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海の神様

「甘ったれ」
 普段は温厚で声を荒らげることすらない兄のカケルが、顔を真っ赤にしてマサキをそう罵倒した。マサキはショックのあまり、泣くことも忘れて兄の顔を見上げた。
 カケルは目に涙を浮かべている。そして鼻をすすりながら、マサキに背を向けた。マサキは何が兄の逆鱗に触れたのか、まるで見当がつかなかった。マサキは何も我儘を言った訳ではない。ただ母が恋しいと泣いていただけ。
 母が亡くなって3か月が経とうとしていたが、マサキは未だにその事実を受け入れることができていなかった。

 その年、マサキは夏休みの間だけ祖父母の家で過ごした。祖父母の家といっても、すでに二人とも他界していたので、今はマサキの叔父夫婦とその息子のタカシが三人で暮らしている。タカシはマサキの2歳年上で、学級委員長を務めるクラスの人気者タイプだ。突然現れたマサキのことも優しく迎えてくれた。
「マサキ、今日はみんなと磯釣りに行くんだ。一緒に行かないか?」
 ここはマサキの住んでいる都会と違い、自然が豊かで周りは海に囲まれている。地元の子供たちは、夏休みにはほとんど毎日海に行って遊んでるらしい。
「宿題をやっちゃいたいから、また誘ってよ」
 タカシだけならまだしも、タカシの友達と遊ぶのはさすがに気が引ける。タカシの友達にまで気を使わせてしまうからだ。マサキはタカシの誘いを毎日断り続けていた。宿題はとうに終わっている。しかし他に言い訳の思いつかないマサキは、毎日同じ算数のドリルをだらだらと繰り返し解いていた。
「そうか」
 タカシは断られたことをさして気にしていない様子で、元気よく玄関から飛び出して行ってしまった。

 今日もマサキは居間にあるちゃぶ台に、算数のドリルを広げる。縁側へと続く窓は開け放たれ、じめじめした風とセミの鳴き声が流れ込んできた。マサキのすぐ隣には、古ぼけた緑色の扇風機が回っている。この家にはクーラーがないのだ。
「あらあら、マサキくんは今日もお勉強?タカシは遊んでばっかりでしょうがないねぇ」
 台所仕事をしていたらしい叔母が手をぬぐいながら、居間に入ってきた。叔母は優しそうなたれ目をしていて、いつも口元に笑みを絶やさない。
「トーキョーに帰る前にやっておかないと、カケル兄ちゃんに怒られちゃうんで」
 自分で兄の名を出しておきながら、マサキは無性に寂しくなった。本当は父と兄が待つ東京の家に早く帰りたかった。
「カケルくん、すごくいい高校に通っているんだってね。やっぱり大学もいいところに行くんでしょ?」
「いや、今はなんとも……」
 マサキが言い淀むと、叔母はあからさまに「しまった」という顔をした。もちろん母が健在なら、カケルは進学していただろう。カケルの通っている高校は都内でも有数の進学校だ。
 しかし母が亡くなり、事態は一変した。父は売れない画家だ。そのため今までは看護師していた母が主に家計を担っていた。その母がいなくなってしまったのだ。このままでは、家計はすぐに火の車になるだろう。父に兄の学費を担う経済力なんてあるわけがない。そんなことは、まだ小学校3年生のマサキにだって理解できた。
「そうだ、あとでかき氷でも作ろうか。おばさん、ちょっと買い物に行ってくるわね」
 明らかに気が沈んだ様子のマサキを見て、叔母は取り繕うようにそう言うと、慌ただしく出掛けて行った。
 叔父も叔母もタカシも、マサキに優しかった。しかし歓迎されていないことを、マサキはこの家に来た日からひしひしと感じていた。そうだ、歓迎される訳がないのだ。
 マサキは母親が亡くなってから、人には見えないものが見えるようになった。聞こえない声が聞こえるようになった。それは黒い影だったり、人間と瓜二つのものだったり、様々な形でマサキの前に現れた。

 最初にそれを見たのは、母の病室だった。陽の光が窓の外の青々とした若葉を透かし、白い部屋を優しく照らす。昨日までの大雨が嘘のように空は晴れ渡り、木々はキラキラと輝く水滴に彩られていた。
 病室では父やカケル、叔父夫婦たちが、母の横たわるベッドを取り囲んでいる。母の顔は青白く、血の気がない。母が母ではない別の何かに変わってしまった気がして、マサキは母に近づくことすらできなかった。マサキの心を占めていたものは、悲しみではなく恐怖だったのだ。
 右隣の父は憮然とした表情で母の顔を見つめている。元々無口な方であったが、父は母の病室で吐息ひとつ漏らさず、口を真一門にギュッと結んでいた。視線は定まらず、どこを見ているのか、何を考えているのか分からない。
 一方のカケルは下唇を噛みながらも、涙を堪えることができず、頬に幾千もの涙の筋を作っていた。そしてマサキの左手を痛いほど、握りしめるのだ。
 マサキは呆然とその様子を眺めていた。どこか現実離れしていて、夢を見ているような感覚だった。やがて母の顔には白い布がかけられ、母の能面のような白い顔を覆い隠してしまった。
 その時ふと、窓の外から視線を感じた。白いモヤのような人影が、こちらに向かって手を振っている。窓の外は木が植えられていて、外に人の立てるスペースはないはずだ。マサキはぼんやりとその人影を眺めていた。すると霧が晴れるように、人影はたちまち姿を消してしまった。
 
 あれはなんだったのだろう?
 
 そう考えている内に、母の葬儀がしめやかに行われ、母は荼毘に付された。
 煩雑な手続きや諸々の儀式を終えると、マサキたちは少しずつ日常を取り戻し始めた。しかし、母のいない穴は一向に埋まることはなかった。父もカケルもマサキを心配させないように、いつも通り笑顔で接してくれた。しかしマサキは気づいていた。父の酒の量が増えていることにも、カケルの成績が落ち込んでいることにも。けれど何も言わなかった。父とカケルの優しさを無下にはできなかったのだ。
 そしてあの白いモヤのような人影を見てから、同じような人影を見ることがあった。
 黒い影だったり、人間と瓜二つだったり、見え方は様々だった。それがなんなのか、マサキにはよく分からない。ただひとつわかったことは、それらがマサキ以外の人間には見えていないということだ。
 
