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戦争孤児だった祖母の話

私が幼かった頃、祖母の家の食器棚に、卵の形をした桃色の文鎮がありました。私はその文鎮が何故か気に入り、よく光を透かして遊んでいました。そんな私の様子を見兼ねたのか、ある日、祖母が言いました。
「これは、空襲で焼け崩れた家に残っていたものなんだよ。もしばあちゃんが死んだら、あげるからね。それまではばあちゃんが持ってるね。」
私はその時、「空襲」が何なのかよく分かりませんでした。しかしよくよく見ると、確かにその文鎮には黒く焦げたような跡があったのです。

それから月日は流れ、去年の冬に祖母は亡くなりました。そして私は祖母としていた約束を果たしました。
数年ぶりに手にした文鎮はズシリと重く、相変わらず美しい桃色をしていました。


戦前の暮らし

祖母が生まれたのは、浅草•浅草寺のすぐ裏側でした。小さい頃の遊び場はもっぱら浅草寺の境内だったそうです。
当時の浅草と言えば東京随一の繁華街。祖母の幼少期はとても華やかなもので、よく家族で芝居や映画に出かけていたそうです。
祖母の家族は、祖母の父、母、妹二人と弟、そして祖母自身の6人家族でした。祖母のお父さんの職業は定かではありません。しかし耳に障碍があり、その為徴兵を逃れることになります。一方、お母さんは芸妓さんの髪結を生業としていました。親戚には芸妓さんや女優さんもいたようです。

太平洋戦争が始まり、東京大空襲が起こる

戦争末期になってくると、アメリカ軍は空襲を頻繁に行うようになりました。初めは軍地基地や武器の製造工場を狙ったものでした。しかしそれは次第に、大きな市街地にも及ぶようになります。
1945年3月10日未明、過去最大の空爆作戦が実行されました。東京大空襲です。午前1時21分、第一弾の爆弾が落とされ、空爆はそれから約2時間半続きました。落とされた焼夷弾は約32万7千発。東京の下町は木造の住宅がひしめく様に立っている為、火の回りはあまりにも早く、台東区、墨田区、そして江東区を焼き尽くしました。そして、祖母の住む浅草も戦火を逃れることはできませんでした。
祖母はその時、学童疎開で蔵王にいました。だから助かったのです。もし祖母が浅草に残っていたら、祖母もまた空襲の犠牲になっていたに違いありません。なぜなら、空襲は祖母の家族全員の命を奪い、住んでいた家を焼き払ってしまったのですから。

空襲の翌日、祖母は浅草に帰ってきました。空襲があったからではありません。女学校入学の手続きの為、前々から帰ってくる予定だったのです。
蔵王から上野まで汽車で帰ってきて、上野から浅草までは歩いたそうです。今のようにSNSやテレビがない時代です。この時に初めて祖母は、故郷の惨劇を目にします。そして、当時通っていた富士小学校へ着きました。

ひとまず小学校へ避難した祖母はそこから、家族を探し始めます。
家は燃え尽きていて、燃え残ったのは文鎮や衣装箱などの僅かな日用品のみでした。家族はおらず、どうやら幼い妹と弟を乳母車に乗せて、早々に避難していた様子でした。しかし、どこにもいません。
生きて会うことはできないかもしれない。それでもひとめ姿を見ることができればと、祖母は家族を探し続けます。
遺体は道の脇に並べられていたので、祖母は一人ひとり顔を覗き込んだそうです。焼け死んだり、熱さに我慢できず隅田川に飛び込んで溺死したり、皆苦しみながら死んでいったのです。きっと、目も背けたくなるような光景だったに違いありません。それを当時12歳だった祖母は、家族を見つけたい一心で直視したのです。たった一人で、どんなに心細かったことでしょうか。当時の祖母の心境を思うと、胸が苦しくなります。
そこで祖母は墜落したアメリカ軍の飛行機も目にしています。中にはまだ兵士がいて、生きたまま燃える飛行機の中に取り残されていたそうです。しかし、誰も助けようとはしません。相手は憎き「敵国」だからです。一緒にその様子を眺めていたおじさんが「こんなに人を殺したんだから、当然の報いだ。」と言い放っていたそうです。
今聞いてもあまりに酷い光景ですが、それを語る祖母の表情にはなんの感情も浮かんでいませんでした。

結局祖母は家族を見つけることはできませんでした。今でも、家族は見つかっていないのです。この空襲で12万人が犠牲になったと言われていますが、正確な数字はわかっていません。
その後、祖母は親戚の家を転々とし、やがて祖父と結婚し、3人の子宝に恵まれます。

戦争は終わっていなかった

祖母の体験した戦争はあまりに悲惨なものです。その為、祖母は多くを語らず、私も自ら尋ねることはありませんでした。
しかし祖母は晩年、母に繰り返し、「お父さん、お母さんのが迎えに来ている」「お父さん、お母さんのところに行きたい」と言っていたそうです。
そのことを聞いて私は初めて気がついたのです。祖母にとっての戦争が12歳のあの日もまま、ずっと続いていたのだと。あの日から今も家族を求め、探していたのだと。ずっと、ずっと家族に会えるのを待ち望んでいたのです。

祖母はなぜ、家族も家も何もかもを失わなければいけなかったのでしょうか?
祖母のまだ幼かった妹や弟が何をしたというのでしょうか?
アメリカの青年はなぜ異国で誰にも悼まれることなく死ななければならなかったのでしょうか?

戦争はどんな大義名文があろうとも、悲しみしかもたらしません。
そして戦争で失われたものは、戦争が終わっても、もう二度と戻っては来ないのです。

私は戦争を体験してはいません。しかし祖母が浅草に帰って来るのが1日早ければ、この世に生まれていなかったかもしれません。そう思うと私も決して無関係ではないと感じます。
私は祖母から受け継いだあの文鎮を、私の子供たちにも祖母の話とともに伝えていこうと思います。そしてその子供たちにも、ずっと語り伝えてほしい。
これ以上、世界のどこでもこのような悲劇が繰り返されることのないよう心から願っています。全ては私たちの手握られていると思います。

参考文献:日本大空襲「実行犯」の告白―なぜ46万人は殺されたのか― 鈴木冬悠人著

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