて食べることの心配にさいなまれる人たちがたくさんいる。その反面、フードロスもすごいことになっているのかもしれず・・・。
いろいろもう浅はかなわたしが理解することは到底できない状況が取り巻いている嫌な感じがする今日このごろ。
自分の生きるを見つめています。
次回のたもとの会で読む箇所のテーマはマタギ(狩猟を生業とする人)にまつわることです。マタギっていう言葉の成り立ちには諸説あるようですが、動物を殺すことから「叉鬼」-また鬼になるという意味があるそうです。
5月23日(土)19時から
案内は前回のnoto の最後にあります。

ところで「鬼」って何なのでしょうね。なんてね。

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