 ある週末、カケルと一緒にスーパーに買い出しに出掛けた時のことだ。
 レジで会計を済ませ、牛乳やら野菜やらがたくさん入ったナイロン製のバックを持ち上げようとしたその時、小さな子どもの声がした。声の方に視線を向けると、5歳くらいの男の子が、非常階段のドアの前の少し凹まったところから、顔だけを覗かせ笑いかけてきた。なるほど、さっきの声はあの子の笑い声だったらしい。コロコロと鈴のような朗らかな笑い声が響く。周りにその子の親や友達もいない様子だ。何がそんなに面白いのだろう?
「ねえ、兄ちゃん」
 マサキは隣にいたカケルのパーカーの袖口を引っ張った。
「あの子、何がそんなに面白いのかな?」
 マサキが問いかけても、カケルは眉間のシワを深めるだけだ。
「ほら、あの子だよ」
 痺れを切らしたマサキが、フロアの片隅を指さす。カケルはマサキの指さす方向を凝視していたが、やがて首を振って言った。
「なんだ、何もいないじゃないか」
 カケルの言葉に、マサキは思わず口を噤んだ。カケルには、あの小さな男の子が見えていないのだ。
 マサキは再び、男の子のいる方向へ視線を向ける。しかし、そこには誰もいなかった。ただ鈴を転がしたような笑い声だけが木霊していた。

 その日から、マサキは決意した。
 何が見えても聞こえても、見えないフリ聞こえないフリをしようと。
 しかしマサキには、それが見えていいものなの、かそうじゃないのかの区別をつけることができなかった。
カケルがマサキの様子がおかしいことに気が付くのは、自然の成り行きだった。
 心配した父がマサキを小児科に連れて行くと、医者は言った。
「お母さんの死によって、心が病んでしまったかもしれません」
 そう言って、医者はこめかみを抑えた。結局マサキにはしっかりとした病名が付かず、ただ、心を休めるように言われただけだ。

「この家では母さんのことを思い出し、辛くなってしまうかもしれない。一時的で構わないから、環境を変えた方がいいと思う」
 そう提案したのはカケルだった。マサキは本当は叔父さんの家になんか行きたくはなかった。しかしただでさえ大変なときに心配をかけてしまっていることを気にした。母の死で、父もカケルも傷ついたのだ。それなのに、自分だけが大変な顔をして父やカケルに甘えることなんてできなかった。
 
 そういった経緯で、マサキはこの家にやって来たのだ。
 叔父さんも叔母さんもタカシだって、マサキの状態を承知している。だから三人ともまるで腫物を扱うようにマサキに接してきた。

「お兄ちゃん、遊ぼう」
 今だって、開け放たれた縁側から小さな黒い影が何人も、マサキに向かって手を振っている。
「遊ばないよ」
 つい返事をしてしまうのは、黒い影を自分自身に重ねてしまうからかもしれない。見ず知らずの田舎町で、誰にも心を許さず過ごすマサキは、誰の目に映らない黒い影に同情して、無視をすることはできなかった。

「どうして?」
「そこにいたって楽しくないのに」
「こっちに来て、遊ぼうよ」

 黒い影が口々に喋り出す。痺れを切らしたのか、ついに黒い影は家の中に手を伸ばしてきた。それには、さすがのマサキもぎょっとした。幸いなことに、家には今誰もいない。叔母が帰ってくるまでに、戻ってくればばれやしない。そう思って、マサキは逃げるように家を飛び出した。

 しかし、マサキはどこに行っていいものか、てんで分からなかった。あの黒い影は家の庭だけではない。この田舎町の至る所でウロウロしていた。マサキはこの田舎町に来てから、一度も気の休まる時はなかったのだ。
 当てもなくただひたすらに駆け回っていると、海岸沿いの国道に出た。潮の香りと波の音がマサキを包み込む。
「綺麗」
 マサキは目を閉じて、深呼吸をした。ここには、息の詰まるような重い空気はなく、さわやかな風が吹いている。
 
 国道の直ぐ脇に、岩場に囲まれた小さな砂浜があるのを見つけた。ここにだけは、あの黒い影のような「人間ではない何か」はいない。
 マサキは「立ち入り禁止」と書かれた看板には気が付かず、まるで何かに引き寄せられるようにその砂浜に降り立った。
 見渡す限り青い空と青い海が広がっている。空気は清々しく爽やかで、マサキは身体に染みこませるように息を吸った。

「ぐうう」

 今まで一人きりとばかり思っていたのに、背後から誰かのいびきが聞こえてきて、マサキは驚き振り返った。
 人だ。
 男の人。
 頭の後ろに手を組み、キャップ帽を目隠しにして、木陰で横になっている。Tシャツから覗く腕は、よく日に焼け、筋肉が程よくついていた。
「もしかしたら、怒られるかも」
 マサキにはこの町のルールはよくわからなかったが、皆「縄張り」を持っているらしかった。タカシがいつか友達と「縄張り」のことで喧嘩していたことを思い出す。「縄張り」に無断で入ることはルール違反だ。マサキは男の人が起きる前に、砂浜を出てしまおうと慌てて踵を返した。
「ちょっと待て」
 しかしマサキの目論見はむなしく崩れ、砂浜を出るまであと一歩というところで、男の人に声を掛けられた。
「ごめんなさい。すぐ出ていきます」
 マサキは恐怖で男の人の顔も見ることが出来ず、取り繕うように謝った。そして再び歩き出そうとしたところで、パシリと腕を掴まれる。
「いや、ちょっと待ってて」
 腕を掴まれたことで強制的に男の人の顔を振り返り見れば、男の人は思いのほか優しい顔をしていた。
「お前、『見える』のか?」
 男の人の言葉に、マサキは思わずドキリとした。マサキにしか見えないものがあることを、この男の人は知っているのだ。
「あの、あなたは?」
 もしかしたら叔父たちの知り合いかもしれない。もし知り合いなら、マサキの状態を叔父たちから聞いていてもおかしくはない。
「ああ、俺?うん、なんて言うかな?しいて言えばこの海の主?みたいな。」
「は?」
 男の突拍子もない返答に、マサキは目を丸くした。どうやら叔父たちの知り合いではない様子だ。
「まぁ、怪しいものではないよ。君、えーと……、」
「マサキです」
「マサキくん。うーんと、マーくんか」
 男は少し間を置いて、マサキのことを「マーくん」と呼んだ。
 マサキは小さい頃、母やカケルから同じ様に「マーくん」と呼ばれていたことを思い出し、懐かしさで胸がギュッと苦しくなった。
「マーくんが見えているものは、俺にも見えるよ」
「本当ですか?」
 男の思わぬ告白に、マサキの瞳が輝いた。
 マサキは自分にしか見えないものがあることを、自分の頭がおかしくなってしまったのだとばかり思っていた。誰に言っても、「見える」と言ってくれた人は、誰一人としていなかったからだ。しかし、この男の人にはそれが「見える」と言う。マサキはまるで自分が肯定されたようで嬉しくなった。
「お兄ちゃんは、えーと、」
 マサキはまだ男の人の名前を聞いていないことに気がつき、言い淀んだ。
「ああ、ごめん。俺の名前は“ナギ”だよ」
「ナギ、さん」
「はは、ナギでいいよ」
 思わず呼び捨てにしてしまい、慌てて敬称と付けたマサキを見て、ナギは優しく笑った。ナギは金色に染めた短髪を後ろに流し、黒いTシャツに黒い半ズボンという出で立ちだ。歳は二十歳そこそこといったところか。
 この田舎町ではさぞかし目立つだろう。そんな風貌もこの町に馴染めないよそ者であるマサキに、親近感を抱かせる。初めて会うにも関わらず、すでにナギのことを信頼し始めていることに、マサキ自身驚いた。
「ナギにもあいつらが見えるの?」
「まぁな」
「あいつらって、何なの?」
「んー、まだマーくんには早いかなぁ」
「えー、教えてよ」
 マサキが頬を膨らませて抗議すると、ナギはその頬を右手で掴んだ。
「うぶ」
 そしてナギはその場にしゃがみ込み、視線をマサキに合わせて、真剣な眼差しで言った。
「いいか、マーくん。これからもし、あいつらがマーくんのことを見てきたり、話しかけていたりしても、絶対に反応するな」
「でも、見分けがつかないんだもん。どれが人間で、どれがそうじゃないかなんて、分からないよ」
 マサキがそう反論すると、ナギは目を瞠った。
「マーくんは、そんなにハッキリとあいつらが見れるのか……」
 そしてマサキの頬から手を離すと立ち上がり、困ったように頭を掻きむしった。
「いつもそう見えるわけじゃないよ。黒い影だったり、白い靄みたいなやつだったりもする……。でも、時々……、」
「人間そっくりな奴もいる」
 ナギがマサキの言葉を継いだ。
 マサキがナギの言葉に頷きながら答える。
「そうなると、見分けがつかないんだよ」
 二人の間にしばし沈黙が落ちる。波の音がやけに大きく聞こえた。日は西に傾き、白い砂浜に長い影を描く。
「マーくん、もし迷うことがあったら、影を見るといい」
 ナギがニカッと笑うと、大きな八重歯が白く光った。
「影?」
「人間には影があるだろう?」
 そう言って、ナギが自分の足元を指す。そこにはナギの影が映っていた。
「影……」
「あいつらには影がない」
「気が付かなかった」
 マサキは嘆息して、ナギを見上げた。
 ナギは微笑み、マサキの頭を撫でる。
「マーくんが見えるってことに気が付けば、あいつらは必ずマーくんを『向こう側』に連れて行こうとする。マーくんはまだ小さいし優しいから、簡単に連れて行ける」
「『向こう側』って?」
 ナギはその質問には答えず、マサキの頭を一撫でし手を放す。そしてマサキに背を向け、海を眺めながら呟いた。
「海は怖いからな……」
 ナギのこの独り言が、やけにマサキの耳に残ったのだった。

 初めて出逢った日から毎日、マサキはナギに会いにあの砂浜へ出かけた。叔母はマサキが地元の子供たちと仲良くなったのだと勘違いし、喜んでいた。実際は二十代の金髪のお兄さんと遊んでいるなんて知ったら、さぞかし驚くだろう。マサキは驚いた叔母の顔を想像して、思わず笑みをこぼした。
「なぁに、笑ってんだよ」
 ナギは岩場に座り、釣り竿を垂らしながらも、マサキの独り笑いを見逃さなかった。ちなみにマサキが訪れてからとうに一時間は経っているが、釣り竿は一度も動いていない。マサキはそんなナギの横に座り、二人並んで水平線を眺めていた。
「まさか自分より、うんと年上のナギと、友達になれるなんて思わなかったなぁ、って考えてた」
「はは。でもマーくんにはお兄ちゃんがいるだろ?」
「うん!カケルっていうんだ」
「お兄ちゃん、優しい?」
 ナギが微笑む。金色の髪の毛が、太陽に透かされてキラキラと輝いた。
「うん。カケル兄ちゃんは、勉強もスポーツもできてすごいの。優しくて頼りになるし……」
 そうだ。カケルはいつだってマサキに優しかった。8つ歳の離れたマサキの面倒を本当によく見ていてくれていたのだ。
 
 夕焼けの公園。マサキはサッカーボールを手に、呆然と時計塔を見上げた。
 遊ぶのに夢中になり、門限の五時まであと五分に迫っていた。公園から家まで、急いで帰っても十分はかかる。このままでは、きっと母に怒られてしまうだろう。マサキが慌てて級友に別れを告げていると、公園の出口の方から声を掛けれた。
「マサキ!」
 カケルの声だ。果たして公園の出口には、夕日を背負ったカケルが立っていた。真新しい高校の制服を着たカケルは、家にいるときよりなんだか大人びて見えた。
「兄ちゃん!」
 マサキが駆け寄ると、カケルは両手を広げ受け止めてくれる。
「マサキ、もう5時だぞ」
「そうなんだけど、時間分かんなくて」
 マサキが俯き答えると、カケルがマサキに向かって手を差し出した。
「じゃあ、兄ちゃんと帰ろう」
 マサキはその手を迷うことなく掴む。カケルの手は骨ばっていて、がっしりとマサキの手を包み込んでくれた。
「兄ちゃんと帰れば、きっと母ちゃんも怒んないよ」
「うん!」

「あれ、誰?」
「マサキの兄ちゃんだって」
「マサキ、バイバーイ」

 背後でクラスメイト達の話し声が聞こえてきた。マサキは得意になって、クラスメイト達に手を振り返す。マサキに倣って、カケルもクラスメイトに向け軽く会釈をした。すると、カケルを見たクラスメイト達が明らかに色めき立つのがわかった。クラスメイト達のざわめきを背に、マサキはカケルの手をグイグイと引張っる。カケルはマサキにとって自慢の兄ちゃんだ。
「マサキ、そんなに急がなくても大丈夫だって」
 カケルが笑う。二人の影が夕日に照らされて、長く長く伸びていく。
 喧嘩なんかしたことがないくらい、マサキとカケルは仲が良かったのだ。

 それなのに、この田舎町に来る前日、生まれて初めて兄に怒鳴られた。しかし、あの時のカケルの深い悲しみを湛えた眼差しを思い出すと、マサキはカケルを非難する気にもならなかった。

「そうか、いいお兄ちゃんだな」
 不意に黙り込んだマサキに、ナギはさして気にした様子もなく返事をした。マサキは膝を抱え、腕に顔を埋めた。
 遠くで水鳥の鳴き声が聞こえる。波は穏やかで、さざ波の音が心地よい。

「釣れねぇな」
 ナギが小さく呟く。ナギの竿は相変わらず、ピクリとも動いていない。
「魚がいないのかな?」
 マサキが海を覗き込む。しかし水面は青空を反射するばかりで、海の中を見ることは叶わなかった。
「いや、きっと海ん中にはたくさんの魚がいるよ」
「どうして分かるの?」
 マサキがナギに尋ねると、ナギがマサキを見て目を細める。
「分かんないけど、そう思った方が楽しいじゃん」
 そう言って、ナギがいたずらそうに笑った。
「なぁに、それ」
 ナギの笑顔につられて、マサキも思わず笑みがこぼれた。ナギがいれば、曇りかけた心もあっという間に晴れてしまう。

「マーくんは、家族が好き?」

 少し間を置いて、ナギが問いかけてきた。
 マサキはしばし考えて、返事をする。
「うん。兄ちゃんも父ちゃんも優しくて好きだよ。あと母ちゃんも」
「うん」
 ナギが優しい瞳で、マサキの顔を覗き込んだ。
「父ちゃんはあんまり家にいなかったけどね。母ちゃんは、いつも穏やかで料理も上手で」
 母親のことを思いだし、マサキは声を詰まらせた。

 父が珍しく家に帰って来る時は、決まって夕飯に唐揚げが出た。父の大好物だったからだ。学校から帰って、台所から唐揚げの香りがする。そうすると、マサキは何も聞かなくても父親が帰って来るのだと知ることができたのだ。
「ただいまー」
 マサキがキッチンの扉を開けると、母が振り返る。
「おかえり」
 母の声も心なしか弾んでいるように感じる。
 今日は家族4人で食卓を囲める。
 そう思うと、マサキだって嬉しかった。
「もうすぐご飯できるから、ちょっと待っていてね」
「うまそー」
 マサキが、すでに揚がって、バットに上げられている唐揚げに手を伸ばそうとする。
「あいてっ」
 その手を、母親の左手が弾く。
「こら。まだ帰って来て手も洗っていないでしょう」
「ちぇー」
 マサキは唇を尖らせて、洗面台に向かった。
「たくさんあるから、あとで皆で食べようね」
 そんなマサキの背中に向かって、母が声を掛ける。
 もうすぐ、部活を終えたカケルが帰ってくる。きっと、間もなく父も帰って来るだろう。熱々の唐揚げを食べながら、今日学校で起こったあれやこれを話そう。そう思うだけで、マサキの頬は自然と緩むのだった。

 突然黙り込んでしまったマサキに、ナギは黙ったまま何も言わなかった。
「でも、母ちゃんは死んじゃったんだ……」
 マサキは我慢しきれず溢れ出た涙を、Tシャツの裾で乱暴に拭った。
「突然だったんだ。俺は、よく覚えてなくて。最後に、母ちゃんとどんなことを喋ったのかも、何も思い出せない」
 マサキの平穏な日常の生活は、これからもずっと続くと思っていた。カケルと父、そして母とのささやかで穏やかな生活。しかしそんな日々はある日突然途切れ、幻のように永遠に失われてしまった。
 マサキには母が亡くなったその日の記憶が、丸ごとない。気が付いた時には、既に母は亡くなってしまっていたのだ。
「なんで、母ちゃんは死んじゃったのかなぁ……」
 嗚咽交じりに呟いた疑問に、ナギは何も答えてはくれなかった。しかしその代わりに、ナギがいつも被っている黒いキャップ帽を、マサキの頭に被せてくれた。
 マサキの瞳から、涙がボロボロと零れた。どんなに顔を涙で濡らしても、キャップ帽に隠れ、誰にも見つからない。大きな声を上げたって、波の音がかき消してくれる。だから、大丈夫だ。
 ナギは黙って、マサキの頭を撫でてくれた。

 マサキがあの海岸に行けば、いつだってナギはいた。仕事はしているのか、学生なのか、考えたことがなかったわけではないが、マサキにとっては大した問題ではなかった。何をしていても、ナギがナギであることに変わりはない。
「ナギ―!」
 マサキが国道から声を掛けると、浜辺に寝そべったナギがこっちを振り返った。
「おおー」
 寝起きなのか、覇気のない声でナギが答える。
「なにしているの?」
 マサキがナギの元に駆け寄ると、ナギが上体を起こして答えた。
「なーんもしてねぇ」
「ナギも夏休みなの?」
 毎日暇そうにしているナギの様子を見て、マサキはナギも夏休みなのではないかと思った。宿題はあるけど、学校に行っているときよりものんびりできる。
「夏休みかぁ。おれも好きだな」
 会話が嚙み合っていないような気がしたが、マサキはさほど気にしなかった。
「ふーん」
 適当に返事をすると、ナギの傍に腰を下ろす。
「夏休みはいいよな。たくさんの子供たちが海に来てくれるし、活気も生まれるし」
「そうなの?」
「そうだよ。冬なんて寂しいもんだよ。だぁれも来てくれない」
「ナギは冬の間も、海に来ているの?」
 マサキは何年か前のお正月に、この地に来たときのことを思い出した。車の窓から覗き見た海は、黒く冷たいような感じがした。浜辺に降り立つだけで身がすくみそうだ。
「そうだよぉ。おれは毎日、海にいる。365日。毎日」
「え?」
 夏の間だけならいざ知らず、冬の間もずっと海に来ている。寒く、誰もいやしない寂しい海に、一体なんの用があるというのだろうか?
「寒くないの?」
「そりゃあ、寒いよ。だから俺は夏の方が好きなんだって」
「ナギは海に住んでいるの?おうちは?お父さんとか、お母さんはどこにいるの?」
 マサキの矢継ぎ早な質問に、おかしそうにナギが喉を鳴らす。
「父ちゃんや母ちゃんはいないし、おれにとって海が家みたいなもんだから」
「それって、寂しくないの?」
 マサキには父やカケルがいる。東京にも、この町にも帰って眠る家がある。でも、ナギには家族はいない。思わずマサキが尋ねると、ナギは微笑んだ。しかしその目には、ほんの少し寂しさが宿っているように見えた。
「おれにはこの海が、この海に生きる生き物たちがみんな家族みたいな感じなんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。もちろん、この海に遊びに来る子供たちも、家族みたいなもんだと思っているよ」
 それって、おれのことも家族って思っているってこと?
 マサキはナギにそう聞こうと思って止めた。とんでもなく恥ずかしい気がしたからだ。
「そっか。じゃあ、ナギは大家族なんだね」
 マサキの言葉にナギが噴き出す。
「ハハハハハ。確かに!そうだな」
 ナギと出会ってから、退屈で孤独なこの田舎町での毎日が、きらめき喜びに彩られたものに変わった。
できれば東京に帰るまでの間、こうしてナギと過ごしたいな。
 マサキはそう口にする代わりに、ナギと一緒に笑い合った。

「ナギ!おはよう」
「おぉ、マーくん」

 今日だっていつものように、ナギは浜辺でゴロ寝をしていた。だから思わなかったのだ。ナギとの別れが突如、思わぬ形で訪れることになるとは。

「最近は変な奴、見たりしてない?」
 マサキがナギの寝ている横に腰を下ろすと、ナギが話しかけてきた。
「見ることはあるけど、人間とそうじゃないモノの見分け方をナギが教えてくれたから、もう大丈夫だよ。影がない奴らのことは無視してる」
 マサキは相変わらず、黒い影や人ではないナニかを目にすることはあったが、ナギの言う通り見ない振りをしていた。するとこちらに対して何かしてくることはなくなった。それだけで、マサキの心はいくらか軽くなったのだ。
「そうか、よかった」
 ナギがニコリと笑う。
「ねえ」
 マサキが呼びかけると、ナギが視線をマサキの方に向けた。瞳に青空が反射して、キラリと光る。
「あいつらってなんなの?」
 ナギはしばし逡巡していたが、心を決めたように一人頷いた。そして勢いよく上体を起こすと、マサキのことを真剣に見つめる。
「これから話すことは、マーくんにとっては少し難しい話かもしれない」
「なに?」
 ナギの真っすぐ向けられた瞳に、マサキは知らずに背筋が伸びた。
「この世界には、二つの世界が存在する。この世とあの世。此岸と彼岸。いろんな言い方をするけど、指しているものは同じだ」
 マサキは黙ったまま頷いた。あの世とこの世。此岸と彼岸。なんとなく聞き覚えのある言葉だった。
「マーくんとか俺は今、『この世』にいる。だけど、ここは『あの世』でもある」
「どういうこと?」
「二つの世界は、同じであり、同じじゃない。ここに在るけど、ここにはない」
「意味が分からないよ」
 マサキが音を上げると、ナギが優しく微笑んだ。
「二つの世界が重なって存在しているってこと」
「ふーん」
 マサキは分かっているような分かっていないような、曖昧な返事をした。
「俺たちはこっち側にいる。あいつらはあっち側にいる」
「あっちとこっちが、二つともここにあるから、おれたちとあいつらもここにいるってこと?」
「そうだな」
「でも、なんで兄ちゃんたちには見えないんだろう」
 マサキは唇を尖らせる。
「おれやナギには見えるのにね」
 もしカケルや父にも見えたら、マサキはこんなところにはいなかった。きっと今年も東京の自宅で夏を過ごしていただろう。それに、誰にも理解してもらえない孤独感を感じることもなかった。
「こっちとあっちの境界は、曖昧なんだよ」
 そう言って、ナギは地平線を指した。
 そこには今まさに沈まんとしている太陽が見える。
 海と空の境目は確かに見えるが、海面が夕焼けを反射し、海も空も同じように赤く染まっている。
「俺たちは簡単にあっち側にいける。そして一度でもあっち側に行った者は、曖昧な存在になる」
「曖昧な存在って?」
 ナギの説明は段々と言葉が固くなり、内容も難しくなっていった。だからマサキはなんとか話しについていこうと一生懸命だった。ナギはきっと、とても大切なことを教えてくれようとしている。そんな気がしたからだ。
「なぁ、マーくんは……」
「マサキ?」
 ナギがなにか言いかけたその時、背後から声を掛けられた。マサキが驚き振り向くと、海沿いの国道に自転車に跨ったタカシがいた。
「タカシくん」
 マサキはしまったと思った。ナギと喋っているところを見られたからだ。きっと、タカシの口から叔父と叔母に、「金髪の得体のしれない若い男」と仲良くなったことがばれてしまうに違いない。
(何か言い訳しなきゃ)
 マサキがまごついていると、タカシから予想だにしない言葉が飛び出した。
「マサキ、お前さっきから誰と喋ってんの?」
「は?」
 マサキは自分の耳を疑った。国道は海岸より高台にある。上から見下ろせば、マサキの隣にいるナギが見えない訳がなかった。
 マサキは思わずナギの座っている地面を確認した。そこには確かにナギの影があった。
 西日に照らされて長く伸びた影は確かに人間の形をしている。
 それを見てホッとしたのもつかの間、影はみるみる内に形を変え、巨大な蛇のような怪物の影が現れた。
 マサキは目の前のナギを呆然と見つめる。ナギは何も言わなかった。
 ただ、悲しそうに微笑むだけだ。

 マサキはどうやって家に帰って来たのか覚えていなかった。気づくと玄関の三和土に立ちすくんでいた。
 ナギは人間ではなかった。タカシには見えない。影はあったけれど、人間の形ではなかった。そもそも「影のあるものは人間」と言っていたのもナギだ。信じていいのだろうか?自分はナギに騙されていたのかもしれない。
 ナギのことを、ずっと人間だと思ってた。だからこそ、マサキは同じものが見れると喜んだのだ。ナギはそんな自分を見て、腹の中で笑っていたんじゃないか?そう思うと、悔しくて涙が出てきた。
 
しばらくすると、居間の方から、声が聞こえてきた。タカシと叔母の話し声だ。
「だから、マサキがだぁれもいないのに、一人で喋ってたんだって」
「そう……」
「俺もう嫌だよ。あいつ一人にしか見えない幻想が見えてるってキモイし、クラスの奴らにも笑われるし」
「そんなこと言わないで。お母さんが亡くなって、心が病んでいるだけよ。かわいそうな子なのよ」
 タカシの言葉は、思いやりの欠片もない辛辣なものだったが、叔母の声色は労し気に沈んでいた。
「だからってなんで、俺らがあいつの面倒を見なきゃいけない訳?あいつのアニキも嫌になって、俺らに押し付けたんだろ。だいたい……」
 少し言い淀んだタカシだったが、抑えきれない苛立ち爆発させるように言い放った。

「マサキのお母さんだって、あいつのせいで死んだんだろう?」

タカシの言葉を聞いて、マサキの腹の底に冷たく重いものがずしりと沈み込んだ。
「あいつを庇って、車に轢かれたんでしょ?あいつのせいじゃん!」
「こら、タカシ!」
 タカシの言葉を、叔母の悲痛な叫びが止めた。
「マサキくんのせいじゃない」
「だけど……」
「あれは事故だったのよ。マサキくんのせいじゃないわ」

 あの日は、朝から雨が降っていた。季節はすでに春だったが、肌寒かったのをよく覚えている。
 マサキは大きな黄色い傘をさして、家に帰るために大通りを歩いていた。隣には母がいる。近所のスポーツ用品店で、グローブを一緒に買いに行った帰りだった。この夏休みから、マサキは地元の少年野球のチームに入ることになっていたのだ。
 マサキはスポーツ用品店の名前が印字されたビニール袋が濡れないように胸に抱きしめながら、隣を歩く母を見上げた。母はそんなマサキの様子を、目を細めて見ている。
 大きな交差点に差し掛かると、信号が赤に変わり、二人は横断歩道の前で足を止めた。雨の中、目の前をたくさんの車が行き交う。マサキは落ち着きなく、その場で軽く足踏みをした。早く家に帰って、この新しいグルーブを嵌めてみたかったのだ。
 その時、辺りにブレーキ音がとどろいた。次の瞬間には、マサキは母に強く手を引かれ、胸に抱きすくめられた。なにが起こったのか、確かめる間もなく、天地がひっくり返る。黄色い傘が飛んでいくのを、視界の端に捉えたと思ったら、マサキはコンクリートの地面に背中をしたたかに打ち付けていた。
 しばらくして背中の痛みが和らいでくると、上からマサキに覆い被さっている母の重さに耐えられなくなってきた。力が抜けきった母の身体は、まるでスライムのようにマサキにのしかかる。
「母ちゃん」
 マサキが声を掛けても、母はなにも答えなかった。
「母ちゃん、重いよ……」
 母を退かそうとするも、小学三年生の力では大人を持ち上げることはできない。
「大丈夫ですか?!」
 その時、焦った男の人の声が聞こえ、急に身体が軽くなった。
 明るくなった視界に、母よりいくらか年を取った知らない女の人が現れた。
 「ボク、大丈夫?」
 そして、マサキが身体を起こすのを手伝ってくれた。
「僕は大丈夫です。母ちゃんが……」
 マサキのすぐそばにいたはずの母の周りには、すでにたくさんの人たちが集まり、マサキの視界から母の姿は見えなかった。母の脇に膝をついた男の人がいて、なにかを両手で押さえつけるような姿勢で激しく上下に揺れていた。
 心臓マッサージをしているんだ。
 それに気づいた瞬間、母に大声で呼びかける声や、救急車を呼び人の声、不安げな囁き声、全ての音が急に遠ざかった。全てがベールの向こう側での出来事のようだ。ただ、さっきマサキを起こしてくれた女性がマサキを抱きしめてくれている感触だけ、ありありと感じられる。痛いほど強く、彼女はマサキのことを抱きしめて離さなかった。

 気が付いたら、マサキは家を飛び出していた。
 忘れていたあの日の記憶が、津波のようにマサキを飲み込んで行く。マサキはあの時、死んでいたかもしれない。マサキは一度「向こう側」に行きかけたのだ。
 息が苦しい。肺が破れそうに痛い。それでも、マサキの足が止まることはなかった。
 
 どこをどう走って来たか分からない。不意に我に返ると、雑木林の中にいた。
 タカシの言っていたことは、全部本当のことだ。母が死んだのは、マサキを庇ったせいだ。マサキがいなければ、母は死なないで済んだかもしれない。なぜ、今まで忘れていたのだろう。マサキは立ち止まると、Tシャツの裾で額を流れる汗を拭った。
 今になってやっと、どうしてカケルが「甘ったれ」とマサキに言ったのか分かった。マサキのせいで母を失う羽目になったのに、いつまでも母を恋しがるマサキのことを鬱陶しく感じたのだろう。
本当はマサキのことを責めたかったはずだ。「お前がのせいで母ちゃんが死んだんだ」と。それでもマサキに真実を伝えなかったのは、カケルの優しさだ。カケルは昔から何も変わっていない。ずっと優しいままだったのだ。
 それなのに、マサキは心のどこかでカケルのことを責めていた。カケルが変わってしまったとばかり思い込んでいた。そうではなかったのだ。もうこんな弟なんて、要らないと思ったに違いない。だから、こんな片田舎の町に、マサキを追いやったのだ。
 本当はマサキが死ねば良かったのだ。そうすれば母を失うこともなかっただろうに。
 嫌な考えが数珠つなぎのように、次から次へと流れてきて、止まらなかった。
「母ちゃん」
 マサキは誰もいない、木々の生い茂る暗闇に向かって呼びかけた。日はとうに西の空へ沈んでしまった。辺りを暗闇が包み始めている。
「どうして、おれなんかを庇ったの?」
 マサキは言ってはいけないことを言ってしまっていることを分かっていた。それでも口を止めることはできない。
「母ちゃんじゃなくて、おれが死ねばよかったんだ」
 マサキの声が雑木林の奥深くへと吸い込まれていく。涙が後から後へ流れ止まらず、マサキは顔を両手で覆った。

「マーくん」

 誰もいないはずの空間で、不意にマサキを呼ぶ声が聞こえた。マサキはこの声の主をよく知っていた。

「母ちゃん?」

 マサキは思わず顔を覆っていた手を退かし、声のする方を見た。するとそこには、マサキの母親が微笑みを浮かべて、佇んでいた。懐かしい笑顔に、マサキは思わず涙んだ。
ずっと、母に会いたかった。何も分からないまま、永遠に離れ離れになってしまったのだ。

「母ちゃん」

マサキが母親に呼びかけると、母親はマサキに向かって手を伸ばした。マサキは迷わず、その手を掴んだ。
もしかしたら、母親はマサキのことを迎えに来たのかもしれない。この田舎町にさよならできるのならそれでもいいと思った。

 母親はマサキの左手を引っ張り、ずんずん進んで行く。雑木林を抜け、国道を通り、そして海に出た。
「あ……」
 マサキはこの海岸によく見覚えがあった。毎日のようにナギと会っていた場所だ。母親はこちらを一切振り向くことなく、海に入って行こうとする。
「待って、母ちゃん!」
 マサキが叫んでも、母はこちらを振り向きもしない。母親がギリギリとマサキの手首を締め上げる。女の人とは思えないくらい力が強い。何とか母親を立ち止まらせようとするが、その努力空しく、マサキは遂に海に足を踏み入れた。
 
月もない夜空。墨汁のように黒い海水が、マサキの運動靴に染みこんでいく。
「母ちゃん!」
 どんなに叫んだって、母親は振り向いてくれない。マサキの声を聞いてくれない。気づけば、マサキは腰まで海に浸かっていた。
「マーくん!」
 その時、聞き覚えのある声がした。同時に右手を掴まれる。
「ナギ!」
 振り返ったそこには、額に汗を浮かべたナギがいた。
「お前にはそれが『母親』に見えんのか?」
「え?」
 ナギの言葉にマサキが恐る恐る前方に視線を戻すと、そこには人間の形をした黒いヘドロのような物体がいた。マサキの左手をしかと握りしめている。
「うわあ!」
 マサキは驚き、必死に化け物から手を外そうとするが、どうやっても取れない。右手はナギが握り、陸へ引っ張ってくれるが、それでもマサキは少しずつ沖へと引かれて行く。このままでは間違いなく、マサキは溺れてしまう。
「ナギ!どうしよう!どうしても離れない。」
 マサキは半狂乱になりながら、背後にいるナギに泣きつく。振り返ればナギも必死の形相で、マサキの腕を引っ張っていた。
 遂に胸元まで水に浸かった。海水が顔に跳ねる。
「死にたくない」
 マサキは強くそう思った。ついさっき、母のところに行きたいなどと少しでも思った自分を殴ってやりたかった。絶対に生きる、生きて兄と父のいるあの街に帰る、そうマサキは誓った。
「くそ」
 背後でナギが舌打ちした。ナギも海に浸かりながら、必死にマサキを救おうとしている。このままではナギまでも、海底に引き擦りこまれてしまう。
「ナギ……。お願い、手を放して」
「なに言ってんだ!」
 ナギが怒鳴る。
「でも、このままじゃ、ナギが……」
 マサキは涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだった。目の前にいるナギの顔でさえ、滲んで見える。
「マーくん。諦めるな。俺が絶対に助けてやる」
 ナギがそう強く宣った直後、身体がどうと重くなった。次いで浮遊感が訪れ、マサキは自分が海の中にいると気が付いた。しかし、不思議と息が苦しくない。
あの化け物は奇妙な断末魔と共に海に溶けて、跡形もなく消えた。頭上から注ぐ僅かな光は海底まで届かず、マサキの足元は深い闇がどこまでも続いている。
(ナギ……!)
 マサキはナギがしかと握りしめていた右手が、解放されていることに気が付いた。しかし、ナギがいた場所にはナギがいない。代わりに黄金に輝く巨大な龍がいた。
「マーくん」
 龍からは不思議なことにナギの声が聞こえる。
だけどマサキは怖さを感じなかった。龍からは懐かしい優しさが伝わってきたからだ。
「ごめんな。本当はこうなる前に、なんとかしてやりたかったのに」
 マサキが龍に向かって手を伸ばす。しかし、あと少しのところで届かない。
(ナギ!ナギ!)
 今、この時を逃せば、二度とナギに会えないような気がした。だからマサキは必死に手を伸ばした。
「マーくんは、もう大丈夫」
 そうナギの声が聞こえると、龍からまばゆい光が放たれた。マサキはその光に飲み込まれ、何もかも分からなくなってしまった。

 目を開けると、知らない部屋にいた。マサキは簡易的なベッドに寝かされ、毛布が掛けられている。
 周囲にある薬品や備品から、おそらく病院か何かであるとは思ったが、それよりもナギがどうなったかが気がかりだった。
「早く戻らなくちゃ」
 こんなところで、のんきに寝ている場合ではないのだ。マサキが起き上がろうとした時、ベッドの脇に置かれたパーテンションの向こうから話し声が聞こえた。
「高波に攫われて、無傷なんて奇跡ですよ」
「本当にありがとうございました。」
 (父ちゃんの声だ·····)
 知らない中年男性と父の声が聞こえたため、マサキは黙って聞き耳を立てた。
「あそこは地形的に高波が発生しやすく、立ち入り禁止だったんですよ」
 そこにもう一人知らない、しゃがれた男の声が加わる。
「その点については申し訳ありません。よく言って聞かせます」
(カケル兄ちゃんもいる……)
 カケルの凛とした声も聞こえ、マサキは懐かしさで泣きたくなった。
「まぁ、怪我がなかったわけだ。そこまで叱ることもないでしょう」
 中年男性がマサキを庇う様に言った。
「しかし左手首についた、痣だけがどうやってついたものか……」
「先生でも分かりませんか?」
 父の呼びかけから、中年男性は医者なんだと分かった。
「まるで、誰かに掴まれたような跡なんです。高波に攫われたこととは無関係だと思われます」
 マサキは思わず、自分の左手首を見た。そこには包帯が巻かれ、状態を見ることはできない。恐らくあの化け物に掴まれた跡が残っているのだろう。マサキは左手首を労わるように摩った。
「とにかく、マサキくんが目を覚ましたら、話を聞いてみましょう」
「はい。本当にありがとうございました」
 ドアが開閉する音が聞こえ、医者の声がしなくなった。代わりにしゃがれた声の持ち主が話し始めた。
「私は長いこと、ここで巡査をしているが、昔は多くの子供たちがあの海で命を落としました」
「そうなんですか」
 カケルが神妙な声で答える。
「そこで海岸を整備し、立ち入り禁止区域を作った。それと同時に、犠牲者を悼み海の安全を願う為、神を祀ったんです」
(神……)
「海の神だ。この地域では『龍神様』と呼んでいる」
 マサキの脳裏に黄金に輝く龍が浮かんだ。
「それ以来、海難事故で命を落とす子供はいなくなりました。しかしやはり、事故は起こってしまう。それでもほとんど無傷で助かる。そして、海で溺れた子供たちは決まって言うんです。『龍神様に助けられた』と」
「『龍神様』ですか」
「あんた達は信じないかもしれんが、私はマサキくんも龍神様に助けられたと思ったいる。だからぜひ、お参りしてください。生きていて当たり前の世の中なんて、ないんだから」
 巡査の声は、たくさんの事故と死を見てきた悲哀が滲んでいた。
「いえ、必ずお礼を言いに行きます。マサキと一緒に」
 父がそう力強く返事をした。

 マサキは巡査の話を聞いて、確信した。
ナギは神様だったんだ、と。そしてマサキの命を救ってくれた。いや命だけじゃない。孤独なマサキの心が、ナギのおかげどれだけ救われたことか。ナギはマサキにとって神様である以前に、大切な友人だった。
 ナギに会いに行きたい。マサキは強くそう思った。

 しかし、マサキはあれから二度とナギに会うことは叶わなかった。
カケルと一緒にナギがいつもいた、あの海岸を見に行ったが、どこにもいなかった。そして同時に、今までマサキにしか見えていなかったあの得体のしれない化け物たちも見ることができなくなっていることに気がついた。
マサキはもう何となくわかっていた。自分は「見る力」を失ってしまったのだ。ナギは変わらず、あの海岸にいるのだろう。ただ自分が見ることができなくなっただけで。
マサキは悲しかった。だけど前を向いていこう決めた。ナギは最後にマサキに「もう大丈夫」と言ったじゃないか。
マサキは夏休みが終わるのを待たず、そのまま父とカケルと一緒に東京に帰ることにした。
東京に帰る前の日、こっそり立ち入り禁止の看板を抜けて、あの海岸に降り立った。ナギはいつも寝ていた木陰には、小さな祠が忘れれたように、ポツンと建っていた。

「あのね」
 東京へと向かう車の中で、マサキは隣に座るカケルに話しかけた。
「なに?」
 カケルが返事をする。しかし目線は手元の参考書に向けられたままだ。母が亡くなってから、カケルは塾を辞めた。それからはこうして、家で参考書を開く頻度が増えた。
「おれね、友達ができたんだ」
「そうか。よかったじゃん」
 カケルが参考書を閉じ、マサキに笑いかける。
「どういう子なの?」
「金髪で、いつも黒い服を着ているんだ」
「ふーん。タカシと同じ学校の子?」
「ううん。おれよりうーんとお兄さんなの」
 マサキの脳裏に、笑顔のナギが浮かんだ。20歳くらいだと思っていたけど、本当はもっとずっと年上だったのだろう。それこそ、何百歳と何千歳とか、それぐらい。だってナギは神様だったのだから。
「年上ってこと?なにして遊んでいたの?」
 マサキの「友達」の説明に、カケルは明らかに戸惑い、声に心配の色が浮かんでいた。運転席の父にも、マサキたちの会話は聞こえているはずだが、父はなにも言わない。
「別になんにもしていなかったよ。ただ浜辺に座って、なんでもないことを話すだけだよ」
「それが楽しいの?」
「楽しいよ」
 なにを話したかなんてもうほとんど思い出せないくらい他愛のないことばかり話していた。そしてどのくらい笑い合ったか、思い出せないくらい笑い合った。
 記憶の中で、海が太陽の光を反射して、キラキラと光る。ナギとの思い出も同じくらいキラキラと輝いていた。
「まあ、友達になるのに年齢は関係ないか」
 カケルが一人納得したように頷いた。
「どうして仲良くなったんだ?」
「なんでも、包み込んでくれる感じの子だったんだ。なんか海みたいな。だからその子には、なんでも話せて」
「心が広いってこと?いいじゃん。いい友達だね」
「また会いたいんだけど」
 マサキが呟くと、カケルが微笑む。
「じゃあ、また来年の夏も一緒に来ようよ」
「ううん。もう、いいの」
「どうして?」
「だって、会えないから」
「引っ越しでもしちゃったの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
 マサキは両手を膝の上で固く握りしめた。ナギはずっとあの浜辺にいる。でも、マサキが行っても会うことはできない。
「もう、二度と会えないんだ……」
 マサキの拳の上に、涙がポタリポタリと落ちる。
 そんなマサキを見て、カケルはどう声を掛けたらよいか戸惑っている様子だ。おずおずと手を伸ばし、マサキの頭を撫でてくれる。すると、今まで黙っていた父がおもむろに口を開いた。
「まぁ、そういうこともあるかもな。俺も小学生のとき、友達が隣町に引っ越しちゃってさ。電車行ったら一駅しか離れていないのに、その一駅が小学生には越えられない距離だったりするんだよな」
 車は海沿いの国道を走る。窓からはどこまでも続く地平線が見える。
「『ずっと友達だよ』なんて、言っていたのに、結局、引っ越しをしてから一度も会えてないんだよなぁ」
 父はまっすぐ前を見つめながら、呟くように言った。きっと頭の中には、その時の友達が思い浮かんでいるに違いない。
「そんなもんなの?」
 カケルがマサキの頭を撫でながら、父に尋ねる。
「今はケータイとか、色々あるけど、父ちゃんたちの時代はそんなものないし、ずっと繋がっていることなんてできなかったんだよ」
「そうなんだ」
「でも、そいつと過ごした思い出は、ずっと覚えているぞ」
 バックミラー越しに、父がマサキを見つめる。
「だから、マサキも覚えていて、その子の事を。そうすればずっと友達だよ」
「うん……」
 マサキは鼻をすすりながら、父に力強く返事をした。

 そしてマサキは今、20年ぶりにこの地を訪れている。タカシの結婚式に出席するためだ。式が終わり、礼服のまま誰にも見つからないようにマサキはあの海岸に来た。
あの夏から、マサキなりに一生懸命、生きてきた。時には心が折れそうになることだってあった。それでも頑張って来れたのは、ナギと過ごしたあの夏の日々が、マサキの心を支えてくれたからだ。
 マサキはすでにあの頃のナギの年齢を超え、背だってきっと抜かしている。あっという間に「大人」になってしまった。
「ナギー!」
マサキは水平線に向かって叫んだ。太陽が今まさに、海に顔を沈めようとしている。赤く染まる水面が、キラキラと光る。
「ずっと、友達、だよー!」
 マサキは力の限りに叫んだ。どうか届きますように願いを込めて。しかし返事はなく、カモメの鳴き声が聞こえるばかりだ。それでもきっと、ナギは笑ってくれているに違いない。「マーくん、大きくなったなぁ」なんて言いながら。

